外伝:勉強会
「アビエル様、この問題ですが、最初に定義の範囲を決めてから立式をした方がいいでしょうか?」
レオノーラが代数学の問題を書き写したノートとその下にある解法を見せながら、アビエルに身を寄せる。アビエルは、レオノーラの髪が自分の二の腕にさらりと落ちる感覚に、ぞくりと背筋に快感を覚えた。
「そうだな。定義を決めておいて、この場合は定義の区分けによって、2種類の式を作らないといけないから‥‥」
説明を聞き、「なるほど」と頷いて、レオノーラは零れ落ちた髪を耳にかけながら問題を解き始める。その真剣な横顔を見つめて、アビエルは心の中が満たされるのを感じた。ずっとこうして彼女の隣で過ごしたかった。何かに夢中になり、少し唇を尖らせて考え込む彼女を見ていると、その唇の柔らかさを想像してしまう。
「アビエル、タリク語のこの文なんだけどさ…」
アビエルは、眉間に皺を寄せて声のする方を見る。なぜかテーブルの向こう側にアルフレッドが座っている。さっき、夕食を終えてレオノーラに「試験勉強を一緒にしようか」と誘ったら、傍にいたアルフレッドやコルネリア、ルートリヒトまでもが部屋について来てしまった。
「アル、悪いが違うクラスの課題はよくわからないから無理だな」
「え~、だってアビエルとレオはクラスSだろ?俺はクラスAだよ?わからないはずないじゃん」
アビエルの冷たい対応に、アルフレッドが拗ねたように縋る。
「アル、私でよかったら聞きましょうか?」
レオノーラが微笑みながら声をかける。
「レオ様、私も教えていただきたいところがありますの!」
コルネリアが競うようにしてレオノーラの傍に寄ってくる。
「なんだよ、俺が先だからな。レオ、このタリク語の文さ、全然意味わかんないんだけど」
レオノーラが代数学が苦手だというので、部屋でゆっくり勉強しながら二人の時間を作るつもりだったのに、どうしてこんなことになっているのか。アビエルの眉間の皺がさらに深くなる。
アルフレッドが差し出した課題文を熱心に読むレオノーラの横顔に、楽しげな思案の表情が浮かぶ。一緒に授業を受けていて感じるが、彼女は本当に学ぶことが好きなのだ。新しいことを知ると、まるで素晴らしい宝物を貰ったかのように全身から喜びが溢れ出す。一度、「おまえは本当に勉強が好きだな」とからかうと、
「今まで何も知らずに生きてきたので、人より新しく知ることが多いのです」
と恥ずかしそうに笑顔で返してきた。その知る喜びを感じているすべての瞬間に一緒にいたいと強く思った。
「アル、これは南の海域で多くの諸島を発見した探検家クーリエの航海日記の一部ですね。この部分は、『自身が冒険に溺れ、家族を顧みず、旅をすること以外の全てを失った。航海を続ける上での後悔はそれしかない』と訳せますよ」
「難しいなぁ。特にタリク語は名詞に性別があるし、性別ごとに動詞が変わるし、意味わかんないよ。溺れるって、そういう意味か。この人が海で溺れた話かと思ってた」
「ふふふ。航海をして後悔するなんて、言葉遊びみたいですね」
レオノーラは特に語学がとても好きなようで、暇さえあれば授業に関係のない語学の本も読んでいる。
「でも、冒険に溺れるなんて羨ましいですね。私も海の向こうへ行ってみたいものです」
そう言ってアビエルの方を笑いながら振り向いた。いつか一緒に行こう、と言いかけたところで、コルネリアがレオノーラの笑みにうっとりとして呟いた。
「レオ様、私、どこへでもついて行きますわ」
彼女は手にティーカップを持ち、机の上にはすみれの砂糖漬けの瓶しかない。こいつは何をしにこの部屋へ来たんだろう、とアビエルは胡乱な目で見てしまう。そんなアビエルに気を利かせて、ルートリヒトが「そろそろお開きにしよう」と声をかけた。
・・・・・
「アビエル様、こんな風に誰かと一緒に勉強をするのは、良いものですね。人の疑問から気づくことも多いですし、何より同じ机を囲んでいるのがとても楽しいです」
レオノーラが笑みを浮かべながら、テーブルの上の茶器や菓子器を手際よく片付けていく。そして、トレーを手にして照れたような表情で少し顔を赤らめてこちらを向いた。
「学院へ連れてきてくださって、本当にありがとうございます。何もかもアビエル様のおかげです」
改まって言ったことが恥ずかしかったのか、そう言うと礼をしてトレーを持って部屋から出て行ってしまった。
何か言葉を返せば良かったのだが、彼女の嬉しそうな表情と感謝の言葉、自分に向けられた恥ずかし気な笑顔にアビエルは骨抜きにされ、とっさに何も言葉が出てこなかったのだ。
レオノーラが愛しすぎて、胸が痛い。
ソファに座り込み、目を瞑ってさっきの姿を思い浮かべる。この学院にいる間にもっともっと彼女が楽しいと感じることを経験させてやりたい。この夏には何ができるだろうか、と考えた。
それに‥‥レオノーラがこんなに喜ぶのなら、3回に1回くらいは彼らと一緒に勉強をするのも、まぁ悪くないだろう、と心の中で呟いた。
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