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水蜘蛛  作者: 漆原康弘
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影踏み

敬愛する人物を数名、常に心に留めている。

しかし彼等が必ずしも私と同じタイプとスタイルで大成した人物とは限らないのが悩ましい。



ある先達に強く惹かれたとして。

私の心を掴んで放さないくらいの"好き"がそこにあったなら、何故興味の対象であるかを、先達の何を敬愛しているのかを、まず考えるよう心掛けている。


良いモノがそこに在って、本能がそれを不思議と心地好く感じた時、何故それが私に快感をもたらしたのかの思慮を廻らせるのは、私の癖である。

良きを作り上げた人の意図や策や趣向を想像することで、作り上げた本人に魂で触れ、同時に、私の精神に確かに備わってはいるものの、どこか得体の知れない"興味センサー"が反応した"正体"を突き止め、"正体"から逆算し、私自身が何を良しとしているかという"興味センサーの指向性"の分析にも繋がる。

こうして放出する側の本質に触れたついでに私のなんたるかを理解する作業が好きなのである。



敬愛とは熱を帯びた憧れだ。

だが、私がその敬愛する人物に成り得るか否かはまた別の話である。

自身がそうなれる要素を持ち得ているか、または持ち得る可能性を秘めているかどうかは、自己分析と比較し分別を付けなければ、分不相応な歩みの果てにデッドエンドにぶち当たる。

たとえ失敗しようがやり直せば良いだけであるし、そこに至るまでの過程は決して無意味ではないと言いたいが、この言葉の中の真意の半分以上は綺麗事だとして現実味を持たせたい。

探すだけならまだしも、実際に踏み入れるってのはシビアな選択だと知っている。

度胸で突撃し玉砕する覚悟を備えていれば慎重に病むことはないだろうが、臆病もまた弱き者の処世術であって、決して悪い性質ではないはずだ。

ただし無知での突貫は意地が赦さない。

だからなるだけ考え、思慮を廻らすのだ。

今目の前にある良いモノは私の延長線上にあるのかと。



自分と同系統に属する先達との廻り合わせは革命だ。

偏りながら生きて中で同種との稀な遭遇は、苦心惨憺してきた知恵の輪がある拍子で突然解けてしまう瞬間に似ている。


偏った精神を良しとされない世間(これは横暴な表現だが)では、淘汰に耐え抜き偏りを貫いた大先輩の存在は有り難い。

ただでさえ無数に存在する主義主張の中で、私のような未熟で屈折した個人に将来合致しそうな、より絶対数が少ない手本との遭遇を半ば諦めに近い模索の中で発見した衝撃たるや、革命としか言いようがない。

きっと科学者が人類未踏の理論を立証した瞬間はこの類いの感覚に沸き立つのだろう。

況してや完結した過去の人でなく、存命の人物で、これから彼の未来をリアルタイムに追従できる楽しみもあるのだから尚更だ。



彼を読み取れば読み取る程、溺れながら得て来た思想と理論と哲学を、瞬く間に巧みな手法と表現で繋げていく。

ただの無い物ねだり的な好きや尊敬に留まらない、私の延長線上に確実に彼が居るという実感。

模倣の段階を既に必要としない域の近似値。

私がどうあるべきかを確認する例として刮目するにはこれ以上ない距離である。

尊崇に値する一生モノの心の師だ。

つくづくこの時代に生まれて良かった。




礼節の喩えとして三歩下がって、という言葉があるが、喰らいついてでも影を踏んでやるくらいの強かさは必要なんじゃなかろうかと意気込む一方で、踏み締めることに対する貧弱さの狭間に、私はいつも身悶えている。

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