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水蜘蛛  作者: 漆原康弘
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味蕾日記

小学時代。

連休だったか夏休みだったか定かでないが、季節は夏だったはずだ。

友人のお宅へ所謂、"お泊まり"した時の事である。



初めて私単独での外泊は、夜を通して暇なく遊び尽くせるという期待で満ちていた。

向こうが遊びに関するアレコレをエスコートしてくれるとあって、私達訪問者は着替えだけを拵えて臨んだ当日の夜、事は起こった。

夕飯である。


訪問先のご両親が同席した晩餐。

私は朦朧とした。

何故なら、私は両親と、家族揃って、団欒という食卓を囲んだ経験が無かったからである。

未知の儀式が目の前で繰り広げられる様を見ながら私はただ瞠目していた。

父親と母親が談笑し、子供がそこに口を挟み、それに対して反応がある。

この流麗で不思議と温かいエンターテインメントを眺めていると、人見知りする友人達もどうにか遅れて、然れど溌剌と加わるのである。


私はそこに加わる術を持たなかった。

今省みるに、祖母は昔は古く厳しかったので箸遣いやマナーについては仕込んでくれていたから食卓に於いて粗相は無かったろう。

だが当時の私はもっと根本的な、家庭という営みそのものを知らなかったのである。

この温かい一般家庭を、他を知り、私の環境が特殊であると察した瞬間だった。

基本的に一人で食事を摂り、極々稀に家族揃ったかと思えば黙って食べ、平らげたら解散。

思えば食卓以外に於いてもそうだった。

両親は、特に父は私に干渉しない。

語らないし笑わないし叱らない。

私をそもそも見ないのである。


そんな思慮を巡らせながらの、他人の食卓はまるで公開処刑だった。

私の異常さを勘繰られまいと戦々恐々しながら温かい物体を口に入れ、適度に咀嚼し、飲み込む作業を、正確さを意識しながら繰り返すのだから、どの料理も味なんてしなかった。

この食卓の間、快活だった私はデータの如く断片残らず抹消され、会話の隙間にキレよく滑り込む機転と狡猾さを無くしていたのである。


この直後の、夜を通した遊びではどうにか快活さを再臨させてどうにか楽しむことができたのだが、友達だった彼等を果てしなく遠く感じた。

彼等は私に無いモノを当たり前のように持っている。

決して努力で血肉としていくような後天的カテゴリに無い、遺伝子レベルでの先天的な幸福を当たり前のように持っていたのである。


一言添えておきたいが、私は不幸ぶっているつもりはないし同情を乞うているわけでもない。

不足を補うべくして不足とは何かを明確にしているだけ。

発信の意図ではなく自戒である。



今では食卓を当たり前のように楽しむことができるが、この事件の後暫くは給食ですら緊張したのを覚えている。

それまでに給食を皆と楽しむ感覚を持ち合わせていたので、平常運行に修正するのに対して時間も苦労も無かったのは幸いである。


大学なんかで独りで食事を摂る行為が恥ずかしくて隠れて食べる、ような感覚は全く解らない。

私はずっと独りで食べて育ったから慣れているし、他人と食べるコミュニティ形成能力がなければ恥ずかしい的な強迫観念に迫られていないからである。

ただ、食卓は社会の縮図だとは思っている。

会話も楽しむ為の動作との間や気遣い、箸遣いや箸先三寸のように知っている人相手にはバレて恥を掻くマナーの数々、味覚に対する豊かさと繊細さ、或いは豪胆さ、食文化に対する教養。

私自身が上手く立ち回れる気はしないが、端から見ていて食卓を征する者は社会性を征しているような印象を、様々な人との会食を通じて得た。

食事が美しい人はそれだけで信用してしまう節が私の中にあるくらいだ。




ともかくこうして、ある食卓から私は始まった。

私は欠如している。

本来与えられるべきモノを持っていないか、または"不知"という落ち度に依って掴み取れていない自己責任の成れの果てか。

では、私は何が欠如しているのだろう。

私の知らない常識とは何だろう。

そして何を持っているのだろう。

それを知る為には先のように他人を知り、次いで自らを知る必要があると本能で理解した。


決して表に出す事敵わない、影なる闘いの始まりである。

あくまでも平静を装いながら。

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