第1話 一族の恥と呼ばれた日
白い花弁を、一枚ずつ確かめる。
傷んだものを抜き、茎の断面を斜めに切り直す。
水を吸い上げやすくするためだ。切り花を長持ちさせる基本。
――前世では、手術前にこうやって手を動かすことはなかった。
あの頃の私は、滅菌手袋をはめて、術野に向かっていた。
花の手入れも悪くない。
少なくとも、血は出ない。
「お姉様のほうは今日も魔力灯に反応しなかったそうですよ」
背後の廊下から、使用人たちのひそひそ声が聞こえた。
足を止める気配はない。聞かせるつもりもないのだろう。
ただ、壁一枚で遮られた控えの間にいる私には、筒抜けだった。
「妹君はあんなに素晴らしい魔力をお持ちなのに。同じ血とは思えませんわ」
「今日はマリエル様の成人式ですもの。お姉様はきっとお辛いでしょうね」
辛くはない。
慣れている――いや、違う。
正確に言えば、もう計算に入れている。
私は花瓶を持ち上げ、大広間に運ぶ。
フォルテシア家の紋章が刻まれた扉を押し開けると、金色の魔石灯が天井から何十と吊り下がり、広間を昼のように照らしていた。
招待客がすでに席を埋めている。
貴族、聖教会の関係者、王宮の文官。
この国で「治癒」に関わる人間の大半が、ここに集まっている。
私は広間の端に花瓶を置いた。
裏方の仕事は、ここまで。
正面の壇上に、妹が立った。
マリエル・フォルテシア。十八歳。
金の髪が魔石灯を反射して、まるで後光のように光っている。
その前に置かれた魔力灯――拳大の水晶球に、マリエルが手をかざす。
水晶が爆ぜるように輝いた。
白。
ただの白ではない。広間全体を塗りつぶすほどの、白。
招待客たちがどよめき、次の瞬間、割れんばかりの拍手が起こった。
「素晴らしい! フォルテシア一族史上最高の魔力だ!」
「これほどの治癒師が現れるとは、聖教会にとっても僥倖です」
私は広間の隅で、右手の指を折った。
親指、人差し指、中指、薬指、小指。
五本を順番に。
前世の癖だ。手術前に、指の感覚を確かめるためにやっていた。
今は意味がない。でも、心を落ち着けるには十分だった。
壇上から降りたマリエルが、こちらに歩いてきた。
碧い目が私を捉える。
その目に浮かんだ色を、私は読もうとした。
――一瞬だけ、何かが揺れた気がした。
唇がわずかに開きかけ、すぐに閉じる。
「姉さまもお祝いに来てくださったの?」
声は平坦だった。
目線が私の手元――花瓶のそばに置いた剪定ばさみに落ちる。
「……ああ、花の係でしたわね」
そう言い残して、マリエルは招待客の輪に戻っていった。
背を向けた妹の肩が、ほんの一瞬だけ強張ったように見えたのは、気のせいだろうか。
確証はない。
だから、追わない。
今日この日に、追うべき場所は別にある。
*
成人式が終わり、招待客が去った後。
使用人に呼ばれ、私は父の書斎に向かった。
重い樫の扉を開ける。
書斎の中央に、父――ヴィクトル・フォルテシアが立っていた。
白髪交じりの銀髪。深い皺の刻まれた額。
王宮筆頭治癒師の礼服を、まだ脱いでいない。
その横に、もう一人。
恰幅の良い体に豪奢な衣装を纏った男。
アルベール・カルディア公爵。
私の――婚約者の、父親。
「座りなさい」
父の声は、いつも通りの低音だった。
命令口調。感情の色はない。
私は促されるまま、椅子に腰を下ろした。
「本日をもって、カルディア家との婚約を解消する」
予想通りだった。
マリエルの成人式という晴れの日に合わせたのは、一族にとってこの宣告が「祝い事の一部」だからだろう。
厄介払い。
不良品の処分。
「また、フォルテシアの名を名乗ることも禁じる」
追放。
これも、予想の範囲内。
カルディア公爵が腕を組んだまま、鼻を鳴らした。
「魔力のない娘に用はない。余の息子に傷がつく前に始末できて何よりだ」
始末。
人をまるで不良品のように言う。
いや、この人にとっては実際そうなのだろう。
利害で動く人間の言葉に、怒りを覚えても仕方がない。
私は黙って座っていた。
黙っていると、父が眉をひそめた。
「何か言うことは」
あった。
一つだけ。
私は懐から手帳を取り出した。
革表紙の、小さな手帳。
中には前世の記憶を元にした解剖学的な所見と、この五年間で私が独自に観察し続けた記録が詰まっている。
「私が治癒魔法を使えないからこそ、治癒後の患者さんを観察する時間がありました」
声は落ち着いている。
震えてはいない。
「お父様が過去五年間で治癒した患者のうち、少なくとも十二人に術後の異常所見があります」
カルディア公爵の目が細くなった。
父は微動だにしない。
ただ、手帳を見つめている。
「記録は全部残してあります。再検査してみてください」
沈黙が落ちた。
書斎の魔石灯が、じりじりと小さな音を立てている。
父の目が、一瞬だけ変わった。
何が変わったのか、正確にはわからない。
瞳孔がわずかに開いたのか。それとも、視線の焦点がずれたのか。
ただ、五年間この人の顔を見てきた私には、それが「動揺」に近い何かだとわかった。
一瞬だった。
次の言葉が、それを塗りつぶした。
「戯言を。魔力もない者が何を診たというのだ」
低く、硬い声。
手帳には目もくれず、父は視線を窓に向けた。
「下がりなさい。明朝までに荷をまとめろ」
私は立ち上がり、一礼した。
書斎を出る直前、背中に視線を感じた。
振り返らなかった。
けれど、足音が一つも聞こえなかった。
父は、私が扉を閉めるまで、こちらを見ていたのかもしれない。
*
夜明け前。
フォルテシア家の門の前に、革鞄を一つ持って立った。
中身は確認済みだ。
前世の医学知識を書き写したノートの束。
骨を削って作った簡易メス。
縫合用の針と、丈夫な糸。
消毒用に蒸留酒の小瓶を一つ。
着替えは最低限。
門の向こうには、まだ薄暗い街道が伸びている。
振り返ると、屋敷の窓は全て暗かった。
見送りはない。
当然だ。
「……次に会うときは、データで証明します」
声に出した言葉は、白い息になって消えた。
馬車乗り場に向かう。
早朝の乗合馬車はいくつかの路線があった。
私が探しているのは、一つだけ。
治癒師がいない場所。
魔法の手が届かない、辺境。
乗合馬車の荷台に腰を下ろすと、隣に座った商人風の男が欠伸をしながら話しかけてきた。
「嬢ちゃん、こんな朝早くにどこまで行くんだい」
「北東の方面へ。どこか、治癒師の少ない街はありますか」
「治癒師の少ない? 少ないどころじゃないな。グランメルって街は一人もいないよ。ここ何年も巡回の治癒師が来るだけでね。最近じゃ原因不明の病人が増えてるって話だ。物騒な話さ」
原因不明の病人。
その言葉に、私の中で何かが噛み合った。
原因不明ではない。
おそらく。
「グランメルまで、何日かかりますか」
「馬車で七日ってとこだな。辺境だよ、何もないぞ」
何もなくていい。
必要なものは、この鞄の中に全部ある。
馬車が動き出した。
石畳の振動が背中に伝わる。
王都の街並みが、ゆっくりと後ろに流れていく。
前世の私は、大学病院の手術室で命を救い続けた。
年間五百件。
十年以上。
そして最後は、自分の脳の血管が破れて死んだ。
三十六年の人生を終えて、目を開けたら赤ん坊だった。
銀灰色の髪の、魔力ゼロの、名門治癒師一族の長女。
二十二年かけて学んだのは、この世界の治癒魔法が「見た目だけ治す」危うい技術だということ。
今度は、病院の外で戦う。
メスと、知識と、この手だけで。
馬車の揺れに目を閉じながら、私はもう一度、右手の指を順番に折った。
親指。人差し指。中指。薬指。小指。
感覚は、良好。
グランメルまで、七日。
その間に、器具の手入れと症例の整理を済ませておこう。
窓の外で、朝日が街道を橙色に染め始めていた。




