7.犬になった話⑫
悪魔が犯した、彼にとっての「大罪」。
召喚者が水道橋から姿を消した瞬間、光速で走って、中空で彼女を捕まえたカイムは、気絶した彼女を袂の盛り土の上に寝かせた。
気を失い目を閉じて静かに眠るミラー。目を開けた時、悪魔のことを思い出したら、彼女は再び、自ら命を絶とうとするだろう。なぜだかはいまいちよく分からないが、それが確実なことは分かる。カイムは跪いて、橋脚に寄りかかる彼女の顔を見つめた。召喚されて以来、こんなに近くで彼女の顔を見たことは無い。思わず右手が伸びて、彼女の頬に触れようとしたのを、左手で制止した。
悪魔にはもう選択肢が一つしか残されていなかった。彼は日本刀を少し抜いて、その刃で自分の指を撫でた。血が滲んだのを確認して、もう片方の手で上着の内ポケットからオリアスの薬を出し、歯で栓を抜いた。血液を試験管に垂らすと、透明な液体と混じってまだら模様をつくった。
悪魔は、栓を吐き捨てると秘薬を口に含んだ。
――……ミラー……ごめん……
彼は、世界で一番大事な人の両肩を、ほとんど触れているだけのように優しく掴み、キスをして彼女の体内に、薬を流し込んだ。
その後、彼は自分のジャケットを布団代わりにミラーへ掛けると、彼女が目を覚まさないうちに、その場を後にした。
犬小屋に帰ったカイムは、大の字に横になり、瞬きも忘れて天井を見上げた。
〈よう、キスは気持ちよかったかい?〉
悪魔は、横になったまま日本刀を手探りで取って、鞘を抜いた。そして刃を両手で掴んで、自分の腹に突き立てた。
〈口移しでなくとも、他にやり方を探せばあったろうに……〉
〈まあまあ、こいつは常にそれしか頭に無かったんだから、他に思いつかなかったんだろ〉
〈この強姦魔!〉
彼は一度刀を抜いて、先程よりも勢いよくもう一度腹を刺した。
〈じゃあ、他にどうしたら良かったんだよ。他に方法があったっていうなら言ってみなさいよ〉
〈んなことあ、どうでもよろしい。とにかく、いやらしい気持ちを一瞬たりともよぎらせることなく、ことを終えるのは、この悪魔には不可能だった、ということだけが真実〉
悪魔は三度自分の腹を刺した。
〈だが本当に悪いやつは、この悪魔じゃない……〉
〈え? だれだれ?〉
〈お姫様を悪魔に汚されるままに捨て置いた、王子様だ……〉
〈確かに。これまでずっと、彼女は悪魔に取り憑かれていたのに、そいつは一回も助けに来なかった〉
〈これでミラーのことをいくら「愛してる」なんて言ってもねえ〉
〈こいつはもう、王子様を断罪してやるしかねえなあ〉
〈やれやれやっちまえ〉
〈どちらにしろ、この悪魔はもう、自分の女神様への「愛」が王子様のそれよりも、大きいってことを示す以外に、プライドの持ちようがないからな。この道を進むしかねえよ〉
悪魔の頭は、もはや自分に残された、たった一つの仕事で頭がいっぱいだった。そうやって、他のことを考える余地を自分に与えないようにしていたのである。
――王子を殺す。会ったら絶対に、殺す。王子が彼女を好きなはずがない。だって、これまでずっと、彼女は悪魔に取り憑かれていたのに、そいつは一回も助けにこなかったじゃないか。悪魔の私は彼女を理解できずに、絶望に追い込んだ。しかし、お姫さまになるべき人を絶望から救えなかった王子だって、同罪のはずだ。
万が一、王子がミラーを愛していると言ったとしても、どうせ口先だけに決まっている! 私が誘惑して、王子の本性を暴いてやる! 王子が悪魔に落ちた瞬間が、やつの死だ!
三日後、予定通り訪れた友人に、オリアスは約束の服を用意した。着替えに手を貸し、化粧してやりながら、彼女は友人の様子がおかしいことに気づいた。
「……カイム、そんな怖い顔をしていたら、女の子に見えないよ。もっと優しい顔で笑って……」
カイムは一点を見つめたまま、返事をしなかった。オリアスはため息をついて、それ以上何も言わなかった。
女装したカイムは、立て続けに起こった惨劇で喪が開ける暇もない、エピフィルム家の屋敷を訪れた。そして中に忍び込み、ユリエットの葬式以来、引きこもったままの家長の書斎の前に立った。彼は低い声で呪文を唱えてドアの鍵を外すと、ノックもせずに開け、中に入った。
「誰だお前は」
泣きつかれて驚く気力もない家長は、突っ伏していた机から顔をあげて、知らない少女を見た。
彼女は後ろ手にドアを閉めると、茶色の長髪のかつらを取った。
「私です」
聞き覚えのある声。よく見れば、この前の銀髪の男娼である。彼は、かつらをかぶり直して、その場にひざまずいた。
「私を養子にして、ユリエットの次の候補者にしていただけませんか」
「何を言っているんだ」
見知った顔が、我が家の財産を狙ってくだらない提案をしてきただけだと思った彼は、再び机に顔を埋めようとした。
「ユリエットを殺めた犯人を罰したくはないのですか」
「……心当たりがあるのか」
悪魔の一言で、男は顔を上げた。
「……私を買ったことがある貴族の中に、それらしいことを企んでいる人物がいました。女装した私を新しい候補者にすれば、犯人はおとりに釣られて、また刺客を送ってくるでしょう。そこを捕まえます」
最愛の娘を亡くし、焦燥しきっていた家長は、悪魔の提案を冷静に検討する精神的余裕もなく、つぶやいた。
「……犯人を捕まえるまでだぞ。捕まえたら候補者から外すぞ。万が一にも、男のお前を王子の婚約者にしてしまったら、この家が潰されてしまう」
「当然です」
カイムは持参した書類を手に、かつて自分を買った男が座している書き物机の前に立った。悪魔が、自分の偽名を入れた養子届けと、後見人の欄だけを空欄にした選考会の立候補届を机に置くと、彼は黙ってサインをした。
カイムは書類を受け取った瞬間、光速で彼の背後に回り、首元をペーパーナイフで刺した。それから即死した家長の手に凶器を握らせると、借り物のスカートを翻して、窓から部屋を後にした。
数日後、自殺と断定されたエピフィルム家の家長の葬式が終わると同時に、彼の弟がその座についた。新しい家長は凄惨な事件が続いている中で、自分の娘をお姫様候補にしたくなかったので、亡き兄が最後に残した養子が、引き受けてくれるのを喜んだ。
7月27日に、間違って先に最終話を投稿しておりました。
お読みくださった方には、混乱させてしまい、申し訳ございません。




