5. 失われた記憶の断片 Ⅲ
以下の記述は、三千年も記憶を保持できる、悪魔や天使にすら忘れられてしまった、遠い昔の記憶の断片である。現在を生きる我々が、現在の地球をいくら調査しても、これらの記憶について、いかなる遺跡のかけらも見つからない。
この世界は、神が見る夢である。夢の中では、歴史の集積すら、同一性を保ち続けるとは限らない。神は自身の夢の中で、誰にも気づかれないようにそっと、古代の地層や、遺跡、いにしえの文書を、書き替えてしまうことがある。
天使や悪魔たちの、自分でも忘れてしまった遠い昔の経験は、我々が現在の地球を調査した結果、信じている歴史とは全く異なるものであるかもしれない。
ある日の早朝、サリエルが二人の弟子が寝起きしている小屋に様子を見にいくと、青い目の弟子が、戸の横でうずくまって船を漕いでいるのを見つけた。
「カイム、朝じゃぞ……何でそんなとこで寝とるんじゃ」
師匠が身体をゆすると、弟子は眠たそうな目を開けた。
「ベリアルが、お花と二人きりになりたいです。僕は外で寝るよう言われました」
「まったく、ベリアルはしょうがないのう…」
その時、突然小屋の引き戸が動き、赤い目の弟子が現れた。彼はしばらく虚ろな目で口を開けたまま立っていたが、突然、声を上げて泣き出した。
「ベリアル、どうしたんじゃ」
「彼女があ、いなくなりましたあ……」
どうにかそれだけ報告すると、彼はさらに大声で泣いた。うるさくなった青い目の弟子は、大きな欠伸をしてゆっくり立ち上がると、師匠に大声で質問した。
「お師匠、お花畑に行って、それから川に漬かってきてもいいれすかあ」
師匠も大声で答えた。
「お花畑に行くのはいいが、川はおぼれないように気をつけるんじゃぞ……あと川に行ったら、お尻だけじゃなく、顔も洗っときなさい。もうすぐ朝ごはんにするから、あんまり遅くなるんじゃないぞ」
「あい」
サリエルは、花畑に走り去る弟子を見送った後、もう一人に向き合った。
「……ベリアル……植木鉢に咲いてる花が勝手にいなくなるはずなかろう……また……おまえが食べちゃったんじゃないのか」
赤い目の弟子はようやく静かになったが、しゃっくりは残った。
「……ふぁい、食べましたあ。どうして彼女はいなくなったですかあ……」
「おまえが食べたからじゃ」
「俺は彼女が好きれす。好きだから、誰にも渡したくありません。だから、誰かのものになる前に食べます。そしたら彼女がいなくなります。どうしたらいなくならないですかあ……」
「……ベリアル……おまえは喧嘩は強いし、みんなを惹きつける魅力を持っているが、反面とても脆い……カイムがおまえの植木鉢に水をやっただけで、あの子を突き飛ばしたことがあったろう…」
「あいつのおかげで、俺のお花が元気になるのは嫌れす」
「……そういうところじゃぞ……」
サリエルは、弟子の目の高さに合わせるように腰を落として、彼の両肩に手をのせた。
「いいか……ベリアルもカイムも……いつかは、お花じゃなくって、人間を好きになる時がくる……人間はなあ……おまえらと同じように、誰かを好きになったり、嫌いになったりする……いくら、おまえが好きだと言っても、相手は受け入れてくれない可能性があるんじゃ。そういう時に……」
「……やだ……俺は、好きになったら必ず食べるのれす……」
「ベリアル……食べたら無くなってしまうんじゃぞ。どんなにすてきなものも、完全に自分のものにしてしまったら元の価値を失ってしまう。自分の一部になってしまったら、もう崇める対象じゃなくなっちゃうからな。お前も、自分の右手を好きになったりせんじゃろ。完全には自分のものにならないからこそ、好きな人っていうのは、お前を魅了するんじゃ」
「……いやだ……俺は彼女のすべてがほしいし、俺を離れて他のやつのところに行ってしまうのもいやだ……」
「ベリアル……」
サリエルは、弟子を何と諭すべきか分からなかった。そもそも説教自体、無益な気がしてきた。しばらく、師匠は弟子のしゃっくりを、黙って聞いていた。
やがて、ベリアルが口を開いた。サリエルにとっては意外にも、感情にまかせた口調ではなく、考えた結果、選ばれた感じのする言葉だった。
「……好きな人が俺以外を選ぶ前に、彼女の周りから、すべてを無くしてしまえばいいと思うのれす。どんな相手でも、世界に俺と彼女しかいなくなれば、彼女は俺を選ぶしかなるしかなくなると思うのれす……そして世界に俺と彼女しかいなくなれば、それは彼女のすべてを手にしていることと同じだと思うのれす」




