表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

22/75

4.世界⑨

赤い池からあふれる声たち


 三十五人目の人間を池に葬り、すっかり慣れた手つきで着物をすくって縁の下に投げた悪魔は、池の縁あたりに、妙な落ち葉が漂っていることに気づいた。見ると、すでに池の底に沈んでいる和菓子屋の主人とその孫娘に渡した簪である。彼は着物の袖を捲って、かつての自分の持ち物に手を伸ばした。

「おまえ、わしら親子になんてことをしてくれたんじゃ」

 クロセルは辺りを見まわした。

「すいませんが、どこから喋ってるのか教えてくれませんかね」

「あら、ここからに決まってるでしょう」

 声は、下から聞こえる。悪魔が、赤い液体に左手を差し込むと、声はより鮮明になった。

「そう、そこ。ちょっと話があるから、お主も入りおれ」

「えー」

「えー、じゃない。おまえさん、この池や島の言い伝えに関して、あれやこれや調べとったろう……それについて、有益な情報を提供してやれる。この池に落ちた人間は、おまえさんも知っておる通り、肉体は溶けてなくなる。だがなぜか、声だけは残るんだ」

 そこで、急に別の二つの声の横槍が入った。

「私は聴力も残ってるけどな……」

「出た。自称聴力持ち……」

 クロセルは、会話の主をはっきりさせようと確認した。

「私に話しかけている人のお声から察するに、あなた、和菓子屋のご主人でしょう。それなら、あなたにお聞きできることは、店先ですでにさんざん伺ったと思いますが……」

「わしは、和菓子屋の主人と言われれば、そうのような気もするが、その店の隣のお香屋、つまりおまえに素晴らしい香木があると言われてここへ連れてこられた挙句、小汚い鋤の柄で突っつかれて落っこちたやつのような気もするし……今から三百年前に、おまえさんのような……一見とても綺麗な魑魅魍魎に、ここへ投げ込まれた人間のような気もしている……」

「さっき「わしら家族」っておっしゃいませんでしたか」

「あー、誰かそんなこと言ったかなあ。しかし、その声が、今喋ってるあたしと同じっていう証拠はないわ……とはいえ、今のわしは……何となく……黒い魑魅魍魎のひどい仕打ちにも関わらず、彼のことを忘れられない和菓子屋の孫娘が、おじいさんのフリして喋ってるような気になってる……やっぱり、わしのセリフだったんかなあ……」

 クロセルはため息をついた。

「……この池、私が調べて以来、深さは変わってないですよね」

「ああ、変わっとらん。入浴するのに、ちょうどいい深さじゃよ」

 彼は髪をまとめて紐で縛ると、着物を脱いで、つま先を赤い粘性のある液体につけた。そして、顔をしかめた後、ようやく池に肩まで身を沈めた。

「……誰かさんのおかげでここに沈められ、身体が溶けて声だけになった和菓子屋の主人は、それでも自分を見失うまいと必死でした……ああ、どうしていなくなった孫娘の居場所に連れてく、なんていう魑魅魍魎の言葉を信じちゃったんじゃろう……でもある意味では、その通りだったでしょ。ここでは常時、幾多の声が次々に浮かんでは消えている。赤い液体に触れた者しか聞こえんがな。彼は、その中から自分の声と思われるものを必死に選別し続けたの。この声は他の声とは違って、自分がしゃべってる感じがあると自省してみるとか、感じがあてにならなくなると、この声は和菓子屋の主人しか知らんことを話してるから、これはわしの声じゃろうと判断したりとか、そんな調子じゃ。

 ある時、和菓子屋のご主人と思われる声が、ひとつのくしゃみの所有権をめぐって、ある声と争った。結局、決着はつきませんでした。相手の声の主が身の上話を始めると、なんとびっくり、彼は十年前にこの山へ山菜を取りに行ったきり失踪した、和菓子屋の主人の息子だったのです。山菜の収穫を終えた息子さんは、そこのあばら家で酒を飲み、酔っ払ってここへ落下しちゃったんだね。これを聞いた父親は、声の所有権を争うことが、急に馬鹿馬鹿しくなったと言い出した。自分のやっていることが、彼が餡を練り、息子がこねた皮で包んだまんじゅうを、自分の作だと、必要以上に主張しているのに似ていると感じたと言うんだよ。それ以来、彼はどの声が誰の声であろうと、気にしないことに決めたと宣言した。

 声の所有権を手放すと同時に、彼は、氏名や生年月日、池に落ちるまで誰とどんな暮らしをして、どんな思い出があったかといった、経歴も全て手放すことになった。肉体も、所有権を主張する声も持たない者に、帰属できるものなんてないからな。

 不思議なもんで、肉体も声も経歴も失ってみると、わしは逆に、沼の全部の声が自分のもののような感じがするんじゃ……声を自分の意思で発しているという手応えはないものの、全ての声が然るべき時に、そうであって欲しい仕方で発せられている感じがする…。誰か知らんがいいこと言う、その「わし」が私ならな。あら、感じなんてあてにならないじゃない。そうだ、百歩譲ってその感じがあったとしても、一分前に感じを持った人と、一分後に感じを持った人が同じだっていう保証はない。保証ならあるさ、私には一分前にも今と同じ感じを持っていたという記憶がある。記憶って何? すでに無に帰したものの一部が、まるで今でもここに保存されるかのように思うってことさ。なんだ、つまり妄想か。

 さっきから、黙って聞いていれば、何を言っているんだ、一分あれば充分だろう。その間に、すでに言葉の一つ一つは覚えていないが、これまでこの池で生じたすべての声も、これからここで生じるすべての声も、未来永劫、全部私の声だし、その声を聞いているのも私だと思い込めさえすれば、永遠に生きてるも同然じゃないか。これは事実がどうなってるかの問題じゃないし、世界の所有権をめぐって法律で争ってるんでもない。客観的妥当性なんぞ、くそ喰らえ。これは全部の過去や未来を、有無を言わさず自分のところに引っ張り込むくらい、信じ込んだもん勝ちの、信仰の問題だ。「気づいてるだろう、お前らは、常に私だ」ってな。いい迷惑だ。俺は、そんなこと信じない。黙ってこっそり引っ張り込めばいいのに、いちいちしゃべるってことは、結局あんたは、所有権を誰かに認めてもらいたんだ。はい、そうこうしているうちに一分たちました……おーい、死んだか。聞いてないだろ、死んだんなら。

 皆の者、黙らっしゃい。とにかく今は、山の神の伝承の真相が語られるべき時であろう……そんな感じがする……。

 今から三百年前、少年の姿をしたその魑魅魍魎が現れ、一人の女性を欲しました。彼とその仲間たちは、この池のほとりに神殿を作って、彼女を呼び寄せようと計画しました。やがて彼らは、村の人間を赤い池に落として公開処刑をし、奇妙な演説で村人を混乱させ、互いに物でも命でも奪い合うようにさせたのです。やがて、ことの全ては、この島が大嫌いな自分への愛情表現だと悟った女性は、彼の元を訪れ、二人は結ばれました。おしまい。

 伝承で村人を襲ったのは、火山の噴火じゃないし、生贄と言われておる女性は、むしろ村人たちを生贄にして、自分の恋を叶えた人間じゃ」

「……少年の姿の魑魅魍魎……まあ、悪魔でしょうな……でも最終的に二人が結ばれたんだったら、うちの子じゃないわ……ちなみに、そいつの名前……分かったりします?」

「……何じゃったかな……なんか……勉学みたいな?」

「勉学?」

「いや……ベン……ベル……ベリ……」

「ベリアル?」

「あーそれ、それ」

「ベリアルかー……よく一緒に遊ぶやつだったら、一言文句言ってやろうかと思ったけど、そんなに親しくない悪魔だったから、やめとこ」

「何じゃ……やっぱりおまえの知り合いか。そういうわけだから、和菓子屋の孫娘の幼馴染であり、おまえが好いとる女性でもある、藍という人間の生贄は、全くもって何の意味もありません」

「ええ……そうでしょうね……」

「わしにはもう、はっきり言って、村が今後どうなろうと知ったことじゃないし、おまえと藍がどうなろうと、ますます知ったことじゃない……何しろあたしは、お聞きの通り、もはや自分が誰だかすら、よくわからないのよ…それどころじゃないだろう、実のところ、俺とおまえの区別も、よくわからん……おまえって誰だ……わしは今、黒髪の魑魅魍魎に、暇つぶしにくだらん会話を仕掛けてる感じがしているが、一言一言が、全部別のやつのセリフなのかもしれんし、ひょっとしたら、黒髪の魑魅魍魎のセリフに聞こえるものも含めて、全部わしの独り言なのかもしれん。さらに言えば、しゃべってるやつと聞いてるやつが、同じかどうかもわからんし、聞いてるだけのやつがいたとして、そいつが現在で何代目なのかわからん。同時に何人もいるのかもしれんし。

 しかし、現時点で、わしの一部かもしれん、おまえさんに、声は言うだろう。何か一つを信じじきれずに、全てのものを通りすぎていくままにしておく限り、おまえはこの池にいる私たちと同じになってしまう。通り過ぎていくものの中に、なぜかひとつだけいつも同じ姿で、同じ仕方で、おまえを突き動かし続けるものがあるんだったら、目を逸らさずに、他の全てを犠牲にしてでも、それを死守しろ。おまえがおまえであるって言うんならな……おまえの行動でそれを示し続けろ……お前の一分を永遠にするためにな…わしらはここで見守っておる……。

 無理矢理押さえつけてでも、藍をこの島から連れ出したいのは誰のためなのか、お前さんはとっくに分かっとるんじゃろう」

「……最後のそれ……随分前の、私の独り言じゃないですか……もう、盗み聞きしないでくださいよ…」

「誰のせいで、そんなもん聞く羽目になったと思ってるんだ」

「ごもっともです」

 池を出たクロセルは、着物を着ると、簪を拾った。

「お話、ありがとうございました。大変、参考になりました……これはあなたにお返しします……」

 悪魔は、簪を池に投げて、軽く会釈をした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ