4.世界⑧
クロセルと藍の喧嘩。
カイムは彼女の薬の代償として「労働」をした。
特に何も変化がないまま、さらに数ヶ月が経過した頃です。私たちは些細なことで喧嘩をしました。私が作った味噌汁をクロセルが濃いとか薄いとか言った、そのようなことです。
たまたま虫の居所が悪かった私は、彼の指摘を無視して食事を続けました。すると、召喚者の機嫌を損ねたことに気づいた悪魔は、取り替えそうとしました。
「……でもまあ、あなたはこれまでの私の召喚者の中では、器用な方です」
しかし、私にとってこのセリフは完全に逆効果でした。私はお椀で顔を隠すように、お味噌汁を一息に飲んで、すぐに片付けを始めました。
「……あれ、藍さん、こっちの部屋で寝ないんですか」
いつも二人で寝ている寝室の、隣の扉に私が手をかけると、横から声がしました。
「今日から、私はあなたと関わるのをやめます。それで、今からでも、あなたをさっさと地獄? のご自宅にお返しして、別の悪魔に来てもらいます」
「そんなこと、今さら無理ですよ」
「私の幻覚なら、どうとでもなるでしょう。次は、あなたよりもずっと素敵で、私だけを、とことん好きになってくれる悪魔に来てもらうんだから。人生が孤独な死で終わるしかないのなら、せめて死ぬまでの間、素敵な夢を見ていたいのよ」
私は振り返らず、勢いよく扉を閉めました。
なぜ、私は自分の企みをわざわざ、彼に報告したのでしょうか。本当に彼が幻覚なら、わざわざ、あなたを消すなどと告げる必要があるのでしょうか。黙って、意識から消せばいいのに。
私は一人、寝床で目を瞑って「あなたよりもずっと素敵な」悪魔を描こうと試みましたが、全く何も浮かびませんでした。
私は久々に一人きりになった寝室で、声を殺して泣きながら開くかもしれないドアを気にしていましたが、私が疲れて眠りに落ちても、彼が来ることはありませんでした。
次の日の朝、腫れぼったい目で目覚めた私は、「昨晩は、彼もきっと色々悩んだに違いない。きちんと謝って話し合おう」と思いました。しかし寝室の扉を開けた途端、私の思惑は外れました。
「あ、おはようございます。お着替えまだでしたら、お手伝いしましょうか。そういえば、目が赤いですけど、どうしたんですか」
いつものふざけた調子に呆気に取られた私は、彼を睨みました。
「え? まさか昨日のことをまだ引きずっているんですか。一時的な感情に、いちいち振り回されるのは無駄です。そういうのは過ぎてみれば、だいたいのことが何をそんなに思い詰めていたんだろう…っていうバカバカしいものばかりです」
私は思わず怒鳴りました。
「昨日の夜、私はあなたのことばっかり考えて、すごく切なかったのよ。それも全部馬鹿馬鹿しい? もう、本当にあなたのことは知りません」
流石にまずいと思ったのか、その後、悪魔はお菓子を買って来て、私の気を引こうとしました。私は、突っぱねましたが、本当は自分がどうしたいのか自分でも分かりませんでした。
※
休憩時間、クロセルが、受け取ってもらえなかった菓子のもらい手を探して、いつも通り地獄の広場をうろついていると、数ヶ月ぶりの友人が現れた。
「おい、クロセル、温泉を沸かしてくれないか。ちょっと疲れた……」
「あら、カイムさんお久しぶりです……別にいいですけど……」
クロセルは浴槽に入れたお湯に入浴剤を撒きつつ、横目で友人が脱いだ服を見た。
「どうしたんですか血だらけで」
少年の悪魔は、例によって冷水を体に掛けてから、急いでお湯に入った。
「今日はジュリエットが一日かけて医者の検査を受ける日なんだ。私は一緒にいられない。だから、休暇をとって、一仕事してきた……おまえも一緒に入ったらいいだろう」
「えー、またあんたとですかー」
「そんなこと言ったら、私だって、できたらおまえじゃなくて、ジュリエットと入りたい。おまえが私じゃなく、召喚者の方がいいのと同じでな」
黒い悪魔は、聞こえないふりをして、着物を脱いで温泉に浸かった。
「……それで一体、何の仕事ですか」
「マルバスの手伝いだ。ジュリエットの病気を根本から治すことはできないが、症状を多少だが和らげる薬ならあるから、労働と引き換えにやると言われた」
「やっぱり、チームホープにまで相談に行ってたんですか。よくあんな無駄にエリート意識が高い連中のところに行きましたね」
「当然だ。彼女のためならできることは全てやる」
「その薬、高くつきそ……」(注1)
「薬の引き換えの労働は、あいつが実験だか新薬の精製だかに使うための、栄養状態のいい人間を、人種、性別を問わず二百人用意することだ。首から下の内臓が破壊されておらず、死後二十分以内なら死体でもいいと言われた」
「めんどくさ」
「鳥たちに人を襲わせる時に、首から上のみ攻撃するように命じれば、条件通りの死体を用意するのは簡単なんだが、私の体力では運ぶのがな……一回に四、五人しか運べないから、こうして休暇を使ってがんばった……やっと終わりだ」
「そりゃお疲れさまでした……あんたに襲われた町は、えらい騒ぎだったでしょうね」
「召喚先に影響が出ないよう、二つ隣の国にしたんだが、確かにえらい騒ぎだった……犠牲者の栄養状態にこだわったから、割といい暮らしをしてそうな町を選んだしなあ。町の中心に立派な時計台があって、通りのパン屋からはいい香りがして……生活している人間も、穏やかな顔で…いい町だった……」
「……無差別で襲ったんですか」
「ああ、いちいち襲う前に一人一人身体検査するのも面倒だしな。死体にして持ち帰ったあと、マルバスに持病があるだの、痩せすぎだの、幼すぎだの言われて、採集し直しになったものもあったから、結果として二百以上、死体にしたな。
ま、数十年もすれば、減った分だけ生まれるだろ。
ツグミが集団で襲来した当初は、みんな大パニックで逃げるだけだったが、後半はそれなりに抵抗されたな。おかげでさっきまで私の腹と背中は弾丸の穴だらけで、やっと塞がったところだ。あまりにも撃たれるから、もう避けるのも面倒でな……」
「肩にまだ一個刺さってますよ」
カイムは、手探りで弾丸を探し、指で引っこ抜いて外へ放り投げた。
「そんなお疲れなあなたに、ここを出たら私が召喚先で買ったお菓子をあげます」
「おまえが私にものをくれるなんて、珍しいな。召喚者にあげるために用意したんじゃないのか」
「……いらないみたいで……」
「……ふーん……なんでだ?」
カイムは止血のために、肩にあてていた手を外した。
クロセルは、少し目を泳がせた。
「……今まで使ってたお菓子屋が、事情があって使えなくなったから、別のところで買ったんですけど、それがお気に召さなかったんじゃないですかね……」
「……そうか……しかしせっかくだが、遠慮しておく。今の私は、甘いものに食傷気味なんだ……」
「へえ…あんたがお菓子を断るなんて、珍しいですね」
「お前は、昨今のフランスの金持ちが飲んでる、チョコレートの甘さを知らない」
「……召喚先で出されるんですか……いらないなら断ればいいじゃないですか……」
「断れるわけないだろう。ジュリエットは私にとって神だ。神が与えてくださったものに文句つける悪魔がいるか」
「……何、言ってるんですか……」
くだらない会話に疲れた二人は、しばらく黙った。それから、黒髪の方が会話を再開した。
「…それにしてもジュリエットさん……悪魔がどこからともなく持ってきた、何が材料に使われてるかもわからん薬、あっさり飲んでくれたんですか」
「……正直に薬を彼女に見せてたら、拒否されたかもな……」
「どうしたんですか」
「……気づかれないように、こっそり飲ませた……実験は十分されてる薬だから、現在人間の世界に出回っているどの薬よりも安全性は高いし、効果も保証されている。枝葉なことで、拒まれたら困るからな…」
「どうやったんですか」
「それが問題だった。味も匂いも薄いから飲み物に混ぜればいいんだが、飲み干されないで残される場合がある……」
「で、どうやったんですか」
同僚は、急に顔を赤くした。
「……内緒だ……だが、おまえのアドバイスのおかげでもある、感謝する」
「何それ、嬉しそうにしちゃって……だいたい分かりましたよ……」
「だがキスまでだ。それより先はありえない。これまでも、これから先もな。絶対だ。これ以上私が彼女を汚すことは許されない……彼女が望んだら? ……そんなことあるわけないだろう……わかってるよ」
「誰に向かって喋ってるんですか……頭にナメクジがついてますよ」
カイムは髪に手をやって、指摘されたそれをつまんだ。
「あー、多分運んだ死体から付着した脳の断片だな」
彼は指先を天にかざして、少し揉んだ。
「……それにしても、つくづく思うんだが、中身を晒した人間の死体や臓器単体というのは、オブジェとして大変美しいな。ジュリエットにも捧げたいところだが、さらっと提案したらさらっと断られたからな」
「……なんで、それはさらっと提案できるんですか……」
「……花はもらうと嬉しいらしいんだがな……どう違うんだろうなあ……」
銀髪の悪魔は、ナメクジ状の物質を指で外に弾いた。
「……でも……何となく……もうちょっとで、分かってもらえそうな気がしてるんだ……」
「……カイムさんは……ジュリエットさんといつか別れなければならないことは、怖くないんですか……」
「彼女といられる時間は短い。怖がっている時間はない。それに、彼女を失った私が泣き喚くのは、永遠に私が彼女の下僕である証だ」
「……あんたのその、なりふり構わず没入できる感じは、たまには見習うべきなのかもしれませんね……」
※
私が土間で野菜を切っていると、クロセルが帰宅しました。彼はお菓子の包みを持ったまま、私の横ある、野菜クズ入れの前に立ちました。そして、風呂敷を解いて、蓋を開けました。中には、私の好きな栗饅頭が並んでいます。
「クロセル、そのお菓子どうするの?」
私は思わず、口を挟みました。
「……あなたに食べていただけないし、地獄でももらい手がなかったから、処分するんです」
彼が少し寂しそうに微笑みながらそう言い、お重をひっくり返そうとしたので、叫ばざるを得ませんでした。
「もったいないから、やっぱり私が食べます」
「お昼に差し上げた時は、私からは何も貰わないって言ったじゃないですか。そもそも私とはもう、関わらないんでしょう」
「でも、せっかく買ってくれたし……」
彼は、声を殺して笑い出しました。
「あなたの食い意地のおかげで、私もこのお菓子も助かりました」
私は、わざわざ私の目に入るところで、これ見よがしにお菓子を処分しようとした彼の誘いにうまいこと乗った、自分の食い意地に感謝しました。本当は、彼に抱きついてしまいたい気持ちでしたが、我慢をして膨れっ面をして見せました。
こうして私たちは、仲直りしましたが、その日以来、変わったこともありました。以前に戻って、二人とも同じ部屋で寝はじめたのですが、ベッドで一緒に寝たい、と悪魔が言ってこなくなったのです。
この日以降、時間が来ると二人とも寝室に入り、暗闇の中、それぞれの定位置に横になりつつ挨拶を交わします。そしてその後は、朝までどちらとも声を発しません。
ある時、眠れなかったので、下を盗み見ると、外から刺す僅かな光で、彼が背を向けて横になっている形がわかりました。
私は衝動的に、ベッドを降りて、その影のところに行こうとしました。しかし次の瞬間、自分が金縛りにかかっているのに気づきました。私は、それを振り切る勇気が次第にしぼんでいくのを感じました。私は格闘の末ようやく、壁に向かって寝返りを打ち、ため息をついて目を閉じました。
私はこのまま、ある種の渇きを抱えたまま、一人で死ぬ日を迎えるつもりなのでしょうか。
生贄の日まで、半年を切りました。
注
1 「その薬、高くつきそ……」
これ以降の会話が、どうしても気分が悪いという方は、以下の通り差し替えをお願いいたします。
悪魔にとっては、どちらでも同じことです。
「薬の引き換えの労働は、あいつが実験だか新薬の精製だかに使うための花を、二百樽分摘んでくることだ。花びらが新鮮で、摘んだ後二十分以内なら花の形はくずれて花びらだけでもいいと言われた」
「めんどくさ」
「鳥たちに花畑を襲わせる時に、花の中心だけつっつくように命じれば、条件通りの花びらを用意するのは簡単なんだが、私の体力では運ぶのがな……一回に四、五樽しか運べないから、こうして休暇を使ってがんばった……やっと終わりだ」
「そりゃお疲れさまでした……あんたに襲われた花畑に生息していた虫は、えらい騒ぎだったでしょうね」
「確かにえらい騒ぎだった……花の栄養状態にこだわったから、いい場所を選んだしなあ。日当たりがよくて、川も近くて……いい花畑だった……」
「……摘むときに選別はしなかったんですか」
「ああ、いちいち摘む前に、一本一本検査するのも面倒だしな。花びらにして持ち帰ったあと、マルバスにしおれているだの、病気があるだの言われて、採集し直しになったものもあったから、結果として二百樽以上、摘んだな。
ま、数十年もすれば、減った分だけ生えてくるだろ。
ツグミが集団で襲来した当初は、虫どもは大パニックで逃げるだけだったが、後半はそれなりに抵抗されたな。おかげでさっきまで私の腹と背中は蜂に刺された痕だらけで、やっと治ったところだ。あまりにも刺されるから、もう避けるのも面倒でな……」
「肩にまだ一個針が残ってますよ」
カイムは、手探りで蜂の針を探し、指で引っこ抜いて外へ放り投げた。
〈中略〉
「誰に向かって喋ってるんですか……頭にカナブンがついてますよ」
カイムは髪に手をやって、指摘されたそれをつまんだ。
「あー、多分運んだ花から付着した虫だな」
彼は指先を天にかざした。
「……それにしても、つくづく思うんだが、昆虫というのは、オブジェとして大変美しいな。標本にして、ジュリエットにも捧げたいところだが、さらっと提案したらさらっと断られたからな」
「……なんで、それはさらっと提案できるんですか……」
「……花はもらうと嬉しいらしいんだがな……どう違うんだろうなあ……」
銀髪の悪魔は、カナブンを指で外に弾いた。
「……でも……何となく……もうちょっとで、分かってもらえそうな気がしてるんだ……」




