3.失われた記憶の断片Ⅱ
以下の記述は、三千年も記憶を保持できる、悪魔や天使にすら忘れられてしまった、遠い昔の記憶の断片である。現在を生きる我々が、現在の地球をいくら調査しても、これらの記憶について、いかなる遺跡のかけらも見つからない。
この世界は、神が見る夢である。夢の中では、歴史の集積すら、同一性を保ち続けるとは限らない。神は自身の夢の中で、誰にも気づかれないようにそっと、古代の地層や、遺跡、いにしえの文書を、書き替えてしまうことがある。
天使や悪魔たちの、自分でも忘れてしまった遠い昔の経験は、我々が現在の地球を調査した結果、信じている歴史とは全く異なるものであるかもしれない。
「クロセル、クロセルどこいったの? ゴモリー、クロセル知らない?」
レヴィアタンは、取り乱した様子で、屋敷から飛び出すと、庭で遊んでいた弟子に声をかけた。彼女は立ち上がって、フリルのスカートの泥を払った。
「さっき、シャベル持って散歩に出かけたよ」
師匠は慌てて、玄関の門を出ると、ハイヒールの足で、原っぱを駆け回った。そしてようやく、シャベルを地面に突き立てて、遠くを見ているクロセルを発見した。彼の足元には、土を掘り返されてできた水溜りがある。着物の裾を見ると、土木作業をやった割に、どうやら高価な着物は汚さなかったようである。
「何やってんの」
師匠は膝に手をついて、息を切らせながら尋ねた。
「あたらしくサリエルさんのとこに来た、青い目の銀髪のカイムとかいうやつが、しょっちゅう向こうの湧水に、お尻を漬けて洗っているれす。面白いので、あいつが来た時に、ここで水脈を止めましら…」
弟子が少しほほ笑みながら差した指の先では、めくれた麻のスモッグから尻を出した男の子が土の地面に四つん這いになって、出なくなった水を探していた。
「そんなのほっときなさい……」
師匠は彼の両肩を掴んだ。
「クロセル……いなくなったと思ったじゃない……あなたがいなくなったら、私どうしていいか分からないのよ」
弟子は、真顔に戻った。
「ねえさん、そんなに取り乱さないでくらさい……」
「……クロセル……あなたが一番大事なのは誰?」
「ねえさんれす」
師匠はしばらく相手の目を見つめた後、彼の首に両腕を回してささやいた。
「……本当にそう思ってる? だったら、私とゴモリー、あなたがより好きなのはどっち?」
弟子は、しばらく師匠を見つめた。
「わからないです」
「じゃあ、あそこのサリエルの弟子と私では?」
彼は首を回して、遠くにいる四つん這いの男の子を見て、それから再び師匠を見た。
「……わからないれす」
「なんでそれもわからないのよ」
「でも一番大事なのは、ねえさんです」
「じゃあ、今すぐ部屋へ帰って慰めてくれる……」
「……はい……」
「二人きりになって、服を脱いでベッドに入ったら、また羽を出してもいいからね。あなたの綺麗な羽は、私しか見ちゃいけないし、触っちゃいけないんだからね…」
「……はい……」
弟子は、シャベルを抜くと、差し出された師匠の手を取って歩き始めた。彼は終始、無表情だった。
それから六十六年後。
「あんたたちをここまで育てたのは?」
レヴィアタンは、弟子二人を並ばせ、何度も繰り返された質問をした。相変わらず派手な衣装を着せられた二人は、いつも通り答えた。
「お師匠です」
「ねえさんです」
「あんたたちがここまでしゃべれるようになったのは誰のおかげ?」
「お師匠です」
「ねえさんです」
「あんたたちが一番好きなのは?」
「お師匠です」
「ねえさんです」
「世界で唯一、あなたたちより美しいのは?」
「お師匠です」
「ねえさんです」
「よろしい……今日は、あんたたちにお話しがあります。実は、あんたたちのお師匠様は、神様の添い寝係になることに決めました……」
ゴモリーは首をひねった。
「あれ、お師匠、絶対それには立候補しないって言ってなかったっけ」
「確かに最初は、絶対引き受けないつもりだったの。だって、私がいなくなった後、あんたたちが私を忘れて他の人を好きになるのは耐えられないじゃない。でもサリエルが言うには、私がいようといまいと、あんたたちが、いつか人間を好きになってしまうのは、止められないんですって」
レヴィアタンは、相変わらず黒羽をしまわせたままの弟子の腰に手を回して、胸に顔を埋めた。
「クロセル、あんたが私から離れるのを止められないっていうのよ」
「ねえさん、大丈夫ですよ。私がねえさん以外を好きになるなんて考えられないです」
「クロセル……もう一度言って……」
「ねえさん、大丈夫ですよ。私がねえさん以外を好きになるなんて考えられないです」
「クロセルって、お師匠のお人形みたいだね」
レースのたくさんついたワンピースを着せられた、女性の姿の弟子がつぶやいた。
師匠は弟子に腕を回したまま続けた。
「でも、やっぱり不安じゃない……クロセル、あなたは私の全てなのよ……それで私がいろんな人に対策を聞いてまわったところによると、私が神様の添い寝係になれば、この世から身体は消える代わりに、いつでもあなたたちを見張って、あなたたちが、人間にほだされそうになったら、すぐに邪魔してあげられるらしいのよ。あなたたちを奪われないようにするには、これしか方法がないじゃない」
レヴィアタンは、ようやく抱きついていた弟子から離れると、女性の弟子の波打った柔らかい髪を撫でた。
「……それでもゴモリー、あなたはちょっとは大丈夫な気がするのよ……あなたは、好きな人のそばに行きたがらないでしょう」
「私の好きな人とは、お師匠です。好きな人というのは、近寄らずに、遠くから見ていたい人のことです」
「私を好きでも、あなたは私のそばには来たがらない……だから逆に安心なのよ」
師匠は再び、もう片方の弟子の首に左手を回して、右手で頬に触った。
「でもクロセル、あなたは違う。あなたは、他の悪魔のように、真っ直ぐ人間を好きになって、その人のそばに、きっと行きたがる……簡単に誰かのものになろうとするに決まってる。
でもあんたが、私以外のものになるなんて、あってはならないじゃない。その綺麗な髪も顔も羽も、隅から隅まで、ずーっと私のものじゃなきゃ、おかしいじゃない……」
「はい、私はあなたのものです……ねえさん……」
「それ、忘れないでね。記憶が無くなったとしても、忘れないでね」
弟子は、理解し難い様子で師匠を見つめた。
「あなたが人間に身を捧げるようなことがあったら、許さないから。私が邪魔しても言う事を聞かない時は、あなたを世界から消してやるからね」




