2. 失われた記憶の断片Ⅰ
以下の記述は、三千年も記憶を保持できる、悪魔や天使にすら忘れられてしまった、遠い昔の記憶の断片である。現在を生きる我々が、現在の地球をいくら調査しても、これらの記憶について、いかなる遺跡のかけらも見つからない。
この世界は、神が見る夢である。夢の中では、歴史の集積すら、同一性を保ち続けるとは限らない。神は自身の夢の中で、誰にも気づかれないようにそっと、古代の地層や、遺跡、いにしえの文書を、書き替えてしまうことがある。
天使や悪魔たちの、自分でも忘れてしまった遠い昔の経験は、我々が現在の地球を調査した結果、信じている歴史とは全く異なるものであるかもしれない。
「カイム、そのお花が好きなのか」
サリエルは、花畑の中でしゃがんでいる弟子の背中に声をかけた。辺りは、肉厚の花びらを競うように空の光に向かって広げている色とりどりの花で溢れていたが、銀髪の青い目の男の子の視線はその葉陰に注がれており、そこでは透けるように薄い、皺の寄った小さい白い花びらが細い茎の上でうなだれていた。
「どれ、植え替えて寝ぐらに持って帰れるように、植木鉢をあげよう。ベリアルはいつもそうしてるぞ」
「だめです……彼女はここがいいのです……」
男の子は細い声で、つぶやいた。
「だが、ずいぶん元気のないお花じゃないか……そのままにしてたら、枯れてしまう……」
「なんで彼女は、元気ないですか」
「周りのお花に土の栄養を全部取られているんじゃ。そのお花を元気にするには、周りのお花を全部取り除くしかない……」
「あい」
弟子は、辺り一面で生を謳歌している花たちを鷲掴みにして、両手で代わる代わる根ごと引きちぎり始めた。
「……さすが容赦ないのう。お前は本当に悪魔らしい悪魔じゃ。
いいか……何かを好きになるってことは、その他の好きにならなかったものを犠牲にする覚悟を持つってことと表裏一体じゃ。誰だって、見ず知らずのどうでもいいやつが千人一度に消えるよりも、大事な人を一人失う方がずっと重大じゃからな。悪魔は本能でそれを理解しているし、自分がやったことに後悔なんかせん。
この世っちゅうのは、神様の見る夢じゃ……だからこの世にある全ては、神様がお創りになったものでもあり、神様の一部でもあるっちゅうことになる。一方、夢だけに朦朧としているから、登場人物たちはすぐに、神様の声が聞こえなくなって、自分が何だか分からなくなってしまう。おまえがそのお花に惹かれたのは、そのお花の中に自分を作ってくれた神様を見て、声を聞いたからだ。おまえがそのお花に出会うことで、神様の曖昧な夢にあらためて仕上げがなされ、おまえは信じるべきものをはっきりさせることができた。
この現象はおまえにとって、世界の中心がそこに出現するようなものである一方、とても儚い……だからこそおまえはそれを死守しようとする。他のおまえの神様だったかもしれない全てのものを、そうやって犠牲にしてでもな。
これはおまえの業じゃ。おまえが守ろうとしているそのお花に対してすらな。だが正しい業じゃ。おまえにとっては、正しさの基準はこれでしかありえないという意味でな。この矛盾をよく覚えておきなさい。
……で……カイム……何をやっとるんじゃ」
弟子はしゃがんで、自分が根絶やしにした地面を両手で掘りかえしていた。
「こいつらを埋めて、この子の肥料にします」
彼は、無造作にちぎられた上に踏まれて、すでに見る影をなくした花の山を指した。
「……そうか……なら、一旦燃やして灰にした方がいいじゃろう……」
「あい」
男の子は、ポケットから火打ち石を出すと、なんのためらいもなく、花の山に火をつけた。
サリエルは、炎に照らされた無表情な弟子の顔をみて、ため息をつきつつ頭を掻いた。
その日の夜中に目を覚まし、急に心配になった少年の悪魔は、自分の白い花の様子を見に、昼間の花畑に向かった。はたして花は、無事に未だ咲いていた。彼は安心して一息つくと、しゃがんで首を突き出し自分の花を覗いた。星あかりのせいか、昼間の「肥料」のおかげか、白い花びらには艶と張りが戻ったように見える。
カイムは、花に寄り添うそうに背中を丸めて横になった。しばらく花を眺めていたが、やがて彼はゆっくり腕を伸ばして、震える指で花びらを少しだけつついた。それから幸せそうに、目を閉じた。
翌朝、彼は、日の光とそれを遮る自分に落ちた人影に気づいて目を開けた。見上げると、サリエル師匠のもう一人の弟子のベリアルが、何か白いものを口に入れようとしていた。彼が食べたのは、あの白い花だった。
カイムは飛び起きて、兄弟弟子の胸ぐらを掴もうとしたが、逆に突き飛ばされてしまった。恋人の捕食者が背を向けて去ろうとしたので、彼は自分の日本刀の鞘を抜いた。
朝ごはん用にどんぐりと大麦のお粥が入った鍋をぶら下げて、弟子が寝起きしている小屋へ来たサリエルは、二人がいないことに気づいた。辺りを見回すと、弟子の片方が花畑に続く道からこちらに帰ってくるのが見えた。様子がおかしいことに気づいたサリエルは、鍋をおろし弟子の元に急ぎ、彼を足止めした。
「カイム、一体どうしたんじゃ……手に持っているのは何じゃ……」
師匠は、着ていたスモッグを血だらけにして、濡れた太い紐のようなものを握っている、虚な瞳の弟子の肩を掴んだ。
「……おまえが持ってるそれ……ベリアルの内臓じゃないのかい……口の中に入っているものも吐き出しなさい……」
カイムは、赤い瞳の入った目玉を地面に吐くと、地面にうずくまって声を上げずに泣き出した。
その後、ようやく事情を聞いたサリエルが花畑に行くと、腹わたをほじられて片目を無くしたベリアルが、残った方の目で中空を見つめたまま、大の字に倒れていた。師匠は彼の身体を抱いて帰宅した。
師匠は、動かなくなった弟子を彼らの寝床の小屋に横たえると、取れた目玉を元に戻し、引きちぎられた腸管を腹に詰めた。そうしながら、自分の背後でうずくまって泣いているもう一人の弟子に声をかけた。
「……カイム……もうベリアルにこんなことやっちゃダメじゃぞ。悪魔に一度食べられたもんは、どんなに腹わたを探そうと、もう取り出せないからな……。
あのお花のことは、残念じゃった……おまえは、そうやってしっかり泣きなさい……好きな人のことで泣くのは救いじゃ……おまえと、おまえの中のお花にとってな……」
作業を全て終えたサリエルは血で汚れた手を拭いてから、動かない弟子に布団をかけてやった。
「よし、これで明日には、ベリアルは動けるようになるじゃろう。だが走ったり、どんぐりを消化したりできるようになるには、十日はかかるな……しかし、ベリアルには悪気はなかったのかもしれんが、もう少し気を使うように、言い聞かせにゃなあ……」
師匠が、弟子が鼻をすする音を聞きつつ、頭を掻いていると、床から声がした。
「あいつはいつも食べずに枯らすから、代わりに食べら」
ベリアルの口が動いたのである。
「だからと言って、おまえが食べる理由にはならんだろう……カイムにはカイムの愛し方があるからな……」
「カイムだって本当は食べたいはずれす……お花らって……」
「たとえそうだったとしても、それはカイムとあのお花の問題じゃ…おまえが入る余地はない」
「ふぁい。これからはほっとくようにします……」
「……それでいい……」
青い目の弟子は、ようやく鼻をすするのをやめた。そして細い声だが、強い口調で次のように言い切った。
「僕はあのお花が好きです。あの子を傷つけるものは全て排除です。僕があの子を傷つけるなら、僕も排除です……」
「……カイム……お前もよく考えなくてはならない。昨日も言ったが、お前はとても悪魔らしい悪魔じゃ……つまり、とことん優しくて誠実で、とことん残酷で下劣じゃ……そしてこの両方が、おまえの業になりうる……好きな人を大事にすることと、汚すことは、紙一重なんじゃぞ。
そして、忘れちゃいけない……恋人はおまえの鏡だ……おまえが好きになる相手もまた、業を抱えておる。今はまだ、好きになるのはお花だからいいが、おまえらと同じようにしゃべることができる人間を、おまえが好きになったとき、それは顕著になる……おまえは、恋人に自分の業を与えるかわりに、相手のそれを受け取る覚悟もしなければならない。相手がおまえの中にどのような神を見ているのか、時としてそれはおまえが思いもよらないものなんじゃ……」




