見合いなんてやめろよ
電車の座席は埋まっていて、ちらほらと立っている人がいる。
窓の外の景色が、勢いよく流れていく。
私の足の傍には、買ったもので膨れ上がったスーパーの袋が二つと、彼の足がある。
電車が止まる。数人が座席から立ち上がり、外へと出て行った。
「向かいの席、空いたよ」
私は、彼を見上げて言う。
「環の傍にいたいんだ」
私を見下ろし、彼は微笑んで見せた。
私はなんだか照れ臭くて、視線を足元に落とした。
「いつからそんな甘えん坊になったのやら」
「環が素敵だからね」
周囲から見れば、違和感のある光景かもしれない。美形の青年が、平々凡々とした私を褒め称えている。
「いい加減にしないと、逃げるよ」
「わかったよ」
交際するようになって、私達の間には小さな変化があった。
彼が私をお姉さんと呼ぶことはなくなり、名前で呼ぶようになった。
彼の声が私の名前を呼ぶのは、酷く心地よかった。
アパート最寄の駅で電車を降りて、私達二人は夏の中を歩き始める。
日光が元気良く大地を見下ろしている。
どこからともなく、蝉の声がした。
まとわりついてくるかのような熱気が、肌から汗を吐き出させる。
翔太は大きなスーパーの袋二つを、一人で持っている。
私は、その傍をついていくだけだ。
彼は中々、私に荷物を持たせてはくれない。
彼のアパートに辿り着くと、彼は冷蔵庫の前に荷物を置いた。
私はその中身を冷蔵庫の中に入れ、彼はクーラーの電源を入れて涼やかな風を浴び始める。
「そろそろ祭りのシーズンだな」
「去年行ったなあ、そう言えば。智子とだけど」
「今年は俺と行こうか」
「うん、いいよ」
「二人で浴衣でも買ってさ」
「……似合わないと思うけどなあ」
「似合うよ」
「キャラクター的に似合わない」
私は、冷蔵庫の扉を閉める。
「俺が、環の浴衣姿を見たいんじゃ駄目?」
そう言われてしまうと、私は考え込んでしまうのだ。
「お金、勿体無いな」
「俺が出すよ」
「そこまで見たいのか」
私はやや呆れてしまった。
そして、観念する事にした。
「いいよ、着るよ」
言うと、大きな体が私に覆いかぶさってきた。
「ありがとう。環大好き」
「暑いの嫌いじゃなかったのかな」
私は、彼から視線を逸らしながら、ぼやくように言っていた。
彼はまるで、人懐っこい大型犬のようだった。
春からの数ヶ月は、こんな感じで、甘ったるい空気に飲み込まれるかのようだった。
だから私は、問題を先伸ばしにしてしまっていたのだ。
夏休みが終わり、秋になった。
夕方になると、私はベランダに出て、電話をかけ始めた。
この番号にかけるのは、随分久々のような気がする。
しばしのコール音の後、母が電話に出た。
「久しぶりね、環。元気にしてる?」
「元気元気。勉強頑張ってるよ」
「それならいいけど。なんかあった?」
「あのね、ちょっと考えてることがあるんだけれど」
私は、心音が早くなるのを感じた。
それを口にするのは、酷く躊躇われた。
「私がこっちで就職したいって言ったら、お母さんどう思う?」
吐き出してしまうと、私は肩に入っていた力が抜けるのを感じた。
とたんに、自分の言ったことはどうということのない内容に思えた。
「学費打ち切って、地元に帰らせるかな」
母の返事は、予想外だった。
私は、胸を射抜かれたような苦しさを覚えた。
「前にも言ったでしょ。うちの墓も土地も、守れるのはあんただけなんだから」
「うん、それはそうだけど」
「最後にはこっちで就職するって言ったよね?」
私は、必死に言葉を捜す。
「けど、墓参りなら遠くからでも出来るよ?」
「けど、あんたは約束してそっちに行ったんでしょ?」
私は、戸惑ってしまった。
確かに約束はした。けれども、母の理屈は所々がほつれているように思う。
「恋人でも出来たの?」
「違うよ」
私はどうしてか、否定していた。
恋人がいると言えば、尚更母の怒りを買うように思ってしまったのだ。
翔太はきっと、関西で就職するつもりだ。私を地元に帰そうとする母にとっては、敵ともいえる存在だ。
母に、彼と別れなさいと言われたら、私はどうするのだろう。
「そう。ならいいけど。大学の費用だって馬鹿にならないんだからね。勉強しなさいよ」
「はい」
電話が切れた。
私は、ベランダで、一人立ち尽くしていた。
肌寒い風が吹いて、私は部屋の中へと入って行った。
中では、翔太が寝入っていた。
私はその傍に座り、彼の寝顔を覗き込んだ。
彼の手を、そっと握る。
すると、うっすらと翔太が目を開けた。
「どうしたの、環」
「ちょっと、触りたくなっただけ」
彼の手が、私の手を握り返した。
「なんか、悩み事でもあった?」
「ううん、何もないよ」
「そっか」
そう言って、彼は再び瞼を閉じた。
まだ、大学卒業まで二年以上の時間があった。
その事実が、私を安堵させた。
けれども、二年後に私は翔太を手放せるだろうか。
それを思うと、私は不安になってしまうのだ。
「ねえ、翔太って、将来的に地元に帰るの?」
食事の最中に、私はそんなことを翔太に訊ねた。
翔太の故郷は田舎らしい。同じ田舎ならば、私の故郷で働くことも苦にならないはずだ。
「それはないね」
彼は断言した。
「だって、アニメ全然やらないしね、うちの地元」
この地方では、深夜になってもアニメ番組が流れる。その時間帯にはコマーシャルしかやっていない私の地元とは、大違いなのだ。
「店もこっちのほうが多いし、若い人もこっちのほうが多い。なによりさ、球場が近いでしょ」
彼の言葉が重なるたびに、私の心に重い荷物が乗っていく。
「ああ、甲子園?」
「うん。俺は将来も、今の友達と野球を見に行くんだ。それが、俺の夢」
私は、心が沈んでいくのを感じた。
彼が、この地に残る理由はいくらでもある。それを否定してまで、私の地元で就職する理由は見当たらなかった。
「ねえ。もしも私が、野球観戦をやめてって言ったら、どうする?」
翔太は、苦笑顔になった。
「やめてほしいの?」
「もしもの話」
「そうだなあ……」
翔太は、箸を置いてしばし考え込んだ。
「わかってもらうまで説得するかな」
「それでも嫌って言ったら?」
「環でも、そんな質問するんだな」
翔太は、答えをはぐらかした。
「そんな質問って?」
「私とどっちが大事? って」
私は、頬が熱くなるのを感じた。これではまるで、嫉妬深い人間のようだ。
「そんなんじゃないよ」
「そうかな」
「違うって」
私の地元で就職する気があるか。探りたいのは、それなのだ。
そして、今のところ、その気があるとはとても思えなかった。
「安心しなって。環をないがしろにして観戦しに行くことなんて、絶対無いからさ」
「うん」
私は、呟くように言っていた。
まるで世界中に自分が一人きりのような気分だった。
翔太が傍にいるのに、二人の精神的な距離はとても離れているように思えた。
大学の講義の最中だった。私と智子は並んで座り、黒板の内容をノートに写している。
私は智子に、今置かれている状況を相談していた。
「どうすればいいのかわかんないのよね」
「卒業したら勝手にこっちで就職する、とか」
「そんな不義理な真似は出来ないよ」
ここまで自分が大きくなったのは、ひとえに親が金を出してくれていたからだ。その費用を、返さずに逃げるなど、私には考えられなかった。
「なら、翔太くんに素直に告白するしかないんじゃない」
「それで、彼が私の地元で就職することになったら、なんだか可哀想だし、責任も取れないって思う」
「なるほどねえ」
もしも彼が私の地元に就職して、その後に私と別れたらどうなるだろう。
彼は、友人からも実家からも遠い場所で、一人きりになってしまう。
「それで今、彼ともあんまり会ってないんだ。考えたいことがあるから、一人にしてって言ってる」
「確かに、気まずいだろうしね」
そう言って、智子はしばし考え込んだ。
「大阪ラヴァーって曲があったっけ」
智子が、ふとそんなことを言った。
「どんな曲?」
「大阪に恋人に会いに通う女の子。彼女は、恋人が一緒に住もうと言ってくれるのをずっと待ってるの。遠距離恋愛の歌だね」
「その人の親は、大阪に住むことに賛成してたの?」
「してたんじゃないかなあ。というかね、普通の親は、どこに住もうと、好きな人と結婚してくれれば嬉しいものなんじゃないかな」
「どうなんだろうね」
智子は、明らかに私の親を批判していた。けれどもそれを止める気にはならなかった。
「遠距離恋愛、かあ」
今となっては、その結論が一番無難のような気がした。
携帯電話が震えた。
折りたたみ式のそれを開くと、メールが届いていた。
母からのメールだった。
私はその内容を見て、唖然とするしかなかった。
メールの内容は、私に見合いをしろというものだったのだ。
「どうせ、あてがないんでしょ? 結婚は卒業後でいいし、会うだけ会ってみてよ」
「結婚して、腰を落ち着けてくれることが親孝行なんだから」
母にそう押し切られて、私は見合いをすることが決まってしまったのだった。
大好きな恋人がいるのだ、とは、ついに口に出せなかった。
年末が近付き、周囲は肌寒い空気に包まれている。
私は久々に、翔太と帰り道を歩いていた。
「なんだか環と歩くのも久々だな」
翔太は、そう言って楽しげに笑う。尻尾を振っている犬のようだ。私はそれに、罪悪感を覚えた。
これから話すことは、けして愉快な内容ではないのだ。
「悩み事は、解決したの? 一人にしてくれって最近言ってたけれど」
彼の言葉に、私は首を横に振った。
「そっか。俺のせいかなって思って、ちょっとひやひやしてたんだ」
彼と私は、歩き続ける。
足音だけが、二人の間に響き続けた。
「あの、ね」
私は、話を切り出した。
まるで、唇が鉄のように重かった。
「私、見合いするんだ」
翔太は、唖然とした表情になった。すぐにその顔が、苦しげになる。
「その相手と、結婚するってこと?」
「ううん、断ると思う」
「思うって、なんだよ」
翔太の声は静かだが、威圧感があった。
私は、小さくなることしか出来ない。
「だから最近、会いたくないって言ってたの?」
私は、頷く。
「……じゃあ、見合いに向けて準備してるんだ」
それは誤解だ、と私は言いたかった。
けれども、見合いに向けた準備が着々と進んでいるのは事実だった。
沈黙が、場に流れた。
いつの間にか、二人は足を止めていた。
翔太は私を見下ろし、私は足元を見ている。
「親御さんの紹介なのか?」
私は頷く。
「親御さんは、環に恋人がいるって知らないのか?」
私は、再度頷く。
「恋人がいるって言って、見合いなんてやめろよ」
翔太は、優しい声で言った。それは、すがるような声にも聞こえた。
「言えない」
「なんで?」
再び、沈黙が場に流れた。
「浮かれてるのは、俺だけだったってことかな」
淡々とした彼の言葉は、鋭く私の心を突き刺した。
「冬になったら、地元で一緒に雪を見ようって言ったよな。その時に、親に紹介するつもりだったのに、そういう気でいたのは俺だけか」
事情を全て話したかった。けれども、話せば彼は私の地元で就職すると言い出すかもしれない。
その責任を、私は背負えなかった。
「見合いはするけれど、結婚は断るよ」
私は、彼に縋りつきたかった。誤解だと叫びたかった。
「……俺には、理解出来ない」
彼は、そう言って歩き始めた。
私は、小さくなっていくその後姿を、ずっと見つめていた。
全て冗談だということにしてしまいたかった。また彼と笑いあって、その手に触れたかった。
私はその場に、一人残された。
肌寒い風が吹いた。
私は、ある日のことを思い返していた。それは、秋の始め頃のことだっただろうか。今年の冬は、彼の実家で過ごそうと誘われたのだ。
一緒に雪を見て、一緒にかまくらを作ろうと二人で約束した。
それを思い出していると、私はなんだか泣きたくなってきた。