本の虫より
冬休みが始まった。
私は、新幹線の席で、携帯電話を触っていた。
翔太からは、あれ以来連絡がない。
怒っているのだろう。
二人の仲は、些細なことで修復しそうな気もしたし、けして修復出来ない気もした。
私はきっと、ずっと翔太のことを親には紹介できないだろう。
反対されることが、わかっているからだ。
翔太は、関西で就職するつもりだ。私に地元に帰って欲しい親が、彼を気に入るわけがない。
ならば、私達の関係は、今後どうなるのだろうか。
彼に抱きしめられた時の温もりを、私は思い返す。なんだか切ない気持ちが込みあがってきて、私は少しだけ泣きたくなった。
新幹線が動き始めた。
私は、寝て過ごすつもりだったが、翔太のことを考えているとひとつも寝付けなかった。
気がつくと、私は電車を何度か乗り換えて、地元の駅まで辿り着いていた。
小さな駅に、シャッターのしまった商店街。人気のない町並み。
それが、私の故郷だった。
空から雪が降っていた。
今年の最初の雪は、翔太と見るつもりだった。
それを思うと、私の目からは涙が零れ始めた。私はそれを、必死に腕で拭った。
「どうした?」
懐かしい声がした。
父が、待合室からこちらに向かって歩いてきていた。
「お父さん」
涙は幸いなことに、すぐに引っ込んだ。
久々に見る父が、私を見下ろしていた。
頭の白髪が、少し増えたような気がした。
「迎えに来るなら、言ってくれれば良かったのに」
「途中に用事があったから寄っただけだ。ほら、車に行くぞ」
父に促されて、駐車場に歩く。
家の車の匂いは、なんだか懐かしかった。
両親の話し声が聞こえて、私は深夜に目を覚ました。
足音を殺して、一階へと降りていく。
「やりすぎじゃないのかと言っているんだ」
父の、苦々しい声がする。
「けれど、いつまでも恋愛のひとつもしないって、貴方も心配してたじゃない」
母の声がする。
「大学で相手を見つけるかもしれん」
「見つけるかわからないわよ」
「とにかく、環の負担になるようなやり方は控えろと言っているんだ。あの子は、駅で泣いてたんだぞ」
母は、反論しない。
「あの子に、自分の老後の世話をさせる気か」
「私は、あの子の幸せを考えてるんです。貴方こそ、あの子が結婚しなかった時のことを考えているの?」
愉快な話題ではないらしい。
私は、足音を殺して、再び二階へと上がった。
自分の部屋に入る。高校時代からまるで変わっていない。本ばかりが溢れている部屋だ。
私はベッドに寝転がり、携帯電話を開いた。
新しいメールは、届いていない。
私は、翔太に向かってメールを打ち始めた。
文章を書いては、気に入らなくて消す。それを何度か繰り返していると、いつの間にか心地良い睡魔が私を抱きすくめていた。
見合いの日は、二日後に決まった。
写真を見るかと母に問われたが、私は断った。
どうせ、相手は翔太ではないのだ。ならば、誰が相手だろうと同じことだった。
相手は警察官なのだそうだ。安定した収入があることを考えれば、母が薦めるのも納得がいった。
父に誘われて、私はドライブに出かけた。
通り過ぎていく景色に、私は視線を向ける。
「なんだか、町並みも結構変わったね」
本屋が潰れて病院になっていたり、個人スーパーが潰れてドラックストアになっていたりした。
「なあ、環」
「なに?」
「お父さんは、お前に恩を着せる気はないんだよ」
父の言葉に、私は戸惑った。
「だから私は、お前に見合いを強制する気はないし、結婚しろという気もない」
私は、思わず微笑んでいた。
「ありがとう、お父さん。少し、気が楽になった」
「大学では、好きな人はいないのか」
私は、答えに詰まった。
いると言えば、それは母の耳にも届くだろう。ならば、地元で就職する気はないのかと母に問い詰められることになる。
「いるんだな」
私の沈黙を、父は肯定と受け止めたらしかった。
「うん」
滑り落ちるように、その言葉は口から出てきた。
すると、次から次へと言葉が続いた。
「好きな人が、付き合ってる人が、いるの」
「同じ学校の生徒か?」
「うん」
「なら、見合いなんてしたら怒られるんじゃないか」
「うん、相手はへそ曲げてる」
「だろうな」
父は、苦笑した。
「お父さんは応援するよ、環。私は、娘に頼らなくても、自分の後始末ぐらい自分で出来る気だ」
父の言葉に、私は思わず微笑んだ。
家に帰ると、私は自室でメールの文章を打った。
お父さんが、翔太のことを認めてくれました。
そう短い文面を書いて、私は指を止めた。
こんなことを書いたところで、翔太の怒りは和らぐだろうか。
しかし、送らないよりはましだった。
私は、送信ボタンを押そうとした。
すると、そこにメールが届いた。
お前の実家の住所ってなに? という短い文面だった。
翔太からのメールだ。
私は微笑んで、さっき書いたメールを送ることにした。
しばらくして、返事が届いた。
それはどうでもいいから、住所。という短い文面だった。
どうでもいいと言うことはないだろう。私は腹が立ったが、住所を書いて送ってみせた。
考えてみれば、浮気をしたわけでもないのに、別れたいと言ったわけでもないのに、どうして自分はこんなに怒られなければならないのだろう。
それきり、返信は来なかった。
何を送る気なのだろうか。彼の部屋に置いてある私の本が届いたりしたら、私は立ち直れないかもしれなかった。
見合いの日がやってきた。
私は憂鬱な気持ちで、その日の朝を迎えた。
母が上機嫌で、会場や相手の話をする。
その情報は、私の右の耳から入って、左の耳へと通り過ぎて行った。
父も最早、母には何を言っても無駄だと思っているらしかった。
「私、結婚相手を決める気なんてないからね」
「けど、いい人よ。きちんと将来のことも考えて、結論を出すのね。貴女は、こっちで暮らすことになるんだから」
確かに、母の出した条件は考えようによっては優良だ。相手は公務員で、私は卒業と同時に専業主婦に納まれる。
けれども、優良であることと幸せであることはまた別のことなのだ。
母のプランからは、私個人の幸せが抜け落ちているように思う。
まるで形だけ整えて、味を考えない料理のようだ。
私は朝食を食べると、地元に帰ってから買ったスーツに身を包んだ。
着飾って、無駄な時間を過ごすだろう自分が、なんだか馬鹿らしく思えた。
家のチャイムがなった。
父の話し声と共に、聞きなれた声が耳に届いた。
まさかと思いながら、私は部屋の扉を開け、階段を下りて、玄関に向かって歩いて行く。
「俺は、環さんの大学の友人で」
「翔太?」
父の背中の向こう側に、翔太がいた。
「環」
彼は、私に目を留めると、微笑んだ。
私は驚いた。そして、胸が高鳴っているのを感じていた。
翔太は父に視線を向けると、真剣な表情で頭を下げた。
「お父さん、僕は環さんと真剣に交際しています。こっちで就職することも厭いません。どうか、交際を認めてください」
父が、困ったような表情でこちらを見る。
私は、慌てて翔太の肘を掴むと、そのまま家の外まで連れ出した。
近くの公園で、私と翔太はベンチに座っていた。
「何をやっているんだか」
私は、ぼやき混じりに言う。
「ドラマみたいだったな」
他人事みたいに、翔太は言う。
「冗談じゃないよ。これからどんな顔して親と顔合わせれば良いのさ」
「けど、いつかは親に紹介しなきゃいけないよね」
沈黙が場に流れた。
彼の言うことは、もっともだった。
不思議な気分だった。
子供の頃、駆け回った公園に、今は大学で知り合った恋人と共に居る。
「智子さんに聞いたよ。環の考えていること」
「なるほど、情報源は智子か」
「聡美が悪さした時もそう」
「あいつ……」
私は、口の軽い友人を心の中で恨みもし、感謝もした。
「だって、仕方ないよ。お姉さんはすぐに自分の殻に篭るし、口も上手くないんだから」
お姉さん、という言い方が、どこか余所余所しかった。彼は、私のことを責めているらしい。
「それ、智子が言ったの?」
「智子さんは、恋愛経験が中学生並みの子が、貴方をキープするだなんて賢しいことを思いつくわけがないって言ってた」
やはり、智子は内心では結構辛らつな人物評を抱えていたらしい。
しかし、怒る気にはならなかった。
彼女のおかげで、翔太と再び話せるようになったのは事実なのだから。
「こっちで就職するって? 夢はどうなったのよ」
「夢?」
「友達と甲子園」
「ああ」
翔太は苦笑した。
「野球観戦なら、新幹線に乗ればたまに出来る。けど、環は逃したらもう手に入らないでしょ」
「……私は、物かよ」
「好きだよ、環」
誤魔化すように、翔太は言った。
それで、誤魔化されてしまう自分がなんだか嫌だった。
「君と一緒なら、都会でも、田舎でも、きっと楽しく過ごせるよ」
「けど私、責任なんて取れないよ。こっちで貴方が就職するからって、喧嘩をしたら別れるかもしれない」
「その時はその時で考えるさ」
「前向きなのか、投げやりなのかわかんないわね」
「環は、後ろ向きだよ。先のことを考えて、今ある気持ちを投げ捨てるなんて、馬鹿げてる。いいじゃない。時に恋愛主体の判断をしても」
私は、反論する言葉を失っていた。
「好きだよ、環」
翔太は、繰り返し言った。
彼の唇が、私の唇に触れた。
「もう、手放さないから」
私は、やはり、まな板の上の鯉の気分なのだった。
「宅急便ですー」
声をかけられて、私はゆっくりと立ち上がった。
玄関へ行き、宅配物の受領書にサインをする。
若い宅配員は、爽やかな笑顔を浮かべて、去って行った。
台所へ宅配物を持っていくと、母がどうでも良さげに聞いてきた。
「何処からの荷物?」
「翔太からの」
「なるほどね。しかし、あんた達も自分達が不都合な時ばっかり親を頼るんだから」
「そう言わないでよ。お母さん達だって、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんに結構頼ってたじゃない」
痛い所を突かれたらしい。母は黙り込んだ。
しかし、彼女は最近忘れっぽい、しばらく経つと、また似たような嫌味を言うのだろう。
「野球と本と、どっちにする気なの?」
「野球かな。本を選んで、私は良かったと思う部分もあるけれど、後悔している部分もあるから」
「けど、野球を知ってる人は忙しいでしょう」
「……結局、本を読み聞かせてる自分が想像出来ちゃうなあ」
これは、育児方針に関する話だ。
私のお腹の中には、赤ちゃんがいるのだった。出産に備えて、私は一時的に地元に帰っているのだ。
私が翔太と結婚してから、めっきり愚痴っぽくなった母も、孫が生まれれば態度が変わるのではないか、と私は楽観視している。
むしろ、そう考えていないと胎教に悪い。
「ただいま」
玄関から、父の声がした。
足音と共に、父が台所に入ってきた。
その手には、日本酒の瓶がある。
「どうしたの、お父さん。お酒なんて」
「なあに。翔太くんが来た時に備えておこうと思ってな」
「お父さんがそう甘いからいけないんですよ。環の出産だって、一方的にうちで預かるって決めて」
「そう言うな。お前だって孫の顔を見たいだろう」
「まあ、そうですけど……」
翔太は今頃どうしているかな、と私は思った。
きっとスーツ姿で、仕事に励んでいるのだろう。
私はなんとなく、スマートフォンを起動して、彼にメールを送った。
本文は、短い。
君に会えて良かった。本の虫より。
大学に入学した時の私は、本当に本の虫だった。彼がいなければ、恋をしたかもわからない。
入学時も、二人の交際のきっかけになった学生証の貸し借りをした時も、お互いにこんな結果は想像しなかっただろう。
ほどなく、返信が届いた。
君が居てくれて良かった。野球男より。
私は少しだけ苦笑して、スマートフォンをポケットにしまった。
短い間ですが、お付き合いいただきありがとうございました




