epilogue
アンドリューズ王子夫妻を迎えた夜会から戻ったのは、夜も更けた頃のことだった。
セラフィーナは玄関ホールから自分の部屋へ戻るつもりであったが、レナートの手は彼女の手を離さなかった。
「……レナート様?」
少し困って小首をかしげたセラフィーナに、レナートは彼女の指先に視線を落としながら言った。
「冷えている。眠る前にあたたかいものを」
レナートの大きな手が、セラフィーナの手をそっと包み込む。その仕草に、セラフィーナの心臓がぎゅっと掴まれてしまう。
夜会で、アンドリューズ王子夫妻の前で見せたような、周囲に隙を与えない完璧な貴族の姿ではなく、今の彼はただ一人の男性として、ありのままの姿を見せている気がする。
その視線はどこまでも優しく、セラフィーナの心を包み込む。レナートはきっと、離れがたく思ってくれているのだろう。セラフィーナだって同じ気持ちだ。
それで、セラフィーナはそのままレナートの私室へと向かうことになった。
部屋の中は、暖炉の火が静かに燃え、部屋全体を琥珀色の光が満たしている。
レナートが使用人に命じ、用意させたあたたかいミルクティーからは、甘い香りが立ち上っていた。部屋には、夜会のざわめきとは対照的に、すべての音が吸い込まれるような静けさが広がっていた。
ソファに座ったセラフィーナの隣に、レナートも腰を下ろす。二人分のミルクティーから立ち上る湯気が、二人の間の境界線を曖昧にしている。
「……あたたかいです」
セラフィーナはミルクティーを口にして、ほっと息を吐いた。体に広がるあたたかさが、張り詰めていた心の緊張をゆっくりと解きほぐしてくれる。
レナートはそんな彼女の様子を、ただ静かに見つめている。
「夜会の時より顔色が良くなった。気を張っていたんだろう」
言われてみれば、夜会では緊張のあまり、体も心も強ばっていた。レナートの婚約者として、ふさわしい振る舞いをしなければと、ずっと気を抜けなかった。しかし今は、レナートの隣で、すべてから解放されたような安らぎを感じている。
「そうですね。少し……」
セラフィーナが正直にそう言うと、レナートはふっと笑みを浮かべた。そして、カップを置いた彼女の手に、自身の大きな手をそっと重ねる。
温もりが指先から流れ込み、胸の奥まで満たしていく。レナートがぐっと距離を詰めてきたので、セラフィーナは頬を染めた。
レナートは、そんな彼女の反応を愛おしそうに見つめながら、ふいに言った。
「ところで、きみに相談したいことがある」
「はい」
「結婚式は、いつにする?」
セラフィーナは大きく瞬きをし、彼をまっすぐに見つめ返した。
もともと婚約者としてこのサハロフ家で過ごすようになったのだから、当然その日がくることは分かっていた。だがセラフィーナとしては、サハロフ家とラトゥリ家により詳細が決定されるのを待つつもりであったので、急に具体的な質問をされるとは思ってもいなかった。
レナートは、彼女の驚きを察したのか、穏やかな笑みで言葉を続けた。
「両家には、きみが望む形で式を挙げたいと伝えるつもりだ。もし何か希望があれば、遠慮なく言ってほしい」
「……わたくしの希望、ですか?」
レナートは静かにうなずいた。彼が心からセラフィーナを尊重し、彼女の幸せを願ってくれている気持ちが伝わってきて、胸が熱くなる。
セラフィーナは少し考え、迷いながらも、心の中にある想いを言葉にした。
「結婚式は、大聖堂ではなく、このサハロフ邸の庭園で、親しい方々を招待して行いたいです」
言葉を区切ると、レナートは静かにうなずいた。彼の表情は、セラフィーナの言葉をひとつひとつ大切に受け止めているようだった。
「時期は、春がいいです。あたたかくて、花が咲き誇る季節に」
サハロフ家とラトゥリ家の結婚式であれば、王都の大聖堂で盛大に行うのが当然なのかもしれない。セラフィーナは、不安げに彼の顔をのぞき込んだ。しかしレナートは、わずかにほほえんだだけで、彼女の言葉を否定しなかった。
「サハロフ邸の庭園をきみが気に入っているのなら、それで良いと思う。それに庭園には、新しい温室もある。温室の近くに、祭壇を設えよう」
「本当ですか?」
セラフィーナは、ぱっと表情を輝かせた。
「嬉しいです。わたくし、レナート様が作ってくださった温室が、とても大切なんです」
セラフィーナがほほえむと、レナートは静かにその言葉を受け止めるように見つめ返した。彼の瞳は、深く、そして揺るぎない愛情に満ちていた。
セラフィーナは、あの日レナートが温室を贈ってくれると話した時のことを思い出す。
「温室の話をした時、レナート様は少し照れたように、逃げるように部屋を立ち去られましたよね……あの時のレナート様に比べて、いつのまにこんなに情熱的になったのですか?」
ふふっと笑いながら言ったセラフィーナに、レナートも小さく笑うと、真剣なまなざしで答えた。
「きみに愛してほしい、と自覚したから。もう自分の気持ちを隠しておくことができなくなった」
「レナート様……」
セラフィーナは、彼の名を呼んだ。その声は、甘く、そして幸福感に満ちていた。レナートは心から嬉しそうな笑みを浮かべた。
そして、レナートはそっとセラフィーナの指に自身の指を絡めた。まるで、二人の未来をつなぎ合わせるかのように。絡められた指先から伝わる彼の体温が、セラフィーナの心をあたたかく満たしていく。
レナートが顔を寄せ、そっと唇が触れ合う。そのキスは、ミルクティーの甘い香りが溶け合うように優しく、そして深いものだった。彼の吐息が、彼女の心を震わせる。
「……離れがたいな。春が待ちきれない」
キスの終わりにレナートがささやく声は、どこまでも甘かった。
暖炉の火が、二人の影を優しく揺らす。窓の外では星が静かに輝き、二人の幸せを祝福しているかのようだった。
(THE END)




