後編
真白ちゃんはすごい子なんだ。
そう思う度、私はいつも少しだけ不思議な気持ちになる。どうやらそう思っているのは私だけのようだったから。
文化祭準備期間の教室が騒がしい。机は端に寄せられて、床には段ボールやら模造紙やらが散らばっている。誰かがペンキをこぼしただの、ガムテープの買い出しが足りないだの、そんな声が絶え間なく飛び交っていた。
中心で指示を出しているのは私を含めた実行委員だし、ふざけたり目立っているのはクラスの人気者たちだ。
だから誰も気づかない。気が付いているのは私だけ。
「誰かー悪いんだけどこっち手伝ってー」
「いいよ、どうしたの」
直接自分が呼ばれたわけでもないのに、教室の隅で呼び止められた真白は、当たり前みたいに頷いてる。
五分後にはもう別の場所にいる。
「ごめん、こっちも見てくれる?」
「うん」
さらに十分後。
「これ運ぶの手伝って」
「今行く」
まだまだやってる。私は思わずため息を吐いた。
真白ちゃん本人すら気付いていない。
頼みやすいのだ。断らないから。嫌な顔をしないから。気づけば誰かが真白ちゃんを呼んでいる。
本人は善意だと思っていないだろう。困っている人がいるから手伝う。ただそれだけの真白ちゃんの金色なところ。
真白ちゃんにとっては呼吸みたいに自然なことなのだ。
でも普通はできない。少なくとも私はできない。自分の作業がある時は断るし、疲れている時は見て見ぬふりをしてしまう。
それが普通だと思う。だから不思議なのだ。どうしてみんな気づかないんだろう。
真白ちゃんがどれだけ凄いか。
でもそれは私だけが知っている秘密みたいで、少しだけ誇らしい。
「千尋、何笑ってんの」
いつの間にか真白が隣に立っていた。
「別に」
「絶対何かあるでしょ」
「真白ちゃん見てただけだよ」
「何言ってんの? 気持ち悪」
即答だ、ひどい。
でもそういうところも昔から変わらない。
「今日は何個頼まれた?」
「知らない」
「数えなよ」
「別に数えるようなことじゃないし」
そう言って真白は肩を竦めた。
やっぱり分かっていないんだよな。自分がどれだけ人に頼られているかも。どれだけ損をしているかも。
「ちゃんと寝てる?」
何気なく聞くと、真白は一瞬だけ目を瞬かせ、笑った。
「寝てるよ」
その笑い方に、私は胸の奥が少しだけざわついた。
理由は分からない。
ただ何となく、真白ちゃんが大丈夫じゃない時の顔に見えた。
その日も真白は最後まで動いていた。
模造紙を運び、買い出しの確認をして、揉めているグループの話を聞き、気付けば誰かの手伝いをしている。
放課後になってもそれは同じ。私は実行委員の仕事を終えて教室へ戻る。
窓の外はすっかりと日が傾いてオレンジ色だった。
真白ちゃんは? と、近くの友人に聞くと。
「知らない」
「帰ったんじゃない?」
そんな返事しか返ってこなかった。
教室を見回すても鞄がない、姿もない。帰ったのかもしれない。
でも何故だかそんな気がしなかった。胸の何処かが落ち着かなく、嫌な予感の波が私の中にら渦巻いている。
私は当てもなく教室を出ると、廊下を歩きながら、人気のない場所を順番に探していく。
他のクラス、視聴覚室、保健室、物置になってる屋上階段。
真白ちゃんの姿はどこにもない。真白ちゃんだって子どもじゃないし、一人で帰るくらい普通のことなのに。なぜか私の足は止まらなかった。
ただ、あの笑い方だけが壊れたビデオみたいにリフレインしている。
ふいに窓の外に目を向けたとき、体育倉庫の扉が少しだけ開いていることに気が付いた。夕陽が細い隙間から差し込んでいる。か細く、触れれば壊れそうな光が。まるで必死に助けを呼んでいるような。
何となく。本当に何となくだ。私はその扉に手をかけた。
軋む音を立てながら扉が開く。
薄暗い倉庫の中には、跳び箱やマットが雑多に積まれていた。夕陽だけが細い窓から差し込み、埃を金色に浮かび上がらせている。
その隅には人影。膝を抱えて座っている。見間違えるはずもない、私の探し人。
「……真白ちゃん」
呼びかけると、その肩が小さく揺れた。
ゆっくり顔を上げる真白ちゃんと目が合った。
大声を上げるわけでもなく、嗚咽を漏らすわけでもなく、ただ静かに。薄い涙の粒が音もなく溢れていた。
どうしてだろう。
探していたくせに、見つけてしまったことを少し後悔する。
真白ちゃんは泣かない。もしも泣く時は誰もいないところで泣く。そんな気がしていたから今ここにいる真白ちゃんは、たぶん誰にも見せたくなかった真白ちゃんなのだろう。
「何してるのさ」
見ればわかるのに。我ながら馬鹿な質問だった。
真白ちゃんは少しだけ鼻をすすって、それから笑った。
「サボりだよ」
やっぱりその笑い方だった。無理をしている時の笑い方。引き受けすぎて、相談されすぎて限界を迎えてるのが私にはバレバレだ。
「下手」
「何が」
「誤魔化すの」
真白ちゃんは少しだけ目を逸らした。
沈黙が落ちる。
もうすぐ日が沈む。
オレンジ色の光は少しずつ伸びてきて、真白ちゃんの足元を照らしている。
「帰ろ」
自然とそう言って、私は右手を差し出した。
「立てる?」
「子どもじゃないんだから」
「じゃあ一人で立ちなよ」
「意地悪千尋だ」
少しだけ笑うと、さっきよりは自然だった。
真白ちゃんは床に手をついて立ち上がろうとして、それから諦めたみたいに私へ手を伸ばしてくる。
指先が近付く。
その時だった。
私の右手を取ろうとした真白ちゃんの指が少しずれて、小指同士がぶつかった。
「あ」
どちらともなく声が漏れる。
ほんの一瞬。それだけだったのに。
真白ちゃんの表情が固まった。何かを思い出したみたいに。懐かしいものを見るみたいに。
「……約束だ」
小さな声だった。
「約束?」
聞き返すと、真白ちゃんは泣きそうな顔のまま少しだけ笑う。
「覚えてない?」
そう言われても直ぐには思い当たらない。
約束、小指、夕陽?
喉元まで出かかっているのに、上手く掴めない。夢の中でぬるま湯に溺れているみたいな感覚だった。
真白ちゃんはそんな私を見て、小さく息を吐いて言う。
「小学生の時だった」
少しだけ言葉を探すように目を伏せる。
「落書き」
その一言で、曖昧だった記憶が音を立てて繋がった。
夕焼けの教室。誰もいない放課後。教室の後ろの壁。
あの日だ。
◇
教室の後ろに書かれた落書き、最初に見つけたのは私自身だった。
詳しい内容なんて今となっては覚えていないし、覚えていたくもないことだった。
ただ、自分に向けられた悪意だということだけは覚えている。
油性ペンでべっとりと書かれた悪口は消し方も分からず、先生に言う勇気もなくて、私はただ立ち尽くしていた。
その時だった。
「千尋?」
聞き慣れた声。振り返った先には真白ちゃんがいた。
「ちょっと待ってて」
教室を飛び出していった数分後、真白ちゃんは雑巾とバケツを持って戻ってきた。それから何も言わずに落書きを擦り始める。
「何してるの」
「消してる」
見れば分かるでしょ、とでも言いたげな顔で真白ちゃんは首を傾げた。
雑巾はすぐに黒くなるし、腕も服も汚れている。
それでも真白ちゃんは手を止めなかった。
私の代わりに怒っているわけでもなく、正義感に燃えているわけでもなく、ただ、そこにあるから消している。そんな風に見えた。
やがて落書きが跡形もなく消えると、真白ちゃんは満足そうに頷く。
「よし」
それから私の手を取った。
「帰ろ」
そのまま校門を出て夕焼けの道を二人で歩く。他愛もない話をして、スーパーの前を通って、庭に繋がれた犬に吠えられて。
でも途中で気づいたんだ。静かな真白ちゃんがいつにもまして黙っていることに。
「真白ちゃん?」
呼んでも返事はなくて顔を覗き込む。
そこで初めて気が付いた。
真白ちゃんは泣いていた。
「え、何で?」
私には意味が分からなかった。落書きの悪意の行先は私だった。傷付いたのは私のはずだけど、泣いているのは真白ちゃんだった。
真白ちゃんは困ったように言う。
「分かんない。でもね、悲しかった」
真白ちゃんはゆっくりと、自分の考えを整理しながら話しているようだった。ジクソーパズルのピースを組み合わせるみたいに。
「私ね、人が悲しいと、自分も悲しくなるんだ。もちろん、自分が悲しいのも悲しい。だからたぶん」
少し考えてから、ポツリと吐いた。
「損してる」
「何それ」
「だって二回分悲しいんだよ? 人の分と自分の分」
真白ちゃんは本気で言っているようだった。
ああ、真白ちゃんなら本当にそうなんだろう。
人よりたくさん悲しくて。きっと人よりたくさん嬉しくて。
だからきっと、いつかは人より傷付いてしまう。
私は立ち止まる。
「じゃあ半分こね」
「え?」
「真白ちゃんの悲しいを」
差し出した小指を真白ちゃんが見つめる。
「半分私が持つ」
「何それ」
「約束」
真白ちゃんは泣き顔のまま少しだけ笑った。
それからゆっくり小指を差し出してくる。
夕陽に照らされながら小さな指が絡まる。
「約束」
「うん」
その言葉だけが、いつまでも橙色の空の下に残っていた。
◇
「そんな約束したね」
思わず笑うと、真白ちゃんは少しだけ俯いた。
「忘れてた?」
「うん」
正直に答えると、真白ちゃんは肩を竦めた。真白ちゃんだってさっきまで忘れてたくせに。
「でも来たよ」
真白ちゃんが顔を上げる。
「約束は忘れてたけどさ、半分こしに来た」
私たちは少しだけ絡まった小指を見る。
真白ちゃんは何も言わないけど、お互い少しだけ指にかかる力が強くなる。離れないように、忘れないように。
私はそのまま小指を、いや、全部の指を絡めてしっかりと手を繋ぐ。子どもの頃みたいに、迷子にならないように。
「帰ろ。一日くらいサボっちゃお」
真白ちゃんが頷いた。
差し込む夕陽はもう弱いけど、私たちの絡まった指だけはなかなか離れなかった。




