最終話「ネコ」
夜の逆恨み埠頭は世界の果てのような静けさに包まれていた。波音さえも凍てついた冬の海から、研ぎ澄まされた風が吹きつけて頬を裂く。等間隔に立つ街路灯が血色の悪いコンクリートに古ぼけた光を落としていた。その輝きを避けるように、フユキたちは廃倉庫へと向かった。
割れた窓からなかを覗く。だだっ広い倉庫の中央で、ミヨコが椅子に縛りつけられている。気を失っているのか、ぐったりとうなだれる彼女の傍らには机が置かれ、その上に箱がいくつか並んでいる。
「奴ら、妹になにをしたんだ」
スーツ姿の富岡が、先の尖った革靴を鳴らしながらミヨコのまわりをゆっくりと回っている。富岡を守るように立っている二人組は、拳銃を手に周囲を警戒していた。おそらくミヨコを誘拐した実行犯であろう。
いますぐにでも乗りこんでやりたい。逸る心をおさえきれずに立ち上がるフユキをリュウジが引き留めた。
「おれたちが行く。おまえは待っていろ」
「でも……」
「ここは大人に任せな」
カホにたしなめられ、フユキは渋々引き下がる。リュウジは銃を手に倉庫の入り口へと向かい、カホがそのうしろに続いた。
重たい鉄の扉が悲鳴のような音とともに開かれ、リュウジがなかに入っていくのが見えた。取り巻きの二人が銃を構えようとするが、リュウジは素早く引き金を引く。明かり取り用の窓から差しこむ月の光に噴きだした血のシルエットが浮かんだかと思うと、取り巻きはぐったりと倒れて動かなくなった。
「来たな、裏切り者。会いたかったぜ」
長い髪をかき上げながら富岡が笑う。
「仲間はこれだけか?」リュウジは銃を構えたまま言った。「おまえの親父はもっと友達がいたぞ」
「そうだ。僕のお父さんにはお友達がたくさんいたんだ。ぜんぶおまえが殺した!」
倉庫の明かりがいっせいに灯され、富岡の背後に隠れていた手下たちがリュウジに向けて発砲した。リュウジはとっさに近くの柱の影に飛びこんで身を隠した。虫が葉を食い散らかすように、無数の弾丸が柱を少しずつ食い尽くしていく。だがそれでもリュウジは決して焦らない。攻撃がやんだ一瞬の隙をついて反撃し、敵を確実に葬り去っていく。一人、また一人。リュウジの放った弾丸は、面白いようによく当たった。
最後の一人が倒れ、倉庫内に静寂が澄みわたる。フユキにはなにが起こったのか理解できなかった。あれだけ大勢の敵を、たった一人で返り討ちにするだなんて。しかも、リュウジはまったくの無傷なのである。涼しげな顔で血の海をわたるリュウジの姿にフユキは恐怖すらおぼえた。
「バケモノめ」
富岡は忌ま忌ましげに言い放ち、ミヨコの髪をつかんで激しく揺さぶる。ミヨコは重たげな呻きとともに目を覚ました。
「リュウジさん……」
「ミヨコ!」
駆け出そうとするリュウジに向けて富岡が発砲する。足元のコンクリートの床が抉られ、リュウジは慌てて歩みを止めた。
「そこから動くなよ」
富岡は右手で銃を構えたまま、左手で机の上の箱を開けた。青い液体の入った注射器の先端が冷たく輝く。
「こいつがなにかわかるか?」富岡がニヤつきながら言う。「解毒剤だ。正確には、幸福度を一時的に大きく下げる薬だな」
「解毒剤だと?」
「こいつをいますぐに打たなければ、この娘は死ぬぞ」
富岡はミヨコの髪をかき上げ、白い首筋をリュウジに見せつけた。
「おまえ、ミヨコになにをした?」
「こいつを打ったのさ」
富岡は机の上に置かれたもう一つの箱を手に取った。見覚えのある緑色、虫シラズのパッケージである。
「この虫シラズは、虫の特効薬なんかじゃない。打った人間の幸福度を急上昇させ、強制的に虫に感染させる薬なのさ。こいつを打たれた人間は百発百中、虫の餌食になる。マスクなんてクソの役にも立たなくなるぞ。しかも幸福度が振り切れるから、虫が寄ってたかって脳を食い荒らしちゃうってわけ」
「まさか、そいつをミヨコに打ったのか」
「そのまさかだよ」
富岡は子どものように飛び上がってはしゃぎだす。ミヨコが虫に感染させられた。フユキの視界が真っ白になる。その話が本当なら、早くなんとかしなければミヨコは虫に脳を食われてしまう。
「なぜそんなことをする? そもそも、どうしてそんな危険な薬を作ったんだ」
「啓蒙だよ。虫シラズを町で流行らせれば、感染率と死亡者数が増える。当然、幸福度の管理と取り締まりは厳しくなるだろう。そうなれば、市民はおまえらみたいな不幸者をますます恨むようになる。あいつらばかり楽しやがって。不幸に守られやがってってな」
「そんなにおれたちが羨ましいか」
リュウジの挑発的な物言いに、富岡の顔が歪む。
「逆だよ。おまえたちを見ていると虫唾が走るのさ。虫に感染することがない、誰よりも幸せな人間のくせに不幸自慢ばかりしやがって。とくにおまえは気に入らない。不幸を自慢するだけに飽き足らず、僕のお父さんを逆恨みして殺したんだからな。おかげで組は空中分解。残された仲間も虫に食われて死んでしまった。ぜんぶおまえのせいだ!」
癇癪を起こした富岡が、天井に向けて銃を乱れ撃つ。
「いや、もうやめて!」
ミヨコの叫び声が倉庫じゅうに響いた。だが富岡はそれをむしろ面白がるかのように、彼女の耳元で叫んだ。
「怖いか? 愛しのお兄ちゃんに助けでも求めるか? 来るわけねえだろ。あんな臆病者のガキがよ!」
「よせ」リュウジが叫ぶ。「おまえの狙いはおれのはずだ。ミヨコやフユキを巻きこむな」
「だったら、いまここで死ねよ。おまえがその銃で自分の脳天を撃ち抜くんだ。そうすればこの娘を助けてやる」
富岡は注射器を見せびらかすように揺らした。青い液体が照明の人工的な光を浴びて際立つ。
「おれが死んだら、本当にミヨコを助けてくれるんだな」
だめだ。声に出して叫びそうになり、フユキはとっさに口を手で塞ぐ。自ら命を絶つだなんて、そんなことをしてはいけない。
フユキはあたりを見渡し、富岡の背後にある勝手口へと向かった。幸い、相手はフユキの存在に気づいていない。背後から隙をついて襲いかかれば、拳銃も注射器も奪えるはずだ。
それにもしも拳銃を奪ったら、自分が富岡を撃ち殺せばいいのだ。大丈夫。撃ちかたなら知っている。
フユキが初めて銃を撃ったのは、D区を逃げだすときのことだった。D区でも幸福度が低い人間は虐げられていて、そのうち虫は幸福度が低い人間が持ちこんだものだという噂を流して幸福回収人をリンチしてまわるような連中が出てきた。町を出るときにその連中とやりあうことになり、フユキは引き金を引いてしまった。彼が持っていたのは、一緒に町を逃げるはずだった仲間から渡された銃である。だがその仲間は町を出るときのいざこざで命を落とし、フユキとミヨコだけが生き延びた。
フユキを人生の二十五時へと追いこむきっかけとなった、二度目の殺人であった。
「虫シラズを打ってから効果が出始めるまで三時間。こいつを過ぎると、どうやっても幸福度は下がらなくなる。この娘に残された時間は……あと三十秒だ!」
「クソが」
リュウジは拳銃を自分のこめかみにつきつけた。
「いいねえ。おまえのその顔が見たかった」
怒りと絶望が相半ばするリュウジの顔を見ながら、富岡は高らかな笑い声を上げた。
「ほら、早く死ねよ。そうすればこの娘は助けてやるよ」
富岡が言い終えるのとほぼ同時にドアが蹴破られ、フユキが富岡めがけて突っこんでくる。
「クソガキめ。来てやがったのか」
急いで狙いを定めようとする富岡だったが、フユキはそれよりも早く彼に飛びかかった。富岡の手からこぼれ落ちた注射器と拳銃が床を滑る。
「そいつを渡せ!」
富岡の足元に転がる注釈を取ろうとするフユキ。しかし彼が手を伸ばした瞬間、富岡は黒光りする革靴で注射器を踏み潰した。
注射器が粉々に砕け、なかの液体が漏れ出していく。解毒剤が。ミヨコを助ける唯一の方法が、砕けてしまった。
「そんな……」
フユキは唖然とした顔で見つめるしかなかった。
「残念でした! おまえの妹はもう助かりません。あーあ!」
富岡は満面の笑みを浮かべながらフユキとミヨコのまわりをスキップする。フユキの胸の奥から耐えがたい熱がこみ上げてくる。胸が、喉が灼けるほどの激しい怒りがフユキの目の前を真っ赤に染め上げた。こいつのせいで、こんな人の命をなんとも思っていないような男のせいでミヨコが死んでしまうのだ。
フユキは足元に転がる拳銃を拾いあげた。
「殺す。殺してやる!」
引き金に指をかける。母を殺したとき、泣きながら置物を振り下ろした。D区でアンチを殺したときも、苦しみながら引き金を引いた。だがいまは、なんの躊躇もなく富岡を撃てる気がする。
「おまえに僕が撃てるのかよ?」
「撃てるさ。撃てるとも」
富岡に狙いを定め、指に力を入れようとしたそのときだった。
「やめて!」
ミヨコの声が倉庫に響き、その場にいた全員が彼女のほうを振り向いた。
「ミヨコ。おまえ、虫シラズを打たれたんじゃ……」
「大丈夫。私には効かないから」ミヨコは泣きながら言う。「だって、私も昨日を終えられなかった人間だもの」
昨日を終えられなかった。その言葉でフユキはすべてを理解した。
ミヨコもまた、二十五時症候群を発症しているのだということを。
「なんだよそれ!」富岡が頭を抱えて取り乱す。「おまえも不幸者? それじゃあ、不幸者は本当に虫を寄せつけないってこと? そんなの、ズルいでしょうが!」
富岡は懐に隠していたナイフを取りだし、ミヨコめがけて駆け出した。しかし、その刃がミヨコに届くより先に一発の銃声が鳴り響き、富岡の手からナイフが弾き飛ばされる。
「え?」
弾が飛んできた方角には、回転式の拳銃を構えるカホが立っていた。彼女の顔を見た瞬間、富岡は眉間にしわを寄せる。
「とことん忌ま忌ましい奴らめ!」
その言葉は銃声に呑みこまれた。リュウジがありったけの弾丸を富岡の体に撃ちこんだのだ。蜂の巣にされた富岡は怒りに歪んだ顔のまま倒れ、あたり一面にほのかに白い血が広がった。
「大丈夫か、ミヨコ。いま助けてやる」
ミヨコの拘束を解こうとするリュウジに、フユキが訊ねた。
「もしかして、知ってたのか? ミヨコがシンドロームだってこと」
「おまえたちを拾ったとき、ミヨコの幸福度も測定していたんだ」
「兄さん、リュウジさんを責めないであげて。私が黙っておくようお願いしたの。自分から兄さんに説明したかったから」
ミヨコが申し訳なさそうにしながらフユキの手を握る。ミヨコの体温を感じながら、フユキはこんなに美しく温かい手が不幸にまみれているのだという事実がにわかには信じられなかった。
警備隊が騒ぎを聞いて駆けつける前に立ち去らなければならなかった。一行は急いで車に戻り、正門ではなく北側の港湾関係者用の門から公道に出る。県道に入り、同情大橋方面へと続くバイパス道路に合流すると、市街地のきらびやかな夜景が視界いっぱいに広がった。
「綺麗」
ミヨコがうっとりした表情で漏らす。だがその瞳は夜に青々と染まって、見ているとなんだか泣きたくなってくるような色だった。
「しばらく見られなくなるからね。よく目に焼きつけておくんだよ」
カホはフユキが持ってきてしまった富岡の拳銃をいじりながら言った。
「町を出るのか?」
「おれたちは騒ぎを起こしすぎた」と運転席のリュウジが言う。「オリハラ書店は今日で閉店だ」
カーラジオから流れるAMが市長選について報じている。どうやら不幸者を差別していたあの候補者が支持率を順調に伸ばしているらしい。あいつが市長になったら、おれは城にはいられなくなるのか。そんなことをフユキはぼんやりと考えた。だが、いまとなってはどうでもいいことだ。どのみちフユキたちは城から逃げなければならないのだから。
富岡は不幸者を城に招き入れるべきではないと言っていたが、彼の最大の誤算は、不幸者がみな城に入りたがっていると思っていたことだ。抒情市は確かにいい町だと思う。この夜景を見て名残惜しさを感じないといえば嘘になる。だが、この景色も名残惜しさも人生における通過駅にすぎない。感慨を誘いこそすれ、フユキの心を永遠に留めておくことはできないのだ。
もしも彼の心を捕らえて離さないものがあるとすれば、それはミヨコだけだった。
「ごめんね、兄さん。私は兄さんの望んだ私になれなかった」
窓の外に目を向けたまま、ミヨコが嗚咽まじりに漏らす。ただでさえ華奢な背中が疲れのせいで丸くなり、さらに弱々しく見えた。いったいいつからだったろうか。ミヨコはいつからこの背中に、終えられなかった昨日を負いつづけてきたのだろう。
いいんだ。おまえの人生はおまえのものだ。おれのために生きなくていいんだ。フユキはミヨコを静かに、しかし強かに抱きしめる。
「そうだ。おまえたちに渡すものがあるんだった」
リュウジはダッシュボード下に置かれていたバッグから紙の包みを二つ取り出した。
「なに、これ?」
「チーズステーキだ。おれとカホがよく通っていた店の名物でな。おまえたちのぶんをテイクアウトで買ってきてたんだ」
「冷めても絶品なんだから」
包みを開けると肉やチーズの香ばしい香りが車内に充満し、そのあまりの芳醇さにフユキは目を閉じた。
「うわあ、美味しそう」
先ほどまで泣いていたミヨコの顔にも笑みが浮かぶ。その様子をルームミラー越しに眺めていたリュウジが満足げに頷いた。
「まだ食べるなよ。同情大橋を渡った先に自販機がある。そいつはコーラとセットで楽しまなくちゃ意味がない」
アクセルが踏まれ、ハイエースのエンジンが鬱憤を晴らそうとでもするかのように大声で唸る。ラジオではちょうど二十四時の時報が鳴っていた。不幸者たちの時間まであと一時間だ。




