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私は誰にも渡さない

 いつでもどこでもどんな状況でも、私の言葉に真っ先に反応するのは決まってスノーウィだ。


 スノーウィはすぐさま私に向き直った。その場にぺたんと割座して、両膝の間に両手をつく。上目遣いに私を見つめながら、腹這いの姿勢をとった。


 私の鶴の一声で、狂暴な人喰い狼は従順な飼犬に変わる。当たり前だわ。だって、スノーウィは私の犬なんだもの。


 その歴然たる事実を理解できなかった黒服は、スノーウィに銃口を向けたまま呆然としている。間抜け面を晒して放心している黒服は仲間の二人に取り押さえられて、テイザー銃を取り上げられた。


 取り敢えず、危機は脱したみたい。私は胸を撫で下ろす。頭上から親父の含み笑いが降ってくる。


「どうかね? ちょっとしたものだろう。『下賎の娼婦』も躾次第で『貞淑な妻』に仕立て上げることが出来るのさ」


 シンクレアが顔を上げて親父を仰ぎ見る。額からどっと汗がふきだして、頭から水をかぶったみたいに濡れている。


 スノーウィが黒服を噛み殺した、一部始終を目の当たりにして、だいぶ参っちゃったみたい。


 それでも、シンクレアはスノーウィを「度し難い」と見捨てたりしないだろう。シンクレアは親父の笑顔が見るに堪えないと言わんばかり目を背け「……度し難い男だ」と吐き捨てる。


 私は心のなかでシンクレアに拍手をおくった。まったくもってその通り!


 親父はシンクレアと私を交互に見た。私を見つめるスノーウィの真似をして、小首を傾げる。


「おや? お気に召さなかったかな? 出来る限り、お上品な言い回しを選んだつもりだが。なぁ、ミケイラ。パパはシンクレア警部補を気遣っているよな?」

「……そうかもね」


 私は適当に相槌をうち「そんなことより、おろして」と親父に催促した。然り気無く、密着する親父の胸を肘で押し返す。そうする変わりにお腹を蹴ることも出来たけど、私はそこまで向こう見ずにはなれない。


 強く拒絶しない私に、親父はニヤニヤしながら頬擦りをする。


「ん? どうしたミケイラ、恥ずかしいのか? お前が今よりもっと小さい頃は、お前の方から『パパ、だっこ!』って、ところ構わずせがんできたのになぁ」


 脂ぎった頬を擦り付けられる。ぶわっと全身に鳥肌が立つ。物凄く不快。肌が焼け爛れて、挙げ句の果てに腐り落ちてしまいそう。うっかり手放してしまいそうになる理性をなんとか繋ぎ止めて、私は「スノーウィ、伏せ。そのまま、伏せ」と繰り言する。そうしないと、たぶん、スノーウィはまた親父に飛びかかるだろうから。


 親父に可愛がられて、夢の世界に逃避しようとする私の意識を、シンクレアの掠れ声が現実に引き戻す。


「おろしてやれ。嫌がっている」


 私は目を丸くする。親父も目を丸くしている。親父の驚きは私の素直な驚きとはまるで別物だろうけど。

 シンクレアは真摯な眼差しを私に向け、私に語りかける。


「約束は覚えているな? 君が約束を守ってくれる限り、俺を好きにして良い」


 私ははっと驚いた。嬉しい驚きだ。やった! と手を叩いて喜ぶ私を親父が抱え直す。シンクレアを見る親父の目が、シンクレアを値踏みしている。シンクレアが「だから、その娘をおろしてやれと」と言おうとするのを、親父の哄笑が遮った。



「実に扇情的な誘い文句だ。白雪姫のような美女が目を潤ませて囁いてくれたなら、堪らなくそそられるだろう。ところがお生憎様、俺には男相手に股座をいきりたたせる趣味はないんだ」


 気味の悪い猫撫で声で、親父はそう言った。私だけじゃない、この場に居合わせた全員がぞっとしたんじゃないかな。


 シンクレアが鼻先で笑う。震え上がっているのは誰の目にも明らかなのに、虚勢をはっている。今更、どうして? シンクレアが心に留めた私の疑問に答える筈もなく、彼は苦しそうに奥歯を鳴らしながら軽口を叩いた。


「そいつは朗報だ。あんたは俺に興味があるらしいから、白状するとかなりビビっていた。性的サディストは性別関係なく、殺すことで快感を得ると聞いたことがある。俺みたいな豚野郎を吊るして捌くのがお好みって訳じゃないんだな」

「豚野郎だって? 酷い悪口だ。シンクレア警部補、君は卑屈と妥協に慣れてしまったようだな。外見の美醜など、取るに足らない些末事だよ。どんなに美しく澄ました女も、皮一枚剥げば、その下は他の人間と大差ない。どれもこれも血が詰まった肉の袋に過ぎないのだからね。とかなんとか言いながら、俺は美人に目がないんだが」


 そう言うと、親父は思案するような仕草で自分の顎を撫でた。



「それで? 君はどうするんだ? ミケイラの為に、君には何が出来る? 教えてくれないか、具体的に。そうだな、試しに何かやってみせてくれよ」


 シンクレアは口をパクパクさせた。口の中がカラカラに乾き、言葉が喉にはりついて出てこないのかもしれない。


「何かって何だ。あんたのケツにキスでもすりゃあ良いのか?」


 たっぷり時間をかけて、絞り出した言葉がこれだ。呆れる私を尻目に、親父が腹を抱えて笑いだす。


「ブーブーブー! 威勢の良いことだ、ミスター『豚野郎』。虎の威を借りるのは狐じゃなかったっけ?」


 そう言って、親父は私の頬にキスをする。声にならない悲鳴を上げる私を床におろした。顔を真っ赤にして、ぶるぶると身体中の贅肉を震わせるシンクレアを見下ろす。


「怒らせたかな? だが、君が始めたんだぞ」


 親父はシンクレアに近づき、しゃがみこむと、格子に額を擦り付けるようにして囁きかける。まるでベッドの中で私に囁くみたいな、生々しい、湿った声色。シンクレアはびくりと震えて顔を背けた。まるで、蜘蛛の巣にかかった蝶が、為す術もなく、震えているかのように。


 私はうっかりしていた。私が心配しなきゃならないのは、シンクレアの翻意なんかじゃない。親父の気紛れだった。親父の気紛れに振り回されていたら、私はシンクレアを永遠に失ってしまうかもしれない。


 私はいてもたってもいられなくなって、親父の背中に向けて叫んだ。


「ダメよパパ! そのひとは私のものにするんだから!」


 親父が肩越しに私を振り返る。「もちろん、わかっているとも」と、親父は鷹揚に頷いてみせる。


「シンクレア警部補には、まず、パパの楽しみに付き合ってもらう。パパが満足したらお前に譲ってやろう。なぁに、心配するな。シンクレア警部補なら大丈夫さ。それに、パパは壊れた玩具をお前に下げ渡したりしねぇよ」


 私は頭を抱えた。親父が満足するまで遊んだ後で、壊れなかった人間なんて一人もいなかった。


 クソ親父、シンクレアをからかっているうちに、私に下げ渡すのが惜しくなったんだ!


 親父はシンクレアを玩具にして使い潰すつもりだ。そうはさせるか。シンクレアは私のものにする。シンクレアは私が飽きるまで、私の傍に置いておく。これだけは、絶対に譲らない!

 私は親父の丸い背中に飛び付いた。親父をシンクレアから引き離そうと躍起になった。


「嫌! 絶対に嫌! このひとの汚い顔がパパの汚いお尻にキスするなんて、絶対に嫌! だって、気持ち悪いもん!」

「おいおい、ミケイラ。お前、いくらなんでもその言い種はないだろう。シンクレア警部補に謝りなさい」


 私に髪や襟を引っ張られて、さも愉快そうにけらけらと笑っていた親父が、不意に私の頭を肩に担ぐようにして抱え込む。硬直する私の耳に口唇を寄せて、親父は囁いた。


「なぁ、ミケイラ。俺譲りの審美眼をそなえているお前にはわかるよな? こんなハンサムには、なかなかお目にかかれるもんじゃねぇ。豚舎に放り込めばたちまち、雌豚が群がるだろうよ」


 私は焦点が定まらない程に近くにある親父の顔を凝視した。親父は私の表情をなめるように見つめて、わざとらしく露悪的な笑みを浮かべる。いつも通りの親父だ。いつも通り、好き勝手、やりたい放題、やるつもりだろう。



 いつも通りなら、私は親父のやることを傍観するだけだ。不平不満を並べたり、おねだりをしたりしても、肝心なところで、私は親父に逆らわない。私は愚か者じゃないから、痛い目に合えば懲りるし、賢明になろうとする。そうして私は、それなりにうまくやっている。


 どうする? いつもの通りにする? そうするのが賢明だと、わかってはいるけど。

 でも、そうしたら私は、一番欲しいものを手に入れられない。


 私は親父の手を振り払った。くるりと足を踏み変えて振り返る。腹這いになっていたスノーウィが頭をもたげて、私を見上げている。


「スノーウィ」


 スノーウィは一目散に駆け寄って来た。グッド・ボーイ、と誉めて頭を撫でると、スノーウィは私の掌にぐりぐりと頭を押し付けてくる。興奮するスノーウィの頭をぽんぽんと軽く叩いてなだめてから、私は親父に向き直る。親父は驚いた顔の裏で笑いを噛み殺していた。


 親父にとっては、きっと、何もかも全てが予定調和なんだろう。だったら、やるしかない。もう、後戻りは出来ないんだから。


 私は腹を決めて、私を挑発する微笑みを絶やさない親父は見据えたまま、スノーウィに命令した。


「シンクレアを守れ。彼は私の所有物(もの)よ。シンクレアを私から奪おうとする奴は誰だろうと容赦しない」


 一言も聞き漏らさないようにと私の言葉に耳を傾けていたスノーウィが、私の命令を聞いて目を見開く。大きな瞳が緑色の焔のように燃え上がっていた。


 おかしい。いつもなら、スノーウィは目を宝石よりもキラキラさせて、私の命令に従うのに。こんな反応は初めてだ。


(その目はなぁに?)


 遠回しに、親父をやっつけろと言ったのが不味かったのか? そう言えば、スノーウィは親父が用意した犬だった。これまで、何度か親父に噛みつこうとしたことがあったけど、実際に噛みついたことは一度もない。抜け目のない親父のことだ。スノーウィが親父を襲わないように、何か、安全装置みたいなものを用意していたとしても不思議じゃない。


 疑心暗鬼になった私は、一歩退いてスノーウィから距離をとる。固く引き結ばれたスノーウィの唇が綻ぶ。もしかしたら、声が漏れたかもしれないけど、背後で親父が「なんだって!?」とすっとんきょうな声をあげたせいで聞こえなかった。


 振り返ると、親父が芝居がかった態度で天を仰いでいる。


「俺を邪魔者扱いするのか! 俺の愛しいミケイラが、お前を愛してやまないこの俺を!」


 親父は哀れっぽい声調で悲嘆に暮れるふりをしながら、途中で可笑しくて堪らなくなったようで、げらげらと笑いだした。思う存分、馬鹿笑いすると気が済んだらしい。親父は私の方を向いて、朗らかに言った。


「筋金入りの男嫌いのお前を誑しこんだ色男が、人間を餌にするじゃじゃ馬をうまく乗りこなせるか否か、試してみたかったんだが……まぁいいや。それはおいおい」


 それからシンクレアの方を向いて、にっこりした。


「娘をよろしく頼むよ、ミスター・シンクレア。ミケイラに飽きられたら、今度こそ、俺と遊ぼうぜ。人と豚の合の子を食ってみたい。ゲテモノは美味いと相場が決まっているからな」


 そう言って、片目を瞑ってみせる。不格好で不気味なウインクを目の当たりにしたシンクレアは、バースデーパーティーの会場でアタッシュケースの中身を見てしまったときと同じ様な顔をしていた。


 親父は格子の隙間に手を差し入れると、シンクレアの肩に手を置いた。ソフトな手付きだったけど、シンクレアは焼鏝を当てられたみたいに飛び上がる。親父はシンクレアの慌てようを笑いながら、こう言った。


「そうと決まれば、さっそく始めよう。鉄は熱いうちに打てと言う。私の母の母国では善は急げと言うらしいがね。さぁ、ミケイラに追従したまえ。あの娘を退屈させないように。あれの飽き性は親譲りの病気だよ」

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