私の思いがけないハプニング
シンクレアの条件を二つ返事で承知した私は、私の護衛とシンクレアの監視を兼任して私の背後に控えていた黒服に、大急ぎで親父を呼んで来いと命令した。シンクレアの気が変わらないうちに、さっさと話をまとめてしまうべきだから。
約束も羽毛も風が吹けば飛んでしまうと、私に教えたのは親父だ。それなのに親父は私に待ち惚けを食わせた。だんまりを決め込むシンクレアの様子を窺う。こうしている間にも、シンクレアが翻意するかもしれない。
間に合うかどうかやきもきする私の気も知らないで、スノーウィはくんくんと鼻を鳴らしてすり寄ってくる。いつも通り、スノーウィを折檻することで、憂さ晴らしがしたかった。でも、舌の根も乾かないうちに約束を反古にすれば、怒ったシンクレアが私を拒絶することはわかりきっているから、私は歯を食いしばって耐えるしかない。
私に叱られないのをいいことに、スノーウィは私にまとわりついて離れない。ああもう、鬱陶しい! 睨み付けると、小首を傾げて見上げてくる。
この仕草は「なぁに?」「何て言ったの?」と主人の気持ちを汲み取ろうとする仕草らしいけど、それだけじゃなくて「僕は可愛いでしょ?」って主人の気を惹こうとする仕草でもあるらしい。飼育書をぱらぱら捲ってみたらそう書いてあった。スノーウィは可愛い。でも、あざといのは可愛くない。
仰向けに寝転んでお腹を見せたスノーウィが、エメラルド・グリーンの瞳をきらきらさせて私を見上げている。服従のポーズだ。「僕はあなたのものです」。これも飼育書に書いてあった。
わかってるから。お前は私が大好きなんでしょ。お前は私の為につくられた私の犬だからね。わかってる。わかってるってば。もう、しつこいな。
うんざりして、ため息をついた。ちょうどその時、階上で扉が開く音がした。黒服を従えた親父が悠々と階段を降りてくる。親父が地下に降り立ち、私は親父に詰め寄った。
「遅いわ、パパ! 待ちくたびれたちゃったじゃない!」
親父は分厚い唇を三日月のように裂いて笑った。湿った掌が私を上からおさえつけるようにして頭を撫でる。小さな虫がいっせいに蠢いたかのように、ぞわっと鳥肌が立つ。
親父の視線は鉄格子の向こう側、恐怖と困惑と不審を継ぎ接ぎしたような表情で親父を凝視するシンクレアへと向けられた。
「ご機嫌よう、シンクレア警部補。君は私の愛娘の犬になりたいそうだね?」
私は目をぱちくりさせた。親父は私とシンクレアの交渉の顛末を把握しているらしい。一部始終を傍観していた黒服が親父に報告した? それとも、別室で私達の様子を監視していた? どっちでも良いか。報告する手間が省けたんだから。
「君はこの娘をどう思う?」
そう言って、親父は私の肩を抱き寄せる。石になったみたいに硬直する私の身体を人形みたいに抱えて、親父は微笑む。
「私はね、この娘は神様からの贈物だと思う。親の欲目と思われるかもしれないが、私に言わせればこの娘は完璧な存在だ。私はミケイラが、狂おしいほどに愛おしい」
親父の手が私の髪を、頬を撫でる。額と額をくっつけて、私の瞳を覗き込む親父の黒瞳が、無様に怯える私の表情をうつしている。ナメクジが這うようなねっとりとした手付きが、忌々しい記憶を呼び覚ます。
『ミケイラのパパはね、世界で一番、素敵なパパなの! ミケイラはパパが大好き! 世界で一番、パパが好き!』
無知で無垢だった小さな私。親父の甘い顔にころりと騙されて、間抜けな仔猫みたいに懐いていた私。それを親父はこの目で、この手で、身体を隅々まで犯して、奥の奥まで暴いた。
きぃんと耳鳴りがして、米神を万力で絞められるようは頭痛に襲われる。呻くと、胸がむかむかした。慌てて両手で口許を覆う。
(やだ、気持ち悪い……吐きそう……)
涙で歪んだ視界の端で、私を抱える親父に躍りかかろうとしたスノーウィと、親父を守るために立ちはだかった黒服が揉み合っている。血飛沫と罵声、悲鳴が飛び交う。
親父はそれらがスクリーンの上に繰り広げられるフィクションであるかのように鑑賞していた。むずがる赤ん坊をあやすように、腕に抱いた私の身体をそっと揺らしながら、親父はシンクレアに語りかける。
「愛娘には最高のものを与えたい。それが親心というものだろう。たとえばそのスノーウィ。その美しい仔犬は心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、彼の女神、ミケイラを愛し、仕えている。これぞ真の忠犬だ。そうは思わないかね。だからこそ、ミケイラの犬に相応しい。君は? ミケイラを私のようにしない為に、このスノーウィのようになれるかね?」
シンクレアはうんともすんとも言わない。血塗れのスノーウィに目を釘付けにされている。スノーウィは麻酔薬の入ったダートを胸に突き立てられた状態で、仰向けに押し倒した黒服にのしかかり、その喉笛に食らいついた。三人の黒服が仲間の危機に駆け付けたけど、時既に遅し。ぱっと顔を上げて、黒服たちを威嚇するスノーウィは、血の滴る肉片を咥えていた。
目を血走らせた黒服の一人が雄叫びを上げて、テイザー銃の銃口をスノーウィに向ける。スノーウィは鋭く視線をはしらせ、血塗れの歯を剥く。次の獲物に狙いを定めたスノーウィの総身が本物の狼みたいに躍動する。
シンクレアは驚愕の金縛りをなんとかふりほどいて、掠れた声でやめろと叫んだ。私は我に返る。シンクレアの目の前でスノーウィを傷つけられるのはまずい。私は騒乱に負けないように、大きく息を吸い込んで、声を張り上げた。
「撃っちゃダメ! それは私の犬よ! 撃ったら赦さない! スノーウィ、お座り! 伏せ! 」