茫洋の冬 前編
前回の続きです
弌章 茫洋の冬
僕は今自分の部屋の自分のベッドの上で惰眠を貪っていた。
あれからすでに丸一日が経過している。
時刻は2時過ぎ。
なぜ僕がここで呑気にしているのか、それは半日前の出来事がきっかけだった。
「えっと…色々ありがとうございます。この恩は感謝してもしきれません。どうかお礼をさせてもらえませんか?」
「おい少年、今のはウィンウィンだったろうが。あーいや歌手の方じゃないからな。」
お姉さんは肩をすくめて言う。
「いや、そんなの一々言われなくてもわかりますって、ていうかそれ誰ですか?」
「え?、少年…ウィンウィン知らない?。知らないのかぁ…。」
お姉さんの声は落ち込んだように徐々に小さくなっていく。
「あの、お姉さん……。学校の方は今どうなっているんですか?。先程から避難者が誰一人として来ないんですが。」
お姉さんは静かに目を伏せ、僕に言う。
「全員、死んだよ……。」
なにかの冗談であって欲しかった。それは即ち僕の姉も、僕の友達も、穹月維も、死んでしまったということなのだ。
「そんな…、でも全員死んだなんてどうやって確かめるんですか?。この短時間、つまり襲撃からお姉さんがここに来るまでで半日程度しか時間がない…。なのに…どうやってそんなこと証明するんですか…。」
「根拠はない…、でもあれだけ目茶苦茶にされたんだ…。生き残りなんているはずないさ。あの時と同じように……。」
忌々しいとでも言うように表情を引き攣らせたお姉さんは僕から顔を背け、半壊した体育館の外へと足を踏み出す。お姉さんの意図を掴んだ僕もそれに倣うように結梨を背負って地面の瓦礫を踏みしめる。
街はまさに焼け野原だった。僅かに残った家の瓦礫。学校があったであろう場所は大きく陥没し、もはやそこが学校であったと証明する手立ては存在していなかった。
あたりには暗雲が立ち込めている。
だがそれが雨雲ではないことは一目見れば分かった。それは赤と紫が混ざったような禍々しい色をしていた。雲の隙間から僅かに赤い光が光芒の如く差し込んでいる。
2013年・7月9日・埼玉県・所沢市は壊滅した。
埼玉県最後の砦であった。
僕、結梨、お姉さんの3人は生存者を探すため街を彷徨っていた。
「そういえば、お姉さんの名前って。」
僕は遠慮気味にお姉さんに質問する。
「私の名前は"竜胆永絆"ちゃんと覚えとけよ、少年とは長い付き合いになりそうだからな。──と、そういえば少年、君の名前は?」
「僕は水月紀伊です…。」
先ほどから後ろに背負っている結梨に首を絞められているが気にせず僕は続ける。
「僕には姉が居たんです。ここからすぐ近くの高校に通っていて───。」
結梨の手が少し緩むのが分かる。
「きぃちゃん……お姉ちゃんの話は辞めなよ…。嫌いなんでしょ…?」
「そんなこと言ってる場合か、いつ死んでもおかしくない状況だぞ。だいたい…あれでもあの女は、たった一人の僕の家族なんだ。」
「どういう事情かは知らないけど…そっちの校舎は壊滅だよ。全滅じゃないかな?。」
期待していた自分が馬鹿みたいだ。見ればわかる。あの高校はこのあたりでも少し高い丘の上に立地している。故に目立つ。故に跡形もなく消えていればすぐに分かるというものだ。そして僕が体育館の外に出たときからあの丘の上はまっさらだった。
3人並んで遥か遠くの丘の上を眺める。
酷だが、その眺めはとても綺麗だった。
しばらくして丘を降りた僕達は手始めに幼馴染であり元義姉の穹月維を探すことにした。流行りと言うべきかそこら中に魔物がうろついていた。もちろん隅々まで探さなければいけない僕らにとってそこら中をうろつく魔物は邪魔な存在なので目についた魔物はひたすら狩り続けることにした。武器は摩耗し、服は敵の攻撃に擦れ破れる。それになにより結梨がいる以上こちらは自由に動くことができない。さすがに結梨を置いてどこかに行くという選択肢もない。もし避難所があっても僕は結梨を置いて維を探しに行くという選択肢はない。こんな緊急事態でパニックに陥っている人が多いが故にそういう人々に弄ばれるという疑心もあるがやはり一番恐ろしいのは結梨が他者によって助けられ、結梨の心が自分以外に向き結果的に結梨が僕に依存しなくなること、それが今の僕にとって一番の恐怖。
とにかく今僕がやるべきことは結梨を守りつつ維を見つけ出すこと。生きているかも分からない義姉のために。結梨にとってたった一人の血縁を喪わせないために。
「おい、きんたろう…」
「はい?、なんでしょう?」
「あれ見ろ、あれ」
そう言いながら永絆さんが指し示した場所には髪が乱れ煤を被った15歳くらいの少女の姿。僕は頷き、そっと近づく。間違いない、彼女は…僕の幼馴染であり、元家族、義姉、結梨にとって唯一の血縁、穹月維だ。
近づき無事を確認しようとしたが、それを遮るように遥か上空から巨大な何かが落ちてくる。その巨大は地面へ巨大な影を落とし─。
「紀伊っ!」
「ッッッ!?」
間一髪のところで僕はその影を回避し、顔を上げるとそこにあったのは見るだけでもこちらまで臭ってきそうなほど泥だらけの肉塊。実際にその肉塊は奇異なほど血肉や泥、吐瀉物の匂いを発し、気を抜けば失神してしまいそうな匂いだった。
「おいっ!、紀伊っ、紀伊!」
分かっている、分かっていはいるが体が思うように動かない。悪臭によって今にも飛びそうな意識をなんとかとどめるだけでと精一杯なのだ。それになにより僕は今死にかけたのだ。死ぬ。死ぬということは終わるということ、その先に続きがないということ。結梨と過ごす明日も、結梨にとって唯一の肉親である維と過ごす明日もないということなのだ。あるのは無慈悲なほどの暗闇。
幸い結梨を背負っているのは永絆さんだったので僕はなんなく避けることはできた(少し前から僕→永絆さん→僕→永絆さんとローテーションを組みながら結梨を運んでいたのが運よく機能したと言わざるおえない)。
とにかくこのままでは維の身が危ない。というか維はどこへ…、あれを見た限りではあの肉塊の下敷きになったと考えるのが自然だがそうは考えたくない。今から維は死んでしまったと決めてかかっていればここでわざわざ命がけでこの肉塊と戦う意味などない。命をかけるだけの価値、それがきっとここにはあるはずなのだ。
戦場に立つ兵士でも、受験会場で一人ひとつ定められた席に座っている受験生でもそうだ。戦う者はそこに戦う意味を見出す。戦う意味を見いだせなかったものは真っ先に脱落していく。そして皆それを知っている、故に皆その戦い意味を見出す。だから僕も、この地獄に立つ一人の少年としてその戦いに、その殺しに意味を見出してみせる。結果があるからこそ、ゴールがあるからこそ頑張れるというものだ。
維、僕が必ず救う。いや、生かしてみせる。
僕が持っていたポールに不確かなようで確かな熱が宿る感覚。今これをあの肉塊に叩きつければ、僕はあの肉塊を倒し、維を生かすことができる。結梨と維、唯一の肉親、親しい存在の再会。そして僕達と生きる未来。きっとその先に希望があると信じて。
僕は熱のこもったポールを肉塊に向かって振り下ろし。この手に確かな振動が伝わる。腐敗臭の中からは微かな香水の匂い。懐かしい匂い。母親に抱かれていた頃を思い出す懐かしい香りだった。
記憶番号02 穹月維
今日は私たちが愛しい家族の元を去る日。
血の繋がりはないけど彼らは私たちにとってだいじな家族だ。紀伊、彼は私の幼馴染でいつも家庭の悩みや幼稚園での悩みを親身になって聞いてくれた。小学生になってからも学校での悩みをこれまで通り親身になって聞いて、接してくれた。とても大事な家族だ。
桜ちゃん、彼女は私にとって義姉に当たる。家族になる前は紀伊から稀に義姉さんの話を聞くことが多かった。故に彼女のことはある程度理解していた。でも実際に会ってみた時その考えは覆された。彼女は紀伊と同様に私達、いや"私"に親身になって接してくれた。親身、それはまるで親が子を思うようなそんな優しさ。私のために叱ってくれたこともあった。結梨よりも優遇してくれた事もあった。でもやはり私には罪悪感があった。私だけが優しくされているのは不公平に感じたのだ。でもずっと独りだった私にとって彼女の存在はとてもありがたかった。桜ちゃんも、私にとって大事な家族の一員だ。
聖さん、私にとっては義父的な存在だった。彼はよく出張やら何やらで不在なことが多くあまり話すような機会はなかったが彼の収入のおかげでこれまで幸せに生活できたのも私達が無事に遠く離れた丘の上の中学に入学できたのもすべて彼のおかげだ。なので私は聖さんにも勿論感謝している。かなり放任主義な人だったがみんなのおかげで私達がこんなに幸せになれた。
私と結梨は大きめのスーツケースを手に玄関のドアへと手を伸ばす。それを遮るかのように横から手が伸びる。一瞬結梨かと思い、まだこの家に思い入れがあるかなどと茶化してやるつもりだったが結梨は私の左側にいて実際もう片方の手を握っているのでそれはあり得なかった。そこでその指先をたどってみるとそこにはいつもの優しい顔があった。
「お姉さん……。」
私は驚愕のあまり言葉に詰まり、桜ちゃんと長い間見つめ合ったままになる。
そのとき、桜ちゃんの掠れた声が玄関に響く。
「こんな朝早くに、どこに行くのかな…?」
なんと返せばいいのか分からず30秒くらい沈黙した後私のかわりに結梨が答える。
「ごめんなさい、お姉ちゃん…私……。私達……。」
勇気を出して言葉を振り絞った結梨も私と同様に途中で言葉に詰まり黙りこくる。
「どこに行ってもいいけれど…、必ずこの家に帰ってきてね。私達は、ふふっ…お父さんはわからないけれど。紀伊と私はいつでもあなたたちの帰りを待っているから、いつでも帰ってきて。」
私は桜ちゃんの予想外なようで予想の範囲内だったような気のする言葉を何度も心中で反芻しながらそらしていた目をしっかりと桜ちゃんの目へと向ける。桜ちゃんは、お姉さんはあの時のように優しく微笑みながら僅かに涙を流していた。きっとあれで涙を隠しきれているつもりなのだろう。この状況でなぜここを出ていくのか、無神経な紀伊なら聞いてきたかもしれないが、すべてを察してくれたお姉さんはなにも聞こうとはしなかった。その紀伊にはない、義父さんにはない思いやりがとてもうれしくて、同時に心の奥底がズキズキと痛んで。いたたまれなくなってきた私は深呼吸をして。玄関口へと目を向ける。
「お姉さん……、いってきます。」
有無を言わせない笑顔で私達で私達を見送る桜、その後ろの廊下には寝起きの紀伊と義父さんがやれやれとでもいうように優しさを内包した笑みを浮かべていた。
いってきます。みんな、さようなら。
ふと見た手元には、お姉さんのお母さん、紀伊のお母さん、義父さんの奥さんの遺品である綺麗な香水が握らされていた。その香水の中から匂う匂いはとても懐かしく、私は涙と嗚咽を抑えきることができず。その場に崩れ落ち号泣した。
肉塊の中から吐き出されてきた維は肉塊が纏っていた泥や血肉、吐瀉物の臭気を放ちながらもその香水の匂いだけは残っていた。それは維の安全が保証されているようでなんとも心地よかった。
僕が守った命には希望がまとわれていた。
「維…、立てる?」
今になって僕の存在に気づいたのか僕の顔を見つめたまま唖然となる。
「ぁ……ぁ……。」
「維…、立てないなら──」
僕は維の体を支えようと手を伸ばす。しかしまるで壁にぶつかったかのように一瞬で手が弾き返される。
「触らないでっっ!」
ようやく僕は自分の手が維の手によって弾かれたことを理解する。反射的に手を弾かれたのだ。きっと相当嫌われているのだろう。心当たりは多すぎる。嫌気が差すほどに。
後ろで腕を組んでいた永絆さんは維に手を弾かれ落ち込んでいる僕を見て鼻で笑ったあと、やれやれとでも言うように冷笑しながら維の隣で膝をつき、手を伸ばす。
「ったく、きんたろうは無神経すぎるんだよ。年ごろの女の子だったら誰これ構わずにイケメンムーブしちゃうんだから、まったく。もう少し自重したまえきんたろうくん。……っと…悪かったな…ほら、捕まれ。」
あんたもあんたで初対面の年ごろの女の子相手に無神経だとは思うけど。しかし永絆さんのお気楽具合にこの場の空気も、僕の気持ちも立ち直ったので今は心のなかで感謝しておくことにしよう。
隅に座らされていた結梨を背中に背負い結梨に軽口を叩く。
「君のお姉ちゃんは僕に恩義がないのかな?、まったく、やっぱり結梨だよ、結梨みたいな癒しキャラがいてくれればそれでいいんだ。」
「きぃちゃん、私を愛してくれて、その上大事にしてくれるのはとっても嬉しいよ?。でもあまりお姉ちゃんをいじめないで欲しいなぁ。お姉ちゃんだってきっと悩みも焦りもある時期なんだよ。」
そんなことは分かっている。こういう軽口でも言っていなければ心が落ち着かないのだ。掌は赤く腫れており、ヒリヒリと痛い。反射的だったとは言えかなり強めに叩かれたらしい。
背中に背負われたままの結梨は手探りで僕の手を取り、まるで先ほどの一幕がすべて見えていたかのような口ぶりで手をさすり僕を慰めてくれる。こういう純粋で優しい子が1人でもいればこんなに空気が和んむんだなと今更ながらしみじみと感じるのであった。
「永絆さん、維の救出は完了しましたし次はどこへいきますか?。やっぱりまだこのあたりで生存者を探すべきですか?。でもいくら生存者を探しても避難所がなければ根本的なのは─」
「それに関しては問題ないよ、こっちで最寄りの避難所は把握している、ここから2キロ南西に進めば自衛軍が運営する避難所があるはずだ。生活スペースはともかく食料に関しては困らないんじゃないか?。」
まあ永絆さんが言うなら、というか今は永絆さんの証言意外に情報はないので永絆さんに大人しくついていく他ないだろう。先ほど冷笑された件もあり少々不服だが。
とりあえず他の生存者が見つかり次第永絆さんの案内を受けながらも生存者を避難所まで生存者を護衛しまた現場へ戻るを繰り返すことにしよう。一度に何人も連れていれば護衛失敗のリスクも上がる。いくら言ったところで所詮僕は中学生。自衛軍の隊員なんかとは違って訓練は受けていないのだ。救える人数には限りがある。
そう言えば背中に背負っている結梨がやけに静かだ。一抹の不安が脳裏をよぎるが、その可能性は絶対にないと自分に言い聞かせるように結梨の腿を軽く揺らしてみる。反応はない。
「結梨…?」
「ん〜…んん〜……。」
「大丈夫……?」
結局ただ唸り続けるだけだった。どうやら寝ていただけらしい。そんなに僕たちの会話がつまらなかったのだろうか。たしかに特段興味をそそるような会話をしていたわけではないし。僕だって中学校最初の授業であるオリエンテーションをほとんど寝て過ごしていたのだから言えたことではないがこんな緊急事態に、しかも人の背中で寝れるなんて頭がどうかしているのではないかと思ってしまうがこの能天気具合はこれはこれで可愛いので今はなにもコメントしないことにする。
「それじゃあ永絆さん、生存者を探しましょう。見つかり次第避難所までの案内よろしくお願いします。」
維はというと怯えているのか心神喪失なのか初対面であるはずのお姉さん、永絆さんの後ろに隠れており僕の前へ出てこようとはしない。というか明らかに僕を警戒してるような様子だ。特段なにか嫌がらせをした覚えはないがここまでの嫌われ具合─いや性格には怯えられているという表現のほうがわかりやすいのかもしれない─だから永絆さんに言われた通りもう少し自重したほうが良いのかもしれない。
そんなとき前方に見知らぬ女─2人いるように見えるがかなり遠方であるが故によく見えない─の姿が見えた。
一方は見たこともない奇抜な格好をした、たぶん僕よりも年上であろう女性と、僕よりも年下なのではないかと思われる可愛らしい少女。だが一概に少女と言えるような見た目でもなかった。つまりその少女は世間一般で言う獣人のような姿だったのだ。
首輪を着けられているのか半ば女性に引きずられるように少女を歩いている。獣人少女のその様子から虐待を連想せざるおえなかったがその予想に反して獣人少女の表情は無邪気な少女のように明るく、一方女性は母性をその身に孕んだ母親のように獣人少女にその微笑みを見せていた。
まるで親子。しかし客観的視点から見ても主観的視点から見ても異端としか言いようのない光景だった。
「おい紀伊、なんだあの珍妙な奴らは…。」
おどけた風に言う永絆さんに僕はなんとなしに相槌を打つ。
「僕にもわかりませんよ。というかあれ獣人じゃないですか?。でも…よく実写映画なんかで使われるコスプレ…いやコスチュームでもあそこまでのクオリティは作れませんね。」いや、そもそもあれが獣人であるかすらも怪しいところだ。ところどころ哺乳類には見られないような部位が見え隠れしているが。
これだけ観察して僕たちが出した結論はキメラとその若い母親だった。
と、突然目前を歩いていたはずの親子が僕の視界から姿を消した。僕は視覚から失われた親子をもう一度この視界に捉えまいと焦燥感に駆られながら視線を周囲へと巡らせる。そのとき突然僕の耳に異様なようで妖艶な囁き。それは音であり声であるはずなのに言葉として認識することができない。もしかしたら僕の脳が認識を阻害しているのかもしれない。元来人の脳は楽な方へと無がられるものだ、故にもし目の前にけもの道があれば危険のない道を選ぶのが通り。べつのパターンも然り、もし道が危険なけもの道しかなければ人は殻の中に逃げる、つまりその場に留まることを選ぶ。
気づけば僕は後ろに背負っていた結梨を振り下ろしていた。もうすでに僕は手遅れなのかもしれない。
視線と指先が自然と結梨の下半身へと伸びる。
「ぁ…、ぅ、きぃちゃん…そんなに欲しかったんだね。私の─。」
うるさい、うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい──うるさいっっ!!
そういえば後ろにいたはずの永絆さんと維は今どうなっているのだろう。結梨を現在進行系で襲わんとしている僕を止めようと動き出しているのだろうか、それとも先ほどの女の相手をしているのだろうか。しかしそのどの予想も全て的外れだったことはすぐに分かった。
首を少しだけ左に傾けると、そこに見えた最初の色は視界を埋め尽くさんとする鮮血。あたりに飛び散る維の内臓と目玉。そして自分の腸を自らの指先で抉り、妖艶な声を壊れかけた喉から発している永絆さん。それこそ陶酔という二字熟語が空欄に当てはまる光景だった。
そう考えているうちにも僕の熱く腫れ上がったものは今すぐに結梨を貫けと言っているかのような様相だった。吐き気がこみ上げてきそうな光景と匂いだったがなぜか今の僕にとっては興奮の一部だった。
「きぃちゃん、私だけ…みて。」
「あぁ……ごめん、あっちに気を取られてた。なんだかあっちもあっちで楽しそうだったからさ。」
結梨は僕の頰に線の細く色白の指をあて、そのままその病的なほど扇情的で細い指を僕の項へと運ぶ。あぁ、幸せだ…。たぶん僕はずっとこういう癒しを求めていたのかもしれない。
「ありがとう、結梨。」
僕は甘えるように─いやベタベタという擬音が当てはまるほどにしっかりと抱き着き甘える─結梨の貧相な胸に頰を当てる。静かだが確かに生命を感じさせる振動が僕の脳さらに混乱させる。呼吸は乱れ、もはや理性のりの字も僕のこの世界にはのこってなどいなかった。残っていなかったと言うよりそもそも最初から理性など存在しないのだ。そうに決まっている。
だから何をしたっていいんだ。もう自分自身を縛り続ける必要はない。僕は僕でいいんだ。
柔らかい肌と扇動的な肉壁が僕の体を隅々まで撫でるように刺激してゆく。たまに鳴る奇異な水音と結梨の吐息が愛おしくて堪らない。
ぐちゃり、ぐちゃりぐちゃりぐちゃりぐちゃりぐちゃりぐちゃりぐちゃり。もはやその音が結梨と僕の間から出ているものなのか永絆さんの腸から出ている音なのか分からなくなってきた。その不快な音を掻き消すように僕と結梨の鼻息はスパンが短くなっていく。
「あ、きぃちゃん。そろそろかな…っ…はぁはぁ。」
あぁ、そろそろ、か。忘れていた理性と感覚が体中に戻ってくる。こんなことをしている場合ではない、そろそろ目覚めなければ。夢は人間にとって必要不可欠なものだがだからと言って永遠に眠り続けるわけにはいかないだろう。現実があるから夢はある。現実があるからそこ僕たちは夢を見ることができる。
どうやら通り魔は去ったようなのか目覚めた頃には僕と結梨、永絆さんと維の計4名しかその場にいなかった。念のため人数も数えてみたが1人増えていたり、逆に一人いなくなっているということも無かったので今のところ先ほどの通り魔を警戒する必要はないだろう。
それにしても、夢を見させる特殊能力か。突然特殊能力というものが出てきて読者の皆様も混乱されていることだろうと思うが実は僕もあれが実際どういうトリックで行われていたものなのか見当がつかない。催眠だとすれば眠らせるまでにいくらかの準備が必要なはずだ。
まさに一瞬の出来事だったのだ。僕は自分が眠ったこと、つまり夢の中に入ったことにすら気づくことができなかった。
今後もこの街で僕達は情報収集だったり生存者の救出活動を行う─つまり活動の中心になりやすい場所なのである─からあの催眠通り魔に関しては何かしら対策を打って置かなければ。最悪戦闘になれば催眠をかけられる前にこの重苦しいバレーのポールでなぶり殺しにするだけだ。
「永絆さん、念のため人数を数えておいてください。人数の確認は最優先次項です。」
返事はない。どうやら先ほどの催眠でこっぴどくやられたみたいだった。仕方なく維に声をかけようと思ったが維も同様恐慌といった様子だった。そしてその実妹である結梨は照れているのか興奮しているのか分からないがほおを赤らめていた。
仕方なく僕は結梨を背中に背負い、維と永絆さんのもとへ歩み寄る。
と─、突如正気に戻ったであろう永絆さんの怒号が響く。
「紀伊っ!、一歩後ろに下がれぇ!」
時すでに遅し。僕の脇腹には大きな風穴が空いていた。なにが起こったかはまったくもって見当がつかなかった。出血すら出遅れてしまうほどの早さ、音速など優に超えているであろうということは言うまでもない事実だった。
後ろに背負っていた結梨の身体はどうやら無事だったようだが今の衝撃で僕の背中から剥がれ落ち、尻もちをついて地面に落ちてしまったようだ。風穴から内臓が焦げた匂いが漂ってくる。それにしてもなぜ血がまったく流れないのだろう。身体を貫かれたときの熱で血が蒸発でもしたのだろうか。
今の血の件を始めとして僕の中に違和感と矛盾が蓄積していく。そもそもなぜ僕は上半身をほとんど欠損するほどの重傷を負ってもなお平然と立っていられるのだろう。今僕の上半身はどのようにして形を保っているのだろう。先ほどの攻撃で背骨ごと吹き飛んでいてもおかしくないのに─というかそもそも筋肉もなにもかも消し飛んだはずなのになぜ僕は上半身をこんな滑らかに動かすことができる。
なぜ、なぜなぜなぜなぜなぜ。
挙げればきりがなかった。
ふとそんなとき僕は先ほどの催眠を思い出す。そう言えば僕があのとき現実に帰還することができたのは結梨のあのひと言と、その世界に元々感じていた違和感のおかげだった。そして今回に関しては先ほどの催眠とは一線を画すほどの違和感の量。もはやこの世の物理法則などどこ吹く風だった。
つまり、ここで僕がこの世界に叩きつけるべき回答はただ一つ。
「僕の居場所は、ここにはないっ!!」
2度目の目覚め。今回に関しては僕だけが催眠から目覚め。ほかのみんなは僕の顔を覗き込みながら目覚めを待っていると言った感じだった。ずしりと重いからだをなんとか起こす─ずしりと重いということは内臓も血液も健在と言うことなのでここは確かに現実なのだとほっと胸をなで下ろした─。
さてと、これで状況が分かった。どうやらあの催眠通り魔、ただの通り魔ではないようだった。まだデータは2つしか取れていないがこの2つのデータ、経験から見て取ると、催眠通り魔がトラップを仕掛けた場所を通るとそのトラップが発動。これによってトラップにまんまと引っかかった者は催眠世界で永遠を過ごすことになる。
そのトラップがワイヤートラップなのかそれとも地雷のように踏むと発動するのか、それともまた僕の想像の範疇の外にあるものなのかは見当がつかなかったがトラップに類似するものであることは分かったためここからは慎重に行動しなければならない。今のところ僕の身体にこれといった外傷は見当たらないがなにも悪影響が起きていないとも言い切れないしなにより僕達の精神が持たない。
「僕の一番苦手なトラップエリアか…。」
「え…?、なになに?、ゲームの話?。」
背中から結梨の混乱したような可愛らしい声が聞こえてくる。
「あぁそうそう、ゲームの話、それもただのアクションゲーじゃなくて死にゲーね。あれ敵クソ強いくせして主人公貧弱だから無双ゲーと違ってプレイしていてかなりストレス溜まるんだけどその分つよいボスを倒せた時の爽快感はまさに天にものぼる感覚だよな。実際僕天にのぼったことあるし。」
と、隣にいた永絆さんから冷たい視線を向けられる。
「ますますお前のキャラが分からなくなってきたよ。」
どうやら読者のツッコミを代理してくれたらしい。ありがたいようで迷惑だった。僕にどうしろというのだ。
「それじゃあさっそく、これ、攻略しますか。永絆さん、このパーティーでこのトラップ地獄クリアできると思いますか?。」
「そんなの、やってみなきゃわからないだろ?、なぁ維ちゃん。」
突然話を振られて戸惑う維を他所に結梨が僕達の間に割って入る。
「うん、そうだね。どれだけの地獄でもきぃちゃんは必死にもがき続けて突破してきたから─えへへ…ゲームの話だけどね─、だからきぃちゃんはきっと今回もなんとかしてくれるよ。」
そう言うってもらえるとかなり頼もしい。
それじゃあ、覚悟が揺らぐ前に歩き出すとしますか──。




