知恵比べ
サクは十日で弓臤と同じ詠唱ができるようになった。
約束どおり、弓臤の師たる史官のもとへゆく。
「明日、出発するぞ。義妹よ」
「はい。お義兄さま」
弓臤を兄と言ったところで、サクは背筋が凍った。弓臤もまた顔をしかめて、冬でもないのに身を震わせた。
「お前にそう呼ばれると、気色悪いな」
「奇遇ですね。わたしもです」
弓臤は、サクの答えに口角をわずかに上げる。そして顎に手を当てた。
「そうだな……。俺の師はおそらく問題ないが、兄弟子たちは女とわかったらうるさいかもしれぬ。兄弟子は盲目の者が多いゆえに、意味はなさないかもしれぬが……。念のため、男装せよ」
「わかりました」
「兄弟子に見つかるとややこしい。師に会うまでは、なるべく気配を殺せ」
気配を殺せとは、弓臤は難しいことを言う。
「弓臤さまは、なぜそこまでして、わたしを師に会わせようとなさるのですか」
「『史』は我が師の教えを直接に受けて、完成するものだからだ。それに、会っておいて損はない。お前は人脈を軽視する者か」
「そういうわけでは」
「どこでどう助けられるか、わからぬ。何かが起こる前に、事前に関係を構築しておくものだ。それができるか、できないか。命運すらもそれに掛かることもある」
***
翌日、サクは弓臤に連れられて、史官の居る館へと向かった。
男装のため、後ろ髪を巾で包み、男の衣装を身に纏う。
史の館は宮殿の奥の雑木林にひっそりと佇んでいた。木々の間に建てられた、簡素な木造の建物である。言われなければ気づくことはないほど、鬱蒼とした林の影に隠れた館であった。
木漏れ日が弓臤の髪に注いだ。
弓臤はその敷居を跨ぐときに、三礼する。
サクもそれに倣った。
「弓臤よ。どこへゆく」
入口のそばに、賢者が座っていた。
土色の顔に、質素な衣服を包む、盲目の者。まるで木々の賢さを体現したような風貌である。厳粛な生き方をしているであろう者だけに許された雰囲気をその身に包んでいた。
「ちっ……、みつかったか」
弓臤が呟き、諦めたかのように答えた。
「兄弟子よ。師のもとへ行く」
「そいつは誰だ」
弓臤の兄弟子は、声を震わせて問いかけた。
「俺の義兄弟だ。師に紹介する」
「……弓臤の義兄弟とやら、名を名乗れ」
「……、朔にございます」
サクは咄嗟に名乗った。
兄弟子を覆う気が、みるみるうちに怒気に満ちる。
「やはり。女の声だ」
「だとしたら、なんだ」
弓臤が、飄々と答える。
「女をこの地に招くなど、前代未聞である。弓臤よ。なにを企んでいる? 女人はお引き取り願おう」
サクは直感した。
この人物を相手に、無用な嘘は逆効果である、と。
──婦好さまなら、どうするだろうか。
もし婦好なら、敵対する者をも取りこみ、相手の懐に入ってしまうだろう。
サクは、婦好の手が肩を包んだ気がした。
──それならば、自分もこの場面を切り抜けるのみである。
「大変失礼をいたしました。わたくしは弓臤さまの義理の妹。弓臤さまの師にお会いしたく、参りました」
サクは丁寧に頭を下げ、続けた。
「女の身で弓臤さまの師にお会いすることは、なにか不都合はございましょうか」
「ここは神聖なる祖霊を祀る場所である。選ばれし清浄なる者のみ、ここに入ることを許される」
兄弟子は尊大な態度で、サクの問いに答える。
「霊廟のしきたりに、女が祖霊を祀ることは許されぬとでも伝わるのでしょうか」
「ここでは過去に女が許された試しはない」
「祖霊を祀る気持ちさえあれば、男女は関係ないはずです。過去に例がないのであれば、今日よりその例を覆していただけないでしょうか」
兄弟子とサクとの問答が続く。
弓臤は腕を組み、黙ってその様子を見ている。兄弟子が畳み掛けた。
「うるさい娘だ。ここでは、女人に祖霊を祀る資格などないと申しておる。話は、それでおしまいだ」
「資格はないと申されますが、それはなぜでしょう」
「女人はもとより穢れた存在である」
──女人が、穢れている?
サクは頭から真っ白になるような感覚に陥った。
──穢れ。女は存在そのものが忌まわしいとでも言うのか。
「女人が穢れているというのであれば、商の祖は誰から産まれたというのでしょうか。もし女が穢れているなら、人として産まれる者すべてが穢れていることとなります」
サクの顔が火照る。
感情を制御しないまま、言葉を紡いだ。
サクは、『男も女も関係ない』という婦好の考えに惹かれている。性別に関係なく、ひとりの英雄として存在感を示す婦好を慕っていた。それゆえに、まるで婦好が汚されたようで許せなかった。
同時に、サクは交渉相手に真正面から対立することを言い切ってしまったことを悔いた。自身の感情のままに自論を振りかざしてしまったのだ。
交渉としては、悪手である。
──もし婦好さまなら。
相手の心を開き、己の主張を飲ませる手法を切り開いたに違いない。
しかし、すでに言葉に乗せてしまったことは、取り消せない。
サクは冷静を取り戻しながら、胸中で次の言動を思案した。
──いつまでも、婦好さまに守られ助けられる存在であってはいけない。
「祖霊を敬うことは、家族の連なりを祀るものです。そこには父性だけではなく、母性もなくてはならないものです。子が母を敬う気持ちは、万人が共通するものと、申し上げたいのです」
最適な答えを思案しながら、サクは発言した。
弓臤の助け舟はない。彼は面白そうに、その様子を見つめるだけだ。
張りつめた空気を変えたのは、ひょっこりと現れたひとりの老人である。
「そうじゃな。このお嬢さんの言うとおりじゃ」
白髪の老人がいつのまにか、サクと兄弟子の間に立っていた。
サクには見覚えがあった。安陽に来た日に、灌漑設備に足を取られていた老賢者。『千年の都をつくる』と言って消えた、不思議の人。
「あなたは」
「ん? はて。お嬢さんはどこかであったかの……、んああ、水路に布をかけていた子かの」
老賢者ははじめ訝しんだが、サクを思い出したようだった。
「我が師と、知り合いだったか」と弓臤は驚いてみせた。
「ほうほう。お嬢さんは弓臤に連れて来られたのか。なかなか、なかなか。わしは傅説じゃ。まだ名を教えてもらってないかの」
「傅説さま。わたくしは、サクでございます」
「ほ、ほ。お嬢さんの言ったとおり、人間は女の胎から産まれるものじゃ。このわしも、王でさえも、の。女がいなければ人の世の営みはなりたたない。ゆえに穢れている、は言い過ぎじゃの」
傅説は弓臤の兄弟子をたしなめた。それに対して兄弟子は「は」と、短く返事をした。
それでも兄弟子は納得しきれない顔で、静かに抗議した。
「ですが、この館に女を連れてくることは、我らが守り続けているものを女に渡すこととなります。先例はありません」
傅説は、「ふむう」と息を吐いた。
「たしかに、前例はない。しかし、現在の商王のもとでは男も女もない。膂力が男よりも強ければ、将軍として重宝されることもある。ならば、示してもらおうかの。お嬢さんが人として優れた能力もっていることを」
傅説は戯けた様子で、ぱちり、と手を叩いた。
「さあさ、知恵比べじゃ」
「知恵比べ?」
「わしの弟子と、机上で戦を模し、競ってもらおう。よもや、口だけとは、言うまいな。お嬢さん」
サクは後には引けなかった。
交渉の流れを変える、好機でもある。
無論、負けるわけにもいかない。
「知恵比べ。お引き受けいたします」




