鳴条の空論
傅説は知恵比べと言ったが、何をするのだろうか。
傅説が弓臤になにかを命じると、屋敷の入り口に木製の机が用意された。
机には戦地を模してあり、四人が囲む。
「ここに、かつて商王が夏王朝を滅ぼして覇権を得るに至った戦いの盤がある。湯王が、伊尹という賢者を得て、鳴条の野に破ったときのものじゃ」
傅説は盤上の戦地を指差して解説を始める。
「知ってのとおり、歴史の女神は夏の桀王を捨てて、商の湯王に勝利を与えた」
このときサクは悟った。
──勝負はすでに始まっている。
おそらく弓臤の兄弟子は、何度も盤上の模擬戦をおこなっている。そして、史に仕えている者として湯王の策を知り、それが定石としている可能性がある。だとすれば、そこが弱点でもある。
しかし弓臤から教わった『史』ではその戦い方は断片的にしかわからない。サクには情報がない。情報がなければ、規則の範囲内で聞きだすのだ。
「商の湯王はどのように夏の桀王を破ったのでしょうか」
「ほ、ほ。良い質問じゃなの。よい、よい。それを知るか知らないかもまた、戦を左右する」
「湯王は、鳴条の野に陣を敷いた。桀王の兵数は湯王の倍じゃった。一方、士気は湯王のほうが圧倒的に高かった。
湯王は、高地の狭隘な道から駆け下りるように戦い、桀王を破った。戦力が劣勢であっても、勢いを持っている者が勝つ例じゃの」
盤上には、狭隘な谷もまた再現されている。
傅説は、湯王の駒を滑らせるように動かした。
「しかし。今日の勝負は士気も兵の強さも関係ないの。戦力も互角としよう。木札に兵数が記されておる。五十人の札が百二十枚。王が千人、十将が五百人を率いる。つまり、兵数はお互い六千人とする」
サクには経験があった。
婦好軍に当てはめると、率いる婦好隊が千人。十隊長がそれぞれ五百人率いるという計算である。合わせて六千人。
婦好軍の実際は、その半数であるが──。
「札はどのように分配しても良い。交互に兵を動かす。一度に動かせるのは一つの駒。前後左右斜め、三歩のみ。交互に攻撃を行い、攻めた者は木札を二枚取るかわりに、一枚が減る。
それぞれが百手行うか、どちらかが相手の総大将の札を空にしたら、おしまいじゃ。わかったかの」
「わかりました」
「運もまた味方につけねばならぬ。湯王軍を動かすか、桀王軍を動かすか。駒を投げて表が出たら、湯王じゃ。お嬢さん、投げなさい」
傅説は、駒をサクに渡した。
サクはそれを盤のうえに投げた。
駒は裏を示した。
「ワシの弟子が湯王軍。お嬢さんが桀王軍じゃ」
サクは、静かに呼吸を整えた。
桀王軍。歴史上での敗戦の将。
結果を知っている身からすれば、不利である。
今回は実戦ではない。
天から俯瞰した戦い。
神の視点である。
お互いがその状況を把握している。
となると、いかに一手先を読むかが重要だ。
「兄弟子は目が見えない。俺が駒を操ろう」
と弓臤が言った。
「では、はじめ」
傅説の声が小さな部屋に響く。
初手は、なによりも重要である。
──婦好さまなら、どうするか。
今回、サクは総大将たる桀王を勝利に導かねばならない。
つまり桀王は主人、すなわち婦好であった。
──婦好さまなら。
婦好さまなら、自らが前進するだろう。
サクは最初の一歩を、桀王に託した。
「桀王、前三歩」
弓臤の言葉に、兄弟子の顔が綻んだ。
サクにはその心が透けて読めた。
王を無策で進ませることは、王を窮地に立たせることにほかならない。常識的に、下策。
兄弟子はサクを愚かな小娘と軽視した。
安心して攻められる、と。
しかしそんなことは、サクも承知である。
むしろ油断を誘う用兵だ。
その心の隙がサクの狙いであるとも知らずに、弓臤の兄弟子は定石の戦いを展開した。
兄弟子の優勢。
サクは歴史上の桀王を演じながら、密かに準備して形勢が逆転する時をひたすらに待った。
欺き、誘うように。罠を仕掛けて、待つ。
──このまま罠に嵌めれば、勝てる。
サクは、勝利を確信した。
しかし。
決着がつかないまま、百手が過ぎてしまった。
湯王よりも兄弟子のほうが慎重であることを計算に入れていなかったのである。
──しまった。
「百手じゃ。さあさ、弓臤よ。審判せよ」
弓臤は、盤の目をのぞいた。
「兄弟子のほうが、軍の導線が広く、領地を多く取っている。百手という規則がある以上、兄弟子の勝ちだな」
「ふむふむ。しかし、生かした兵数はお嬢さんが優っているの。この勝負、続きが観たいものじゃ。試しに、続けてみよ」
「はい」
傅説の言葉に、ふたりは勝負を続けた。
兄弟子は史実どおりの攻め方を貫く。
サクもそれに表面上は付き合うように軍を進めた。
狭隘な谷底を湯王が駆け降りたとき、サクは動き出す。
衝突すると思われた瞬間に、まるで潮が引いてゆくように、桀王軍を撤退させたのだ。
湯王軍は困惑した。
後に引けなくなった湯王軍が狭い谷を抜けて、広大な野に放られた。
それを待ちかまえていたように、桀王軍が湯王軍を包囲し、湯王を屠った。
湯王の兵数が空になる。
かつて桀王が野に敗れた鳴条の地で、商の開祖である湯王が敗れた。
──圧勝。
サクの脳裏に、婦好の勝利の背中が想い描かれた。
「く……」
兄弟子はぎりぎりと爪を噛んだ。
その仕草に、弓臤は見覚えがある。
「ほ、ほ、ほ。なかなか、なかなか」
傅説は踊るように腹を叩いた。
「これは、近年稀にみる名勝負じゃった。しかし、勝負としてはお嬢さんの負けじゃがのう。ま。知恵比べとしては、引き分けじゃな。
もし。お嬢さんが軍師だったら、歴史は変わっていたかもしれぬ、の」
サクは、かつて門の上から用兵を試みたことがある。盤上での戦は、その時とはずいぶんと違う。
意思疎通の時間。
予期せぬ動き。
戦場の匂い。
緊迫感。
「いえ、それは違います。わたしがとったのは、天から俯瞰できなければ成し得ない策です。現実の戦は地で行います。つまり」
サクは、桀王の駒を掲げ、盤上に手放した。
「この戦は、空論です」
「ほ、ほ、ほ。なかなか、なかなか」
傅説は愉快そうに髭を撫でた。
「さて、お嬢さんを奥の部屋に案内しても問題ないの」
兄弟子は納得のいく様子ではなかったが、静かに頭を下げた。
「では行こうかの。お嬢さん」
「あの。傅説さまにお願いがございます」
「なんじゃ」
「これと同じ盤がありましたら、一基いただけないでしょうか」
「あるにはあるがの。古いものでも構わぬか」
「構いません」
「義妹よ。これを、なにに使うのだ」
と弓臤が問うた。
「持ち帰って婦好さまと一緒に学びたいのです」
サクは嬉々として言い放っておきながら、急に、恥ずかしくなった。
サクは頰を赤らめる。
「ほ、ほ。麗しい主従関係じゃの」
傅説と弓臤の後に続いて、サクは古びた扉の下をくぐった。
古びた木の湿ったような匂いがする。
サクは、ひとつの達成感に満ちた。




