外城奪還
サクの不注意で、物音を立ててしまった。
敵兵の声に、サクは背筋から冷える思いがした。
敵の持つ松明がゆらめきながら近づいてくる。視界に色が灯る。
敵兵は、兵糧庫へ入ったようだ。
敵の足音が近づいては、遠ざかる。
三人は気配を殺して、敵兵が去るのを祈った。闇夜と同化する以外に、なすべきことはほかにない。
やがて、しわがれた声が庫内に響いた。
「鼠か」
サクは安堵した。
しかし、まだ油断はできない。息を殺して待つ。
敵兵の具足が擦れる音は次第に消えてゆく。
炎を反射していた部屋の壁も、色を失った。
危機は過ぎ去ったようだ。
しばらくそのまま潜伏したあと、キビの合図で兵糧庫を脱出した。
城に戻るまでは、月明かりだけが頼りである。
サクは掌を冷たい手に掴まれた。
キビが、サクとリツの手を取って帰路を歩む。
視界が漆黒に染まるなか、三人は無言で味方陣営に帰還を果たした。
「ふう、どうなることかと思ったわね」
キビが胸をなでおろした。
「珍しい、サクの失態だったな」
「すみません……、わっ!」
「どうした、サク」
話しながら歩いていると、サクは何かに躓いて転んだ。
なにか、大きく柔らかいものの上に、身体が投げ出された。
キビが松明のあかりを近づけた。
道の真ん中で、巨大な体躯の女性が横たわっていた。
ギョウアンである。
婦好隊隊長であるギョウアンは敵との戦いで、ひとり戦場に残ったはずだ。
婦好軍で最も強き者。
ギョウアンの身体はサクの四人分ほどはあり、腹は巨大な亀のようである。
柔らかな腹の上で、サクはその生死を確認した。
「息をしていらっしゃる……?」
「ぐう」
いびきだ。ギョウアンは、生きている。
「ギョウアンではないか。こんなところで寝ていたのか。おい、起きろ。
婦好さまも心配していたぞ」
リツがギョウアンの顔を軽く叩いた。
ギョウアンは細い眼を少しだけ開けた。
「ねる」
「ほら。ともに、報告へ行くぞ。起きろギョウアン」
「ぐう」
キビがどこから持ってきたのか、ギョウアンの顔に水をかけた。
「うふ、いきましょ、ギョウアンさま」
***
サクたちは四人で婦好のもとを訪れた。
「ギョウアンよ! 戻ったか!」
「あい」
「ギョウアンは道の真ん中で寝ておりました」
リツがあきれた様子で報告した。
「そうか。命と身体の無事、なによりである」
婦好は、ギョウアンの柔らかく大きな体躯を撫でまわした。
続けて、キビが報告した。
「婦好さま、敵の兵糧庫に毒を仕掛けました」
「ご苦労であった。それにしても、めずらしい顔ぶれだな。リツ、どこへ行っていたのだ」
「サクの護衛をしておりました」
「もしや、三人で忍び込んだのか」
「はい。敵兵に見つかりそうになり、どうなることかと」
「だれかさんの物音を、鼠か、ですって。まぬけな敵兵で命拾いしたわね」
「まぬけな音を立てた者もここに居るが」
「う……申し訳ありません」
キビとリツの言葉に、サクはうなだれた。
「なんだ、サクが音を立てたのか。あははははは」
婦好が笑った。
戦場の緊張感に張りつめられていた顔が弛む。
婦好の無邪気な笑顔をサクは久しぶりに見た。その様子になぜかサクの心は満たされてしまった。
***
朝陽が昇り、婦好軍は外郭奪還のための攻撃を開始した。
兵を繰り出しては、戻る。
第一隊隊長を率いるレイが軽快に攻撃する。
婦好隊隊長のギョウアンもまた出撃した。
他の隊も敵の油断をつき、各門から襲いかかる。
婦好軍は敵を撹乱した。
嬰良もまた勇ましく出撃した。
嬰良の出陣のとき、サクは嬰良と目があった気がした。
「我が勇姿、ご覧ください!」
嬰良は両側に沚馘兵に守られながらではあるが、熟知しぬいた地の利を生かし、奮戦した。
「嬰良は、なかなか気骨がある」
婦好は嬰良を褒めた。
婦好もまた若き才能に揺り動かされるように、鉞を振るう。
婦好は優雅に、しかし苛烈に、次々と敵を退却させた。
サクは内城の物見櫓でその戦いの様子を眺めていた。隣にいたキビへ聞いた。
「キビさま、毒の効果はあったのでしょうか」
「まだまだ、これからよ」
翌日、闇夜に仕込んだ毒が効果を発揮したらしい。
敵兵の顔の色が、蒼白だ。
毒を仕掛けてから三日目。
明らかに、敵の士気が低い。
婦好軍が戦いに出ると、いとも容易く敵は外城から撤退した。
「すごい」
「うふ」
おそらく、ただ戦うだけでは外城の奪還にはもっと時間がかかったであろう。
膂力だけに頼らずに勝つ。その手法のひとつを、サクは学んだ。
***
外城の奪還が完了するや、戦勝の軍議が行われた。
「みな、よくやった。特に、キビ。嬰良。なかなか良い働きであった」
「恐れ入ります」
「それにしても弓臤は遅い」
婦好が珍しくすこし苛立っていた。
弓臤が到着するとした期日は、とうに過ぎている。
「なにか、あったのでしょうか」
「様子を見に行かせよう」
弓臤の話題は終わり、軍略で決めるべきことが淡々と流れてゆく。
軍議も終わろうかとする頃、嬰良が婦好に問いかけた。
「あの、婦好さま」
「なんだ」
「このあと、サクどのとお話したく存じます。よろしいでしょうか」
婦好が嬰良に言った。
「いいだろう。本人同士のこと、サクに任せる」
「あの。急ぎではないのでしたら、すべての戦いが終わってからではいかがでしょうか」
サクはやんわりと断った。
──今は、戦い以外のことで心を無用に乱されたくない。
ゆえに、嬰良とはあまり話したくなかった。
「サクよ。戦場では明日の命など、わからぬものだ。話があるというのだから、聞いてやれ。後になって悔いても遅いものだ。そうだな、馬車で宮城内を巡るがよい。馭者にラクをつけよう。ラクの口の硬さは商随一だ」
「ありがとうございます」
嬰良が頭を下げた。
「うまくやりなさいよ、嬰良さま」
キビの弾んだ声音が、軍議部屋に響いた。
どういうつもりなのだろうかと、サクは目眩がした。
──婦好さまは、嫁に行けとおっしゃるのだろうか。
婦好さまが、わたしを、手放そうとしている?
サクはこの事実をどう受け止めて良いものか、わからなかった。




