【最終話】砂上の朔月
完結記念に、学園記編と作中の解説を置いています。
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弓弦はサクを『文字の巫女』『史の巫女』と呼んだ。
文字も、言霊も、すべてが巫祝たちの呪いだ。
だから、砂上に文字を書く。
愛しい人の名を。
そうすれば会える気がした。
願いは虚しく、いとも容易く大地の中に消えてしまう。
『史』であれば永遠を生きられるのであろうか。
この燃えるような想いも、やがて風化してしまうのだろうか。
サクは、ハツネとセイランに、婦好の行方を捜してもらっている。
婦好のような人を見たという情報をもとに、各地を流浪している。
もしかしたら、ハツネとセイランはサクに真実を言わないかもしれない。
長い間そうしていて、ハツネたちとは連絡が途絶えつつある。
──それでも、信じる。
この広大な中原で、人を一人探し出すには戦場に落とした耳飾りを捜すかのごとき困難である。
一人の足で歩み続けるしかない。
西の方に、栗色の髪の、美しい人がいるとの噂があった。
──もう、やめようか。
わたしの旅はここで終わりだ。
何十回、何百回、こうしてやめたりやめなかったりを続けているのだろうか。
ふいに、顔を上げた。
上げなければならない気がした。
燦燦と陽に輝く砂の丘の先。
懐かしい背が小さく見えた。
──まさか。
しかしわたしは亡骸を確認したわけではない。
すでに部外者だったのだから。
貴女の裏切り者だったのだから。
その死は言伝だったのだから。
「ふ……」
名前を呼ぼうとして息を飲んだ。
──いえ、違う。
あの方の名前は、
誰も知らない本当のお名前は……!
「陽華さま! 陽華さま……」
夢中で祈るように言霊を発した。
風が舞い上がり、砂塵が視界を遮る。
ただ、もう一度だけでも良い。会いたい。
「行かないでください……、待って……ください」
駆けだそうとした足は柔らかな砂に沈む。
膝をつき、手を捕らえられ、袖に砂が入る。
ぐっと身体に力を込めて、這いあがる。
「これまでの考えを、これまでしてきたことを、すべて否定してでも、あなたを探していたのです」
罪なき命を救いたいなら、姉の婦好のもとで政に近づくか、シュウに師事する道もあった。
「あなたを『史』として刻むだけでは、心が満たされないのです」
弓弦のように、専一に史を伝える道もあった。
しかし、すべて捨てた。己の望みは。心の声は──。
「どうしても、あなたとともに歩みたいのです。いつしかの日のように……!」
たとえ幻でも良い。
貴女の美しさに触れていたい。
あの気高い魂の傍にいたい。
かつて天帝の使者と見間違えたその女性。
いま、太陽を背にしている。
栗毛色の髪。
琥珀のような瞳。
女性らしい曲線を描いた肢体は、内側に強さを秘めている。
長身から溢れ出る陽の気は、相変わらずに神々しい。
「サク……?」
かつて対であった耳飾りが風に揺れた。
懐かしい。
手を伸ばすと、嗅ぎ慣れた華の香りがする。
「陽華さま……!」
翡翠の腕輪とともに、形の良い指に優しく手首を掴まれる。
朝陽のようなぬくもりがサクの背を包んだ。
陽華はその存在を確かめるようにサクを強く抱きしめて、黒髪を優しく撫でる。
「サク。やっと会えた。ずっと探していた」
「陽華さま。探していたのは、わたしのほうです。ずっと、ずっと。なぜ、姿を現してくださらなかったのですか」
「あの会盟ののち、わたしは生死を彷徨い、生きて戻れるかわからなかった。
商王の旧知の医師を招き、秘境にて傷を癒していたのだ。
弱い姿を見せたくもなかった。
もし死んだとしても、死地を公にすれば我が軍には殉じる者が現れるだろう。それも避けたかった。
だから姉と謀って、最も傷の浅いであろう伝聞のみの死を装った。
何人もわたしに囚われず、生きて欲しかったのだ。
サク。そなたにはわたし以外の者を選んで、女としての幸せな日々を送るように願っていた」
サクはふと、『愛』という文字を想った。
『愛』とは、後ろに心を残しながら、立ち去ろうとする人の姿だ。
微王の残した文字に、サクは胸が締め付けられる。
あの会盟の日の別れは、陽華なりの『愛』という字そのものだったのだ。
「傷が癒えてから、わたし自身もまた、誰にも縛られずに自由になったことを悟った。サクが会盟でわたしに言ってくれたように……。安陽に帰ると、姉からはサクがまだわたしをあきらめずに探していることを聞いた」
「夏華さまが……」
「わたしもサクを追うようにして旅に出た。
もしサクと再び会うことができたならと、天に賭けたかったのだ。
わたしが探したかったのだ。サク。
そなたがあきらめる前に、わたしもサクの姿を追いかけていたのだ。
ようやく見つけた。サクはあきらめないでいてくれた。これに勝る喜びは、ない」
「そんな、ずるいです。見つけたのは、わたしなのに。それに、陽華さま……なぜ、わたしなのですか。ほかにも陽華さまを慕っているかたはたくさんいらっしゃいます」
「不安にさせてすまない。サク。そなたが好奇心にあふれ、よく学び、他者の言をよく聞き、己を省みる者だからだ。己の願いに命を賭け、天をも動かそうとあきらめずに挑む者だからだ。そのような才を、わたしは求めて愛する。
いままで、サクとともに歩んできた道。その足跡のすべてが愛おしい。サクもそうではないのか?」
「……はい。陽華さまと一緒なら、いままでの思いを胸に、天をも動かせる。そのように思います」
「ゆこう。ともに、歩もう。サクとなら、どのようなこともできる気がする」
「はい、ずっと、ずっと、ともに歩みます。わたしは、陽華さまの文字の一部なのですから……!」
サクが大地に施した呪いは砂に埋まり、まるで役目を終えたかのようにさらさらと消える。
文字は陽光と溶け合い、白銀の煌めく世界と一体となった。
いつしか、ふたりの眼前には洋々たる水面が空の色を映して広がる。
昇ったばかりの光は小さな波を白く輝かせていた。
陽華はサクの耳元で囁く。
「サク。『婦好』ではないわたしを見つけ、本当のわたしとともに歩んでくれてありがとう」と──。
それから連綿たる時が流れた。
商王(武丁)は商(殷)代において最も支配地域を有し、中興の祖と評されるに至る。
サクの愛した女性の名は中華の『史』として刻まれることはなかった。
弓弦などの盲目の詩人──瞽史の残した口頭伝承の断片は『楚辞』『国語』『詩経』などにわずかに残る。
しかし、一時は商(殷)という王朝があったことさえ、幻のこととされた。
一方、悠久の大地に施された文字の呪いは彼女たちの足跡を守り続ける。
二十世紀初頭に甲骨文が発見され、文字の最初としての甲骨学が発達する。
甲骨には王の妃が軍旅を率いて出征した記録が多く残されていた。
一九七六年に安陽市小屯村の西北で未盗掘の墓が発見された。
副葬品として出土したのは大量の青銅器や玉器である。
それらには名が記されていた。
「婦好」──と。
殷墟婦好墓はいまも月明かりの下で、悠久の大地に抱かれている。
人々が心安らかなることを願いながら。
失われた口伝『婦好伝』
改め『婦好戦記』
完
『婦好戦記』完結いたしました。
ここまでお読みくださった皆様に深く御礼を申し上げます。
「婦好」という中国最古の女軍事家をより多くの方に知っていただこうと、2018年から書き始め、ちょうど2022年の自分の誕生日にこの難しい物語を完結できたこと、とても嬉しく達成感に満ちています。
ひとえに、いままで読み続けてくださったみなさま、レビューや感想やファンアートをくださったみなさま、書籍版を購入くださったみなさまのおかげです。
ほんとうにありがとうございました!
みなさまが並走してくださらなければ、完結まで書き続けることはできなかったと思います。
この文字が溢れる大海の中、この作品を見つけてくれて、さらにあとがきまで読んでいただけていること、とても光栄に思います。
素敵な読者のみなさまに出会えたご縁に、心から感謝いたします。
作中に少しでも心を動かすことができた場面があったなら、ぜひ教えてください!
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これからもみなさまの心に届く歴史物語を綴りたいと考えております。
次回作でお会いできることを楽しみにしています。
2022年6月3日 自分の誕生日に。
佳穂一二三 拝




