地底の亜宮
セキの死から一年が経った。
サクは十七歳となった。
婦好軍は異民族たる方国からの侵攻を受けては、次々と鎮圧していった。
婦好軍は内乱の制圧にも加わる。
鎮圧を終えた後、大邑商の首都、安陽にいた。
サクは思う。主人はますます強い存在になった、と。
出会った頃は豪快だった性格は、上に立つものとしての落ち着きと包容力を増している。たまに憂いを含む麗しい横顔に誰もが見とれた。
大邑商での信も厚く、民衆にも絶大な支持を集めている。
王の姉への寵愛も深く、その地位はゆるぎないものであった。
「婦好さまはますます大邑商での地位が上がられた」
と、第一の側近たるリツは喜ぶ。
婦好は戦いのないときは楽も好んだ。
音楽には鼓、鐘、笛などがある。
サクもまた笛を習い始めた。
定められた音階は神の声であるとされる。
震える気は、心を慰めてくれる。死者に対しても。
婦好もまたサクの隣に座り、笛に合わせ奏でる。
「明日は祭典だ。サクも行くか」
「はい」
サクの主人は白と紫の衣をゆったりと纏う。主人が紅を羽織るのは戦場だけだ。
婦好は何を着ても似合う。
「次はどちらの王だろうか」
「微王の時間が長くなっていると伺っています」
王は聖と狂。二つの人格を持つ。
微王は狂である。
姉の婦好が嫁ぎ慕っているのは聖の人格である。
「そうだな。姉上も心配だ。そのうちに様子を見に行こう」
青空のもと、安陽の平原に微王とその部下が揃う。
「今日はよく来てくれたぞ」
今日の微王は白く厚い衣を纏っていた。
いつもの襦袢姿ではない。良質な衣を何枚にも重ねて頭巾を被り、権威を示している。
微王はひとりひとりと言葉を交わし、ついに婦好とサクの番となった。
彼はサクの指を取り、口へ運ぶ。
婦好がぐいとサクの身を引き寄せて、微王の行いを静止した。
「なにをする」
「指先を食べようとしたのだぞ。少し見ぬ間に、そなたはますます美しく、このむすめもますます可憐。なにも聞かずとも、血を舐めれば一切のことはわかる。その血を吸いたかったのだぞ」
「微王。我が参謀への手出しは禁ずる」
「王の命に逆らうか。余は天と同一ぞ」
「姉もわたしももうひとりの王に従う。それに、王といえども信に反する命とあらば、指図は受けぬ」
「ははは。それでこそ婦好ぞ。しかし、つまらんぞ」
晴天のもと、先祖を祀る一通りの祭祀が執り行われる。
微王がトントントン、と軽やかに三度跳ねて馬車に乗った。
「さあ、これよりは案内しようぞ。余の建設中の宮殿ぞ」
微王を先頭とした馬車は、連なるようにして広大な黄土の中心に止まる。
人夫は作業をしている。各地から集めた隷人だ。
彼らは肌を焼き、汗を流す。
微王の病的なまでの青白い肌と比べると、とうてい同じ生き物とは思えなかった。
彼らは掘削作業をしている。
「この巨大な穴はまさか」と、サクは口元を押さえる。
正方形の穴は、まだそれほど広くはない。
しかし最も深い地底まで、大人十人分ほどである。
「余が死したのちの、宮殿ぞ。少しずつ、彫るのが良いのだぞ。いわば寝室ぞ。婦好。そなたらを一緒に入れてやってもよいぞ」
「断る」
「それは酷いぞ」
放心したように演技をして、微王は穴に背から真っ逆さまに落ちた。
底までは大人五名分ほどの高さのある地点からである。
「微王さま!」
召使たちが、微王の白い身体を身を挺して守った。
落下地点に人が集まり、十名ほどが下敷きとなっただろうか。
ぼきぼきと、鈍い音が響く。
「高すぎた。いまので何人か、死んだか」
微王は身軽に、ひらりと人の塊から降り、階段を上る。
「些細なことぞ。余が一人死ねば、数千が死ぬこととなるぞ。ここで働く者たちはみな同じ日に眠ることになるのだぞ。だから、みな必死に余を生かすぞ」
サクは、この人物に出会う度に、狂、という文字が最もふさわしいと感じる。
「王が死ねば、数千の者が死ぬことになる……」
婦好が商の風習を告げる。
「王が死ねば、天にともにいく付き人が必要だ。人柱としての犠牲が投じられるだろう」
淡々とした説明を、何の感情もなくサクは聴いていた。もし、出会った頃のサクであれば、酷いなどと思ったであろう。しかし、このときは、婦好軍はこの人員の確保のために戦っていたのだ、と理解した。
地下深く掘られた穴を、婦好も覗き込んだ。
「王族の死には配下もまた死を伴う。もし姉上が死ねば、好邑の者のなかで死を選ぶものもいるだろう」
「婦好さまは……」とサクが言いかけて止めた。
婦好はサクとリツに試すような笑みを浮かべる。後ろに控えていたリツが咄嗟に言う。
「婦好さま。わたしは死後まで婦好さまとともにする所存です」
「ふふ。リツよ。あまり考えたくないことだな」
「婦好。サク。そして、婦好の影のリツとやら」
微王はふたたび地平に降り立つ。
「はっ」と、リツは名を呼ばれて返事をする。
「余も認めよう。そなたらは大邑商の宝ぞ。現に、ここに居る者たちはみな、そなたらに注目している」
微王は両腕を高く掲げた。微王の子弟たちが彼の後ろに控える。
「そなたらは天に愛されすぎるぞ。天の過ぎたる愛ば短命を招くぞ。危ういぞ。なにも生き急ぐことはない。ゆるりとゆこうぞ。死まではまだときがある」
青空のもと、風が微王の白い衣と頭巾をはたはたと揺らす。この日の祭典は恙なく執り行われ、解散した。
そののち、三人は婦好の姉のもとへ訪れた。
姉の婦好の部屋には、朱色の格子がある。
華の香が焚かれてた。
懐かしい香りだとサクは思う。香の先に、美しい女性の影がふんわりと現れた。
「姉上、ご機嫌麗しゅう」
「妹よ。あなたを呼ぼうと思っておりました。これぞ天の援け」
姉の婦好もまた、妹とは違う神性が漲っていた。すべてを愛しみ許すような深い母性。優しさが空間を満たす。
婦好の姉は眉間に皺を寄せて、苦しそうに告げた。
「我らが故郷。好邑が侵略を受けているそうです」
「相手は」
「まだ、わかりません。調べていただいているところです」
「好邑へはしばらく帰っていなかった。みな、元気にやっているだろうか」
「ええ。最後に訪れてから、三年くらい経ちましょうか。お互い、忙しい身となりました」
好邑。婦好の育った故郷である。
サクは知りたいと願った。
婦好はどんな場所で育ったのか。
どんな子供時代を過ごしたのか、とサクは思う。
「妹よ。わたしは命じます。故郷。好邑に還り、戦乱を治めてください」




