その9
本日二回目の更新です。
幸せを噛みしめることよりも先に、シュリは隣国まで、正確には隣国の病院までルークを送り届けなくてはならない。早急に。
しかしルークはあいかわらず自分の状態に無頓着で、すきあらばシュリの髪の匂いを嗅いだり食んだりしている。
「ルーク、ちゃんと歩いて。病院を脱走してこんなところまで来たなんて知れたら、みんなに怒られるわ」
「大丈夫、問題はない。みんな忙しくしていて、それどころではないから」
(それは問題ないとは言わないわよ)
シュリは呆れた。
ただ、ルークの性格をよく理解している彼らのことだ。実は脱走を容認していた、という可能性もある。
ともすればそこまで焦って病院へと駆け込まなくともよいのかもしれない。
それでも、万が一のことが起きてからでは遅い。ルークが自分を省みないのなら、シュリが代わりに補うしかないのだ。
しばらく歩き、ふとルークの足運びのタイミングがはじめよりも半歩遅くなっていることに気づいて顔を覗き込んだ。
「足、痛む?」
「痛いのかどうかはわからない。ただ幸せで天に昇りそうだ」
「だめじゃない!」
疲労のせいで麻痺しているかもしれない。
急ぐあまりルークに無理をさせては元も子もなかった。休み休み行かなくては。
ルークの返事を待たず、シュリは森の入り口あたりにある、そよ風の通る涼やかな木陰に目星をつけると、浮かれていつも以上におかしなことになっているルークを座らせた。
立ったり座ったりという動作が大変なのか、介助するシュリはその緩慢な動きに胸の奥が痛んだ。
死んだかもしれないと不安で眠れぬ日々も終わり、ようやく無事が知れたとはいえ、ここで症状が悪化する可能性だって、ゼロとは言えないのだ。
シュリは隣へと腰を下ろすと、涼むルークの太ももへと手を添えた。あのとき、赤く染まっていた場所の上を、するすると確かめるように撫でる。
ルークは驚き顔でシュリを見た。
「野いちごちゃん?」
「ここ、ちゃんと……ふさがってるのよね?」
触診しても血が滲んでくることもないので、傷口自体はもう完全に治癒しているのだろう。
シュリのその手を、ルークが取る。そしてなんの迷いもなく、第一関節までを甘噛みした。
「ル、ルーク!?」
「ああ……野いちごちゃんの味だ。永遠に食べていられる」
一度離れたことで、変態度が加速していた。
「私の手じゃなくて、ジャムを食べて!」
シュリは顔を朱に染めてルークのポケットを指差した。
そもそも人間の手や髪の毛は食べ物ではない。
めずらしくシュリの意見を聞き入れたルークは、ジャムを大切そうに取り出した。
木いちごのジャムだ。
シュリはルークを送り届けた帰りに、野いちごをたくさん摘んで帰ることを決めた。
野いちごジャムを食べて、早く元気になってもらわないと。
ルークが蓋を開けるのを眺め、そこではじめて、シュリは肝心なものを忘れていることに気がついた。
(スプーンがないわ!)
「ルーク、スプーンの代わりになるものを探して来るから待っ――」
ルークはシュリが言い終わる前に彼女の手を取ると、ためらいなく人差し指をジャムのビンへと突っ込んだ。
「ひぁっ!」
シュリは、鍋からスプーンで少量取って手に乗せて味見をすることはあっても、衛生的に直接指でジャムを食べることはあまりない。せいぜいセナが口の周りにべたべたとつけたジャムを、指で拭って食べるときくらいだ。
とろっした赤く透明なジャムにまみれたその指を、ルークはさも当然とばかりに自分の口へと含む。
「ルーク! もうっ!」
指ごと味わうように舌が這わされる。
ちゅ、と指の先でリップ音を立ててルークが唇を離すまで、赤く染まる頬を押さえてシュリは耐えた。
食べられることにも慣れつつある。ルークの「スプーンがなければ指で食べればいい」という持論にも、頷けはしないものの反論することは諦めた。
仕方ない。これがルーク・ガレットという男なのだから。
(結婚、早まった……?)
「甘い。野いちごちゃんも野いちごも、甘くてとけて……生きていてよかった」
ルークが生を噛みしめるのを見つめ、シュリは心で首を振り、つくづく思った。
(本当よ。生きててくれて、よかった。ルークはこうして生きていて、隣にいてくれるだけでいい)
結婚は一時の気の迷いではない。甘い拷問をするかはさて置き。
むしろ拷問されているシュリだ。
ルークが丁寧にジャムを舐め取ったあともしつこく指から手のひらまで舐め続けてくる。ぞわっと背筋が粟立ち、シュリは目をきゅっとつむり小さく震え、それがルークを煽る。
「ああ、野いちごちゃん! あの甘美な夜の続きを、さっきのキスのその先を、今ここでしたい!」
したい、と言いはするものの、ルークの不自由な身体が欲望を制限する。シュリが少し座る位置を離すだけで、ルークにはもう手が出せないのだ。詰めようと移動する間に、シュリは楽々逃げることができる。
「くっ……、あれほどリハビリを真面目にこなしたというのに」
(あのルークが、真面目にリハビリを……)
それはよほどのことだろう。病院を抜け出すくらいだから不真面目にしかしていないと思ってたのに、違ったらしい。
「野いちごちゃんに一目会いたくて」
動機が早期の職場復帰ではなく自分だったことに、素直に喜んでいいのか迷うシュリだが、それでも、嬉しくないわけがなかった。
「ルーク……ありがとう」
「……怒ってはいない?」
「今はね」
ルークは輝く笑みでシュリへと手を伸ばした。
周囲には幸い人もいない。軽く口づけ合って、肩と頭を寄せ合った。
目を閉じ耳をすませば、小鳥の囀りや、さわさわと梢の揺れる音が聞こえてくる。
少し前までそこに、銃声が紛れていたことが嘘のようにのどかだ。
ルークの怪我が治ったら、ここでみんなでピクニックをするのもいいかもしれない。
シュリが楽しい計画を立てていると、ふと肩に重みを感じた。すぅ、という吐息が耳をなでる。どうやらルークは寝てしまったらしい。
やはり疲れていたのだろう。穏やかな寝顔だ。
(寝顔……かわいい)
ルークはほとんど懲罰房で寝起きしていたので、シュリが彼の寝顔を見るのははじめてのことだ。
病院に戻るのは、もう少し待とう。ルークが目を覚ますまで。
草の上に置かれたルークの小指と自分のものを絡めて、シュリもこの一瞬を心に刻むように、まぶたを下ろした。
クロッカン指名ルーク中将捜索隊メンバーが、寝ているふたりを回収していったとか、いかなかったとか。




