下
七
朝の光りに目を覚ますと、ベッドの上にもたれるようにうつ伏せなって眠ってた。
とっさに気になったのはパパのこと。だって雪の上に倒れたまま、その後どうなったのか知らないんだもの。あのままだと凍えて死んじゃうわ。
でも窓から外を見ると、姿はなくなってた。
ホッとする。そして気付いたの。雪の上は真っ白なままで、倒れた跡や足跡とかも一切無いことに。
? だとすると、わたしはやっぱりマボロシを見たのだろうか?
混乱しつつ部屋を出て居間へ向かったの。
「お早う」
そこにパパがいた。丸いテーブルにママと向き合って座り、朝のコーヒーを飲んでいる。香ばしい匂いが部屋にたちこめてるの。
わたしに気付くとにっこりと白い歯を見せて、笑いかけてきた。それはまるで広告に出てくるような笑顔だった。
でもそれを見てわたしはゾッとした。すっごく気持ち悪かったの。だっていかにも作り物っぽくて、仮面のように見えたから。
「ユウ、あなたもコーヒー、どう?」
ママは気にしてないようだった。むしろ喜んでいるみたい。
「今朝のパパったら優しいのよ。朝食を作ってくれたり、コーヒーを淹れてくれたり。お喋りしてても楽しいの」
無邪気にそんなこと言ってるんだから。世話ないわ。
わたしは今一度パパのことを確かめた。
パパ?
これはパパじゃないと思った。見た目はパパの姿をしてる。けど違うの。それは理屈じゃなかった。直感がそう告げてるの。
怖くなって目をそらした。心臓がドキドキと脈打ってる。
だいたい、パパっていつからコーヒーを好きになったの?
♪
そうなの。パパはコーヒーが好きじゃない。そのはずだった。
なのに、目の前のパパときたら、さもおいしそうにそれを飲んでる。
どうして? わたしの頭をよぎったのは黒服の男の姿だった。夜、月光の元で一体化? した、あの光景。ひょっとするとあれはパパが呑みこまれてしまったってこと? そう考えられるんじゃないかな。
それが何を意味するのか判らない。
わたしは観察したわ。パパの表情や仕草、話してる内容なんかを注意深く。
見れば見るほど、違和感は大きく膨れ上がっていった。細かい点を挙げればきりがないくらいで、何よりも違うのはその自信に満ちた態度だった!
何をするにも堂々として余裕すら感じられるの。いつものオドオドとしたところは少しも無い。
ところがママときたら、まるで平気な顔。なんて鈍感なんだろう? こんなに変わったパパに気付かないなんて。アル中だからもう訳が判んなくなってるのね、きっと。
♪
パパであってパパでない、その人にどう対処すればいいのか判らずに、わたしは一人悩み続けた。
パパはいつになく精力的に動き回ってるの。家の中を掃除したり、修繕したり、机に向かって書類とにらめっこしたり。そして忙しげに車でどこかへ出かけていった。
パパが消えたのを機会に、わたしはママに相談してみたの。
「パパが変だよ。別人みたい」
そう言ったの。でも駄目。
「もともと変でしょ。あの人は。いいじゃない。明るく元気になってくれてうれしいわ」
笑って取り合ってくれないの。冗談だと思ってるみたい。
「違うの。わたし見たんだから。昨日の夜、黒服の男に呑まれてしまったパパの姿を」
でもいくら言ってもママは信じてくれない。呑気に缶ビール片手に再放送のドラマを見てるわ。
「しつっこいわね。いい加減にしてよ」
最後には怒られた。
駄目だ。この人は。話にならないわ。
♪
夕食は牛肉のステーキだった。どうしても食べたいとパパがリクエストしたのだ。
しかも血の滴るようなレアのステーキ。ピカピカと光るナイフで肉を刻み、歯をむき出して、血の混じったそれにかじりつく。
それはあり得ない眺めだった。わたしの知ってるパパは好き嫌いが激しくて、肉だってあまり好きじゃないの。特に生焼けの肉なんて、絶対に口にしないはず。
それなのに……。あっという間に食べ終えて、げっぷをしてる。
違う、この人はパパじゃない。
一方のママはといえば、相変わらず無頓着。パパの食べっぷりに満足したのか、すっかり陽気になってすでに何杯ものワインを飲んでいる。
いぶかしそうに睨むわたしの視線に気付いたのか、パパがこちらに目を向けた。耐え切れず、すぐに顔をそらしたの。
パパの目は凄く怖かった。まるで獲物を狙う野獣みたいに。
八
夜が更けた頃、窓ガラスの激しい揺れでわたしは天候が悪くなったのを知ったの。
強風が吹き荒れて、雪も混じってるみたい。吹雪だわ。暗闇の中でも横殴りに雪つぶてが飛んでいくのが判るの。
早々に一人寝室に入ったわたしは眠ることも出来ずに、ひどく嫌な予感に怯えていた。
パパの体を乗っ取った奴の目的は何なのか? この先どうしたらいいのか?
震えてたのは寒さのせいというより、ただただ、怖かったから。毛布にくるまっても震えは止まらないの。
吹雪は深夜になるほどに激しくなっていく。
もうすっかり真夜中の時間帯。
吹雪の音とは違う、何か、家の中から音がした。パパとママが眠る、それは寝室からのようだったの。
音? ううん、それはうなり声。悲鳴のような感じがした。
気になりだしたらもう駄目ね。しばらく様子をみてたけど、ついにたまらなくなって立ち上がった。
勇気を振り絞って、廊下に出たの。
素足に板張りの廊下は氷のよう冷たかった。我慢して忍び足で歩いたの。
暗い家の中、激しい吹雪に建物全体が生き物のように揺れる。
ママとパパの寝室は、ドアがわずかに開いていて、そこからクリーム色の灯りがぼうっともれていた。
まだ起きてるのかな?
隙間に目をあてて、そっと中の様子をうかがった。
中央に置かれたダブルベッド、そこにママが仰向けになって寝ていた。一人で。
パパは? いないみたいだ。姿が見えない。
キイ……。
ドアを押して、首だけ入れて中を確かめた。やっぱりパパはいない。
もう一度、一人で寝ているママを見て異変に気付いたの。あまりにも静か過ぎる……。
「ママ……」
小声で呼びかけ、近づいて。! わたしは足が止まってしまった。驚きのあまり。
ママ……。
仰向けになったママの顔は紙のように白く、白目をむいて、苦しそうに口を開けたまま、鼻からは一すじの血を垂らしていた。確かめるまでもない、死んでいる
ママが死んでいる!
音がした。振り返る。そこには立ちふさがるようにして黒い影が立っていたの。
パパ!
ううん。正確にはパパだった、もの。
反射的に走り出し、パパの脇をすり抜けると寝室から飛び出していた。考えるより先に体が動いていたの。逃げなきゃ。そう思った。
玄関から外へ出て行った。荒れ狂う吹雪の中を。恐怖と衝撃でパニック状態にあるせいか、寒いという感覚がなくなってた。そして只、走り続けたの。
周囲は一つの灯りもない山の中、真夜中でしかも吹雪。どこへ向かっているのかも判らない。
膝まで積もった雪に足をとられ、何度も転びながら逃げたの。
判るのよ。パパが追ってくるのが。怒り、憎しみ、欲望、色々な感情が固まって、負のオーラとなり、わたしを呑みこもうとしてる。
ビュウウウウウウウウウ。世界を切り裂くような風の唸りが、そいつの搾り出す咆哮のように聞こえたの。
どこをどう走ったのか。いつしかわたしはロッジの裏に広がっていた竹林の中に紛れ込んでいた。
折り重なる竹林の群れが吹雪を抑えてくれるおかげで、しばし一息つくことが出来た。
でもそうすると次に襲ってくるのは、追われているという恐怖、そしてまるで冷凍庫の中にいるような猛烈な寒さ。
慌てながらも取りあえず、靴は履いて出てきたから、その点はましだったけど、着ているのはパジャマ用のスウェット上下だけという軽装では、この極寒は耐えられない。
わたしは出来るだけ、竹やぶの生い茂った場所へと入り込み、縮こまるように体を丸めたの。
ここへ隠れてやり過ごすしかない。
奴がママを殺したことはもう疑うべくもなかった。
白目をむいて鼻から血を垂らしたママの断末魔の顔が甦るの。
どうして? どうして黒服の男はパパの体を乗っ取り、ママを殺し、そして次にわたしを狙っているんだろう? その目的は何なの? 判らない。理由がまるきり判らないことが何より恐かった。
! 音がした。風の吹き荒れる中、確かに近づいてくる足音。
ザク、ザク、ザク、ザク…………。
何? 光りが暗闇の中を走り抜けた。闇に慣れた目にはそれは火花のように感じられたの。
懐中電灯を手にしたパパが近くにいるんだって、判った。そこから放たれた光りはサーチライトとなって、右へ左へ、わたしを照らし出そうとしている。
行って。そのまま通り過ぎて、どこか遠くへ行ってしまって! 目を閉じて祈り続けた。
! そしてわたしは気がついたの。目の前の雪の上に散らばった足跡の存在に!
逃れようのない証拠となって、雪の上の足跡は今、わたしがここにいることを教えている!
近づいてくる。光が大きくなる。雪の上に残った足跡を奴は追ってくる。
「きゃあああああっ!」
光を顔に当てられて。悲鳴をあげた。
黒い影となってパパがすぐ前に立っていた。
転がるようにして後ろに逃げた。もがくように雪の中をかきわけながら。
でもすぐに動きを止めた。そうするしかなかったの。
暗闇の先にはもう、何もないことが本能的にわかったの。そう、そこから先は急斜面となり、崖になっているのよ。
雪の積もる中、そこから落ちたらきっと死んじゃうわ。
逃げ場はない。わたしはパパと向き合った。
近づいてくる。全てを呑みこむ闇と化したパパ、ううん、パパの体を借りた奴が!
もう誰も助けてくれないんだ。わたしは悟ったの。自分の力で戦うしかないんだわ。
わたしは闇と向き合い、睨みつけた。
九
「で、結局どうなったのかね?」
「一家心中、そう考えて良さそうですね。とりあえず、ざっと事件のあらましを報告します。
XX県、山中にあるロッジに 久木一家は滞在していました。ロッジの貸主である大家さんが、連絡がないので確かめに行ったところ、寝室で死んでいる奥さんのマサエを発見したそうです。一方の旦那さん、ノブロウはロッジの裏にある竹林に倒れて、死亡しているのが発見されました。そしてその傍には娘のユウが倒れていました。
「で、どうなんだい、その娘の方は?」
「かろうじて一命を取り留めまして、快復に向かっているようです」
「そうか、よかったというべきか、どうか……」
「そうですね。実の父親に殺されかけたんですからね。ショックから立ち直れずに、一時期は心身喪失状態にあったそうですが。
擬人化するほどに愛着を持っているという、うさぎのぬいぐるみ、ピーウィーという名前だそうです、それに話し掛けるという方法で当時の状況を聞きだすことが出来ました。
十二月五日、水曜日の早朝に一家は自宅マンションを出発して、途中、動物園に寄っています。XX県にある有名なXX動物園だと思われます。そこからさらに数キロ先にある温泉街で、その夜は宿泊。そして翌日の深夜に久木家はXX県の山中ロッジに到着しました。
その二日後の夜に事件は起こったというわけです。
面白いのは、ユウちゃんが言うところの�マボロシ�というやつでした」
「マボロシ?」
「ええ、ユウちゃんを診ているカウンセラーの先生によると、想像力の旺盛な子供にまれに見られる現象らしいのですが、現実と妄想の境があいまいになって、ありもしない幻を見てそれが現実だと思い込んでしまうそうです。
ユウちゃんの場合、心の奥で感じていた不安が、迫ってくる暗闇となって視覚化していた、ということです。
特に興味深いのは黒い服の男という存在です。父親がそいつに体を乗っ取られるという幻覚は非常に暗示的だということでした」
「ノブロウはローン会社に多額の借金をして追われていました。家の家具や貴重品もあらかた差し押さえられていたようで、部屋は空っぽでした
ノブロウは某IT企業でエンジニアをしていたそうですが、一攫千金を狙ったのか株に手をだして失敗、その借金を返すために、ギャンブルにのめり込み更に負債を抱えてしまった。
それが会社にもばれて、折からの不況もあってリストラの対象に選ばれた。その結果、一家心中するまでに追い込まれたというわけです」
「何というか悲惨だな」
「ええ。母親もまた死ぬことを覚悟していたようです。心労からか、それとも元々だったのか、アルコール中毒だった彼女は、それに加えてノイローゼのため精神安定剤を服用していました。それを過剰摂取することによって、心臓麻痺を起こして死亡しています。自殺でしょう。
夫のノブロウは娘のユウを殺して、その後に自殺するつもりだったのでしょう。しかし異変を感じてユウは逃げ出した。
当時の天候は激しい吹雪だったといいます。どのくらい父娘の追いかけっこが続いたのか判りませんが、結果、ノブロウの方が寒さのためか、先に心臓麻痺で息絶えてしまいました。そして幸か不幸か、ユウちゃん一人だけが助かったと、こういう次第です」
「痛ましい事件だな。それで、そのユウちゃんは今どうしてるんだ?」
「ユウちゃんの母親、マサエさんの姉である治子さんの家に預けられることになったようです」
「そうか、じゃ今回の事件はこれで終了ということか」
「ええ……。」
「何だその顔は? 気になることでもあるのか?」
「……。ええ。実はあるんです」
「言ってみろよ」
「実は私はその治子さんに話を聞いてみたんです。するとお姉さんは妹夫婦の死を聞いて、悲しむというよりもまず、納得がいかない様子でした」
「納得がいかないも何も、借金取りに追われて、どうにもならなくなって心中したんだろ?」
「それがお姉さんの話によると、どうも微妙に違うようなんですよ。
妹さん夫婦の借金のことは知っていたようです。しかしお姉さんの方も離婚して母子二人の苦しい生活。援助してあげることは出来なかったそうです。
しかしさすがに放っておくことも出来ずに、父親に相談した。でもうまくいかなかった。
何故ならマサエさんとお父さんは絶縁状態にあったからです。それはマサエさんが親の反対を押し切って、家出同然に結婚をしたからでした。
しかしお姉さんの必死の説得によって、その後、父親からお金の工面をしてもらうことが出来たといいます。マサエさんにそのことは報告したそうです。
つまり借金を返すあては出来ていた、ということなんです」
「……じゃあ、何故一家心中なんてことを?」
「だから不思議なんです。しかも一家が最後に滞在していた山腹にあるロッジは、実はこれから借りる契約をするための下見も兼ねているということでした。ノブロウさんはそこでペンションを経営するつもりだったんです」
「えっ……それはどういう?」
「久木一家は東京を離れ、新しい地で第二の人生を始めるつもりだったんですよ」
「なのに、何故?」
「判らないんです。どうして死を選んだりしたのか。魔が射したとしか言いようがありません」
♪
だって、わたし東京を離れたくなかったの。親友の里奈、たくさん出来たお友達。みんなとお別れするなんて、考えられない。
ピーウィー、判るでしょ?
大人の勝手で、あんな淋しい山奥に住むなんて、絶対嫌、だったの。ひと気のない村、陰気な学校。あんなところじゃ友達なんて出来っこない。わたしまた一人ぼっちになっちゃうわ。そんなの嫌、絶対に!
だから……。わたしはちょっと念じただけよ。
仕方ないわ。悪いとは思ってるの。
でももうずっと昔から、パパもママも勝手なことばかりして、子供のわたしはいつも振り回されて迷惑してたんだもの。
あんな風になってしまったのも仕方ないと思うの。
だから後悔なんてしてないわ。
今、わたしはおばさんの家に預けられて、新しい生活を始めてる。
ママのお姉さん、治子さんも同じ都内に住んでるのよね。以前からおばさんのことは好きだったし、脳に障害があって、ちょっと知恵遅れの従兄弟とも気が合うから、居心地はいい。
あんなことの後だから気を使ってもくれるし、うまくやっていけそうな気がするの。
何より嬉しかったのは、以前と同じ中学校に行けるようになったこと。
この点に関しては譲れないから、相当駄々をこねちゃった。泣いて見せたりしてね。
だってそうでなきゃ、あんなことをした意味がなくなっちゃう。
本来はおばさんの家に住むことになったわたしは、区画指定された別の中学校に通わなきゃいけないはずなんだけど。
事情が事情だし、わたしが涙を流して訴えたおかげで、特例として、元通りの中学校に通うことが許されたの。
電車で約二時間近くかかってしまうけど、そんなの関係ないわ。里奈に会えるなら。
♪
犬が吠えていた。
わたしがいる二階の窓から見下ろすと、向かいで飼ってる犬がこちらを見て吠えていた。
体格のいいボクサー犬。歯をむき出して、憎々しげな目をこっちに向けてるの。
むかついた。あの犬、しつけがなってない。いつもわたしに向かって吠えるんだから。
夜も一晩中吠えててうるさいし。近所におちてるフンだって、あの犬のものに違いないわ。
わたしだけじゃない、近所のみんなが迷惑してる。
だから、いいの。制裁を受けるべきだわ。
わたしは犬を睨み返した。
……。
ビクンッと耳を立てて、犬は吠えるのをやめた。じっと固まったように動かない。
そして次にブルブルと小刻みに震えだして……勢いよく倒れてしまう。
白目をむき、口から泡をふいて、鼻から一すじの血が流れ落ちる。
そして、そのまま動かなくなってしまったの。
わたしは力を抜くと、犬から目をそらした。大きく息を吐いて、座り込む。
ふーっ、久しぶりに、集中すると疲れる。頭がくらくらしてきたわ。
なるべくこの力は使わないようにしてるの。けど、つい頭にくるとやってしまう。やらずにいられなくなる。
だからお願い。
これ以上、わたしを怒らせないで。
了