第1話 ダンジョンの最深部で僕は……
「キッショ。なに戻ってきてんだよ。引くわ」
勇者パーティーのリーダー、ルーカスが僕に言った。
その言葉を聞いた瞬間、僕の頭は真っ白になった。
どうして……。なぜ、そんなことを言われなければならないんだ?
僕はルーカスたちと一緒にダンジョンへ潜った。
そして、そこで死にかけた。いや、本当に死ぬところだった。なのに帰ってきた僕を見て、最初にかけられた言葉がこれだった。
まずはそこに至るまでの話をしよう。
僕はノア・エヴァンス。18歳で勇者パーティーの記録係だ。
気づけば僕は、ダンジョンの最深部に1人で立っていた。周囲には誰もいない。
聞こえるのは、遠くから響いてくる水滴の音だけだった。
ポタ……。ポタ……。
壁には、青白い魔石がいくつか埋まっているのが見える。天然の魔石が、薄く辺りを照らしている。
空気は冷たく、鼻の奥には土とカビ、それから魔物の臭いが残っている。
「……みんな、無事かな」
小さくつぶやいた。パーティーメンバーたちとはぐれてしまった。
あれだけの数の魔物に囲まれたんだ。仕方ない。勇者で剣士のルーカスは、戦えない僕を先に逃がしてくれた。
とにかく今は、メンバー全員が無事だと思いたい。勇者パーティーは、僕を入れて6人で構成されている。
「……クロエ」
クロエのことが心配でならなかった。僕の婚約者であり、勇者パーティーのヒーラーを務める、優しくてきれいな女性だ。
このダンジョンから帰ったら、僕たちは結婚する。
僕は左手の薬指を見た。二人で選んだ婚約指輪。薄暗いダンジョンの中でも、指輪は輝いて見えた。僕は親指で表面をゆっくりとなでる。
「クロエ……、無事でいてくれ」
彼女は僕にはもったいないくらいの女性だ。僕みたいな底辺スキル持ちの人間にも、笑顔で話しかけてくれた。親しくしてくれた。そんな素敵な彼女と結婚できるなんて、僕は恵まれている。
この時の僕は、本気でそう思っていた。
だからこそ、ここで死ぬわけにはいかない。
バッグの中を探る。
入れていたはずのアイテム『帰還の紐』は、なぜかなくなっている。つまり、ダンジョンの外に出るすべはない。自力で帰るしかなくなった。
「どこかで落としたのか……。こんなときに限って」
問題は、食料と水だ。僕の荷物には、もうほとんど何も残っていない。水筒は空。食料もない。今日中にダンジョンから出られなければ、かなり危ない。動けなくなって、そのまま餓死する可能性が高い。
餓死ならまだいい。この場所で魔物に見つかったら、もっと悲惨なことになる。食い殺されるのだ。
「……急がないと」
分かっている。今日中に脱出するなんて不可能だ。それでも僕は立ち上がった。足に力を入れる。膝が少し震えた。それでも歩き出す。
僕は魔物と戦えるような職業ではない。剣も使えなければ、魔法も使えない。最弱のゴブリンと戦ったとしても、たぶん勝てないだろう。
僕の職業は、記録係。戦闘能力なんてほとんどない。
僕が持っているスキルは【記録】。
魔物を見て得た情報、例えばその姿や特徴、習性などを自動的に本へ記録するスキルだ。僕はその情報を冒険者ギルドや研究者に売って、お金を稼いでいる。
そう、とても地味な仕事だ。でも、勇者パーティーにとっては大切な仕事だった。魔物の習性や弱点を知っていれば、戦いを有利に進められる。
だから僕は、このパーティーに必要とされている。剣士で勇者のルーカスからも、頼りにしていると言われた。
「……分かれ道。どっちから来たっけ」
地図は持っていない。地図を持っているのは他のメンバーだ。
このダンジョンは、深淵の監獄と呼ばれている。一度深く潜ったら、地図なしで戻るのは難しい。道は何度も分かれ、同じような場所が延々と続く。壁には目印になるものも少ない。少しでも道を間違えれば、同じ場所をぐるぐる回ることになる。
「こっちだったはず」
記憶を頼りに進むしかない。
あの大きな岩を右。
その先の分かれ道を左、だよな。
そこから長い階段を上る。
何度も頭の中で道を確認しながら進んだ。
僕は魔物の特徴については詳しい。だから、人間の臭いを消す方法も知っている。ヘドロを手ですくった。
「……うっ」
鼻を刺すような臭いがする。魔物の死臭も混ざっていた。そのヘドロを服や腕、足に塗りつけていく。
気持ち悪い。
でも、これで人間の臭いを隠せる。魔物に見つかる可能性を少しでも下げられるなら我慢するしかない。
ヘドロをまとった服はかなり重たくなった。
それでも歩いた。体力はどんどん削られていく。足音にも気をつけた。大きな音を立てれば、魔物に気づかれる。
喉がからからに乾いていた。しかし水はない。ダンジョン内の水を飲むのは危険だ。人間にとってリスクの高い物質が含まれていたりする。もちろん浄化の魔法も僕にはできない。
もう限界だった。僕はその場で倒れる。
死。
そんな言葉が、頭から離れなくなっていた。
これまで何度もダンジョンには入ってきた。でも、こんな地獄は初めてだった。帰り道が分からない。食料もない。水もない。仲間もいない。
「死ぬのか。クロエを残して……」
思わず声が漏れた。クロエの笑顔がまぶたの裏に浮かんだ。
そのとき、前方が明るくなった。光が見えた。これまで見てきた魔石の光とは違う。もっと強い。白い光が、暗闇の向こうから漏れている。
僕は目を細めた。もしかして、出口かもしれない。思ったよりも早く出口についた。そう思った瞬間、胸の奥に小さな希望が生まれた。
「クロエと一緒に、幸せになるんだ!」
絶対に帰らなければならない。その気持ちだけで、僕は立ち上がった。
ふらつきながら、光の方へ進んだ。一歩。また一歩。そして、光の中へ足を踏み入れた。
「え!?」
僕は立ち止まった。
そこにいたのは巨大な魔物だった。全身を黒いうろこに包み、背中から巨大な翼を広げている。長い首。鋭い牙。巨大な爪。
その目が、ゆっくりと僕へ向けられた。
「……邪龍」
僕の目に届いた光は、邪龍のうろこの反射だった。
声が震えた。『深淵の監獄』に住まうダンジョンボスは、邪龍だったのだ。冒険者の間では、災害そのものとして知られている。
勝てない。勝てるわけがない。勇者パーティー全員が力をあわせて勝てるかどうか。いや、僕の計算が甘かった。絶対に勝てない。そういう次元じゃない。
僕は後ずさった。足が震える。膝に力が入らない。
邪龍が大きく息を吸った。その口の奥に、黒い光が集まっていく。
「あ」
死ぬ。そう思った。
クロエ、ごめん。僕はもう帰れない。
そのとき、腰に差していた本が突然光り始めた。
「え?」
本が震えている。かと思えば浮遊して、ページが勝手にめくられていく。
パラパラパラッ。
そして、まばゆい光が僕を包み込んだ。何が起きているのか分からない。ただ、本から何かが僕の中に流れ込んでくる。頭の奥が熱い。全身の血が沸騰したような感覚がする。
『スキルが覚醒しました』
という文字が本のページに浮かんだ。
「……覚醒?」
僕は呆然と、その文字を見つめた。
仲間に情報を伝える以外、何の役にも立たないと思っていた僕のスキル。それが今。この最悪の場所で、最高のタイミングで覚醒した。




