第1話 痛くない死に方のための『ストレッチ』
春の柔らかな日差しが降り注ぐ王都の並木道を、ヴァルハイト辺境伯家の豪奢な馬車が静かに進んでいた。窓の外を流れる石畳の街並みと、新入生を迎えるエルディア王立学園の白亜の尖塔を見上げながら、俺――ゼクス・ヴァルハイトは深く息を吐き出した。
「よし。今日から始まる学園生活、目指すは完璧なる名誉の戦死だ」
誰にも聞こえないよう小さく呟いた言葉には、並々ならぬ決意が込められていた。
前世の記憶を取り戻したのは、十年前、俺が六歳の誕生日を迎えた日のことだった。階段から転げ落ちて頭を強打した瞬間、前世の平凡な日本人としての記憶と、妹に無理やり全ルートをコンプリートさせられた乙女ゲーム『星降る夜のファンタジア』の膨大な知識が脳内に雪崩れ込んできたのだ。
そして同時に、俺は戦慄した。
自分が転生したゼクス・ヴァルハイトという少年が、ゲーム本編において誰からも嫌われる最低最悪のクズ悪役貴族だったからだ。
ゲーム内でのゼクスは、高慢で無能、自分より立場の弱い者をいびり倒し、美しき婚約者である公爵令嬢セレスティア・フォン・グランツに冷酷な嫌がらせを繰り返す典型的な噛ませ犬だった。しかも、一学期の野外演習で発生する魔物襲撃イベントにおいて、恐怖のあまりセレスティアを盾にして自分だけ逃げ出そうとし、それをきっかけに失脚。最終的には数々の悪事の罪を着せられて公開裁判で断罪され、惨めに処刑される運命が待っている。
ざまぁ展開としては満点だろうが、自分がその当事者になるなど冗談ではない。処刑なんて絶対に嫌だ。ギロチンも絞首刑も勘弁願いたい。
だが、妹の猛烈な布教に付き合わされていた俺は知っていた。
このゲームの膨大な分岐の中に、たった一つだけ存在する特殊な裏ルートを。
それは、魔物襲撃の際、悪役であるゼクスが己の醜悪さを悔い改め、セレスティアを身代わりに庇って命を落とすという『名誉の戦死ルート』だ。
そのルートに入ると、ゼクスは死ぬものの、冷遇していたはずの婚約者を命懸けで守り抜いた高潔な騎士として讃えられる。結果、実家であるヴァルハイト辺境伯家は改易や取り潰しを免れ、英雄を輩出した名家として安泰を保てるのだ。
処刑されて一族もろとも破滅するか。
それとも、セレスティアを庇って華々しく散り、英雄として来世に期待するか。
答えなど決まっている。俺は綺麗に身代わりとなって死に、来世という名の転生ガチャを引き直すのだ。
ただ、一つだけどうしても譲れない問題があった。
それは、死ぬ瞬間に痛いのは絶対に嫌だ、ということだ。
鋭い爪で引き裂かれたり、牙で噛み砕かれたりして死ぬなんて考えただけでも気絶しそうになる。できれば無痛がいい。せめて意識が吹き飛ぶまでの激痛を限界まで和らげたい。
そう考えた俺は、記憶を取り戻した六歳の日から丸々十年間、痛覚を麻痺させ、衝撃を少しでも和らげるための肉体改造と魔力改造に心血を注いできた。
朝起きたら、体内の魔力回路を一度完全に焼き切る勢いで限界まで魔力を循環させ、全身の細胞を極限まで活性化させる。夜寝る前には、筋繊維の一本一本が千切れては再生する限界領域まで自重で負荷をかけ、骨密度と皮膚の強度を限界突破で高める。
世間一般ではそれを狂気の自己破壊と呼ぶらしいが、俺にとってはただの『ストレッチ』だった。痛みに耐えるための柔軟体操、怪我をしないための準備運動に過ぎない。毎日の入浴後に身体を伸ばすのと何ら変わりはなかった。
ついでに言えば、俺が生まれ持った固有スキル『因果反転』の存在もある。
本来のゲーム設定では、敵から受けたダメージや状態異常の数パーセントを相手に跳ね返すという、悪役らしい嫌がらせ程度の地味なスキルだった。だが、十年に及ぶ日々のストレッチによって俺の肉体と魔力が桁外れに変質していくにつれ、このスキルもまた奇妙な方向へ馴染んでいた。まあ、死ぬ瞬間の痛みを少しでも緩和するクッションくらいにはなってくれるだろう。
「ゼクス様、王立学園に到着いたしました」
御者の声に思考を遮られ、俺はネクタイを整えて馬車の扉を開けた。
馬車から降り立つと、周囲の空気がさっと引いていくのが分かった。黒髪を整え、仕立ての良い学園の制服に身を包んだ俺を見て、周囲の貴族子女たちがひそひそと囁き合っている。
「あれが、ヴァルハイト辺境伯家のご嫡男よ……」
「なんて冷徹な目つきなのかしら……」
「あの婚約者殿を、幼い頃から虐げているという噂の……」
完璧だ。周囲からの悪評は申し分ない。
死の直前に身代わりとなって庇うからこそ、そのギャップで『名誉の戦死』が劇的な美しさを帯びるのだ。そのためには、普段から徹底して冷酷な悪役を演じ続けなければならない。好かれてしまっては、庇った時のドラマ性が薄れてしまう。
講堂へと向かう並木道を歩いていると、前方にひときわ目を引く集団が見えた。
豪奢な金糸の刺繍が施された制服を完璧に着こなし、歩く姿すら一幅の絵画のように優美な少女。銀糸を紡いだような見事な長髪を縦ロールに巻き、氷の彫刻のように研ぎ澄まされた美貌を持つ令嬢――セレスティア・フォン・グランツ。
俺の婚約者であり、原作における悪役令嬢だ。
彼女は取り巻きの令嬢たちに囲まれながら、こちらへと視線を向けた。その紫水晶の瞳には、幼い頃から俺に冷たくあしらわれてきたことへの警戒と、わずかな緊張が宿っている。
よし、早速悪役ムーブの開始だ。死亡イベントへの第一歩を刻んでやろう。
俺はわざと口角を吊り上げ、冷淡極まりない表情を作ってセレスティアの前に歩み寄った。彼女の取り巻きたちが怯えたように一歩後ずさる。
「……ごきげんよう、ゼクス様。本日より、同じ学園の生徒となりますわね」
セレスティアが完璧なカーテシーを見せながら、冷ややかに挨拶を口にする。
俺は彼女の挨拶を無視するように鼻を鳴らし、低く冷たい声音を意識して言い放った。
「くだらない挨拶など不要だ、セレスティア。俺はお前のような小娘と馴れ合うつもりなど毛頭ない」
周囲の生徒たちが息を呑むのが分かった。初日から婚約者に対してこの仕打ち。まさにクズ悪役の鑑だ。俺はさらに言葉を重ねる。
「せいぜい俺の視界に入らないよう、大人しくしていることだな。貴様のような政略結婚の道具など、俺の邪魔にしかならん」
セレスティアの肩がわずかに跳ねた。彼女の紫水晶の瞳がかすかに揺らぎ、俺の顔をじっと見つめてくる。
傷ついただろう。悔しいだろう。だが安心しろ、セレスティア。いずれ行われる野外演習で、俺はお前の身代わりとなって命を散らす。そうすれば、お前はこんなクズとの婚約から解放され、幸せになれるのだから。
俺は満足感に浸りながら背を向け、講堂へと歩き出した。
その際、少しばかり気合が入りすぎて、講堂の重厚なエントランスの扉に手が触れた。ただ普通に押し開けようとしただけだったのだが。
ギシッ、と不穏な軋み音が響いたかと思うと、樹齢数百年の銘木で作られ、オリハルコンの補強が施された巨大な両開き扉が、まるで発泡スチロールのように蝶番からへし折れ、床に轟音を立てて倒れ伏した。
……ん?
なんだ、この扉。新入生を迎える晴れの舞台だというのに、蝶番の手入れを怠っていたのか? 学園の備品管理はどうなっているんだ。危ないではないか。
俺は眉をひそめつつ、倒れた扉を踏まないように跨いで講堂の中へと入っていった。
背後では、なぜか静寂が支配していた。
生徒たちも、教師たちも、誰一人として声を発さない。
そして、冷酷に罵倒されたはずのセレスティアは、へし折れた扉と、悠然と歩き去る俺の背中を、信じられないものを見るような目で見つめていた。その瞳の奥に、かつてないほど強烈な光が宿り始めていることに、俺はまだ気づいていなかった。
悪役としての滑り出しは順調だ。
この調子で嫌われ役を貫き、来たる野外演習で最高の死に場所を見つけてやる。
俺の完璧な計画は、今まさに幕を開けたのだ。




