1;0... - !人類!
東京は沈黙を知らない。
ネオンを呼吸し、数百万の足音を消化し、決して——いいか、決して——立ち止まらない。新宿では高層ビルの屋上庭園が花開き、渋谷では溢れたコップの水のようにスクランブル交差点を人波がなだれこむ。秋葉原のショーウィンドウはアイドルの歌声とありとあらゆる広告で絶叫している。パレードが終わればパーティー、パーティーが終われば湯気立つたこ焼きと甘い団子の湯気がたちこめる夜店だ。街はさえずり、歌い、きらめいている。朝の通勤電車は破裂しそうなほど詰まり、夜のそれは静かな絶望に沈む。けれど誰も文句は言わない。みんな走っている。みんな欲しがっている。みんな生きている。
傍から見れば、これこそ未来だ。美しく、満ち足りて、目まぐるしい。人類賛歌の、忌々しい完成形。
だが、ほんの一瞬だけ立ち止まり、その奔流からこぼれ落ちて、光ではなく足元へ目を向ければ、別の景色に気づく。煌びやかなウィンドウの列を縫って歩く、一ヶ月で三度も髪を染め直したのに、目の奥の色だけは染め替えられない少女。完璧に決まったスーツ姿で缶コーヒーの自販機の前に立ち、まるで答えがそこに浮かんでいるかのように紙コップを覗き込む男。子供たちは笑っているが、長く耳を澄ませば、その笑い声は割れるガラスの音によく似ている。
俺は、ずっと耳を澄ませてきた。物心ついた頃から。灰色の壁と塩素の匂いが染みついた施設に一人置き去りにされると、人は観察することを覚える。人間ってのは驚くべき生き物だよ、本当に。天まで届く都市をつくり、実験室のフラスコの中で死んだ星を蘇らせる技術を編み出す。それなのに、いざ頭の中を覗いてみたら、何が見える?
他人の言葉の切れ端。静寂への恐怖。何者かでいなければならないという、終わりのない、疲れ果てるほど粘ついた渇望。
俺たちは、美しく包装する技を身につけた生きたゴミだ。ブランドに身を包み、スケジュールに追われ、インスタグラムの四角い枠に自分を切り貼りし、次の買い物や昇進が自分を本物にしてくれると信じ込んでいる。でも、内側にはあの虚無が横たわっている。夜になると戻るのが怖くなる、あの灰色の部屋が。
街は叫び続けている。誰にも、この静けさを聞かせないために。
そして、一番笑える話は何だと思う?
遠くない未来、ごく近いうちに、こうして走り続ける誰かが、通りのど真ん中でふと立ち止まり、それで終わりだ。俺たちが積み上げてきたすべては、腐った骨組みから剥がれる古い金箔みたいに、端からぽろぽろと崩れ落ちていく。
まあ、もう俺の知ったことじゃないがな。俺はただ思考を書き留めているだけだ。世界が今にも罅割れようとしている証拠は、まだ、ない。
──
「──ヨシ! 今の全部、ちゃんと書き取ったか? また居眠りしてたんじゃないだろうな」
記憶 零 キオク・レイ は椅子ごとくるりと回った。長い黒髪に挿した紅色の簪が、薄暗い地下室のラボラトリーの灯りに一瞬きらめく。緑の着物風の浴衣を気怠く羽織り、はんだごてやオシロスコープ、分解された携帯電話、それに図面の山がひしめくコンクリートの空間で、その姿はまるで異星の旗印のように見えた。
永井 洋子はノートパソコンから顔を上げた。灰がかった亜麻色の髪はくしゃくしゃに乱れ、ピン留めからターコイズブルーのメッシュがこぼれている。彼女は微笑み、手書きでも速記を書きつけている手帳をひらりと揺らした。
「一言一句、ぜーんぶ! “粘りつく渇望”のところもバッチリ。迫力あるね、記憶くん。でも、あのね……」
小首をかしげると、目尻の下の泣きぼくろが笑窪に隠れそうになる。
「これを本で出したら、多分あらゆる人に無視されるよ」
「もともと挨拶なんてしてない」
記憶は鼻を鳴らし、再び机へと向き直って、あちこちに導線の飛び出した基板を弄りながら言った。
「これはただの本じゃない。教科書だ。解体の手引書だ。いつか誰かが読んで、俺が正しかったと理解する」
「何が正しいの?」
「全部だ」
彼ははんだごてを宙に突きつける。
「人類は再起動されるべき存在だってことだ。この現実認識は虚構だ。時間は直線なんかじゃない。自分の尾さえ忘れて丸まった蛇みたいなもので、急所をひと突きすれば、するすると解けてしまうんだよ」
洋子はそっと息をついた。彼女は十七歳で、まだ学校に通いながら、この独白を三年間聞き続けてきた。時々思う。記憶は自分の痛みをわざと哲学の構築物に置き換えて、こうは言わないようにしているんじゃないか──「寂しい」「怖い」「自分が誰だかわからない」と。彼女は反論しなかった。代わりにリュックから苺大福を二つ取り出し、ひとつを彼の前に置く。
「はい、どうぞ。天才にも食事は必要でしょ」
「天才はインスピレーションが降りたときに食うんだ」
彼は基板から目を離さない。しかし手は勝手に包装へと伸びていた。
「友達が差し入れ持ってきたときも、ね。ヨシ! ヨシ!」
「ヨシヨシ」
機械的に繰り返した記憶の口元に、ほんの一瞬、人間らしい優しさの名残のようなものが浮かんだ。
そのとき、ラボラトリーの扉がノックもなく細く開いた。入り口に立っていたのは夢月 静羽──無造作にまとめた三つ編み、グランジ風の重ね着の上に長い黒のコートを羽織り、鎖に繋いだ懐中時計型のペンダントを胸元に揺らしている。彼女は何も言わない。ただスマートフォンを掲げ、その画面にこう表示されていた。
『また地下室中に響いてた。路地まで叫び声、聞こえてる』
「おお、静羽か」
記憶は振り返りもしない。
「グッドタイミングだ、入れ。実験に証人がいるんだ」
静羽と洋子はちらりと視線を交わした。洋子が「まあ、彼ってああだから」と言いたげに肩をすくめる。銀灰色の瞳がゆっくりと一度瞬き、静羽は音もなく室内に滑り込み、背後でそっと扉を閉めた。




