香奈子を誘う3
あれは香奈子さんが仕事の真最中で、それ以上は聞けなかった。彼女も絵筆を持つ手を止める訳にもいかずに結局、顔合わせの意味でそれ以上の説明を避けた。代わりに一冊の文庫本を読んでみてと渡されて帰った。それで借りた本に夢中になり、ドン・マクリーンのことなどスッカリ忘れてしまった。
「あれは確か英語の歌でしたね」
と素早く反応すると、もう二人とも河原町通りの人混みの中を歩くのが気にならなくなった。
「そう、ニューヨーク出身のソングライター。あの人のアルバムの中で一番綺麗な曲が『ヴィンセント』と云う曲なの。あれはヴィンセント・ファン・ゴッホの事を歌った曲なの」
「ゴッホ? ああ、あの南仏でゴーギャンと別れてピストル自殺したあの画家ですか」
「知ってるの?」
「それぐらいで、彼の絵はあんまり知らないんです」
あら、そうなの。と意外な顔をされて、残念そうな表情をした。さらに彼女が眉間に眉を寄せると「どんな絵なんですか?」と彼は慌てて訊ねた。
そうねー、とまた考え込むところを見ると、表現方法に苦労している。
「岡崎の美術館に行ってみない ?」
「そこに有るんですか」
「特別コーナーで本物じゃないけれど、精巧な模写が何点か今展示しているのよ」
どうやら彼女は前も見たが、感動はいまいちだけど生き方に拘り、ゴッホを説明するには丁度良いと思ったようだ。
「模写だから細かい筆のタッチまでは無理だけれど、彼の生き様みたいなものぐらいは説明出来るから……」
じゃあ行きましょう、と香奈子さんはスッカリ乗り気になっている。短い距離だがバスに乗り平安神宮の大鳥居の前で降りた。バス停から数歩で美術館だ。




