96 暗黒の深部
焔村光秀。
本名、児嶋固有。
彼はとある大学教授の次男に生まれた。
父の専門は量子力学。以前から全国を飛び回っては、講義に実験、議論、執筆、講演と忙しくしている。
家を空けがちではあったが、合間を縫っては夕食だけ、電話だけでもと、家族とコミュニケーションを取ろうとする。そういう男だった。
「人間、つねに科学的であれ」
父はほとんど毎日、子どもたちにそう言っていた。
あるとき長男が、科学的とは何かと尋ねた。次男・固有が八歳のときだった。
「定義が気になるようになったか。大きくなったな」
そう前置いて、父は答えた。
「科学的とは、自分ひとりの思い込みからできるだけ離れる、ということだ。なるだけ多くの視点から見て、なるだけ多くの証拠を集める。そして、なるだけ多くの人に、間違いのなさを認めてもらう。そういった姿勢が、科学。サイエンスだ。もちろん化学とは別物だよ」
兄や妹がふーんと言うなか、次男は訊いた。
「科学的だと、偉いの?」
父は笑った。
「科学的だから偉いということはないが、うまく科学を使って偉くなった人は少なくないぞ」
「じゃあ僕も科学的になる」
「固有は偉くなりたいのか?」
「うん」
「なら、科学的であれ」
それから十年。
長男は旧帝大理学部で修士過程にいながら、すでにいくつか論文を書いている。
高校生の長女は毎年、自由研究の全国コンクールで入賞を続けている。
次男も今年、九州随一の大学に合格した。兄弟たちに比べ、さして能力が劣るということはない。
けれど何かが違った。
正しく科学に向き合い、学問に貢献しようとする兄。
才能を鼻にかけず、他者を誉めながら和を貴ぶ妹。
二人の気持ちのいずれも、次男にはさっぱり判らなかった。
そんなことよりも、思い込みにしがみつく人間を嘲笑うのが、面白くて仕方がなかった。
小学生のとき、嘘を覚え。
中学生のとき、ゲームのアンチを装って炎上させることを思いつき。
高校生のとき、サービス終了まで追い込むスキルを身に着けていった。
虚偽の記載、誇張した表現、偏向した情報を駆使し、オタクたちをもてあそぶ。
冷静に、科学的に考えられずに踊らされる者を見ると、ゾクゾクするような興奮が次男の中に駆け巡った。
しっかりと裏付けを取り、整理して考えれば、真実が判りそうなものなのに。そうする気配のない者があまりに愚かしく、笑えるばかりだった。
(僕だけが生まれつき、悪の性根を持っていたんでしょうね)
いつからか、次男はそう思うようになっていた。
(世のため研究するという考えが、兄さんにはあるのでしょう。僕にはない。人のため才能を使うという想いが、妹にはあるのでしょう。僕にはない。それはきっと、僕の魂が悪だからだ)
悪だ。
僕は悪だ。
次男が観測する限り、人間はそういった自覚を避けようとするらしい。
悪逆非道をなした犯罪者も、大抵は行動を正当化しようとする。責任を転嫁しようとする。
それは決して、法を犯したことの制裁を嫌がるだけとも限らない。
自分は悪くない。自分は善だと「思い込み」たがる。
法的のみならず、心まで許されなければ、余生の平穏も保てない者が多いようだ。
ちゃんちゃらおかしい、と次男は、そういった人間を笑い飛ばす。
悪で何がいけない?
確かに制裁は困る。
でも、だったら気づかれないようにすればいいだけだ。
悪だと断ぜられることが嫌なら、どうして露見しないようにできない?
僕は悪だ。
僕にはできる。
己の悪心を認められないバカも、捕まらないように悪事を働けないバカも、悪報に踊らされるバカも、悪行を許されたがるバカも、僕の足元にも及ばない。
僕は悪だ。
優れた悪だ。
いい歳して科学的思考も身につかないバカを、心ゆくまで笑いものにしてやる!
――それが焔村光秀の、心のうちであった。
◆
「それが一体何だというのですか、騎士殿。僕が何か罪を犯したのですか?」
「ええ、犯したわ。よくも私の大切な人を侮辱させたわね」
「なんだ、それだけですか」
焔村は逆の手で、頭を搔きだす。
「あなたの世界ではどうか知りませんが、こちらではそれくらい、日常に転がっているんですよ。偏向報道をするマスコミなんて好例でしょうね」
「こっちの世界の事情なんて知らないわ。だいたい法なんて、どんな国にも欠陥や抜け穴があるものでしょう。第三者を介して、尭史を標的にした。それだけで私の敵とするには十分よ」
「つまり私怨ですか。騎士道なんてものも、大した道理ではありませんね」
「あいにく法治国家なんてものは、一週間前に初めて見たくらいよ。ゆえに物事の善悪は、この誇りに従うわ」
「なるほどこれは、話が通じそうにありませんね。前近代の人間とじゃあ、議論のコードが違いすぎるみたいです」
顎を上げながら、焔村は首を振る。
「ご自由にどうぞ。僕は悪だ。まあもっとも、カードの中にいるあなたが何をできるのかは知りませんけれど」
「憎らしい小悪党ね。ほら、尭史も何か言いなさいよ!」
「あ、オレ? ええー」
返事は遅かった。すでにサイドボードのことに頭が移っていた。
「『清涼で甘美な日々』を触媒にして、オレの炎上に油を注いでたってんだろ? まあ、許しはしないけどそれほど怒ってもないよ、オレは。そりゃあ不愉快だったけど、それがきっかけで気づけたこともあるし。そもそもオレ自身、衆人環視での身の振り方ってのを考えてなかったせいでもあるしな」
ただ、と続ける。
「カードゲームってのは遊び仲間が大事だ。オレが知らないゲームのこととはいえ、それを破壊したってのは肯定できない。早崎さんの木彫りの熊受け取っちまったし、そういう意味で決闘者の意地はくすぶるね」
「ほんと、バカードゲーマー。どんな価値基準よ」ジェローナは肩をすくめた。
「難しい話は後でいいだろ。オレはこのゲームを楽しむ。そして勝つ! それだけだ」




