67 踏み鳴らされる地
心地よい沈黙というのものが、そもそも尭史にとって初めてだった。
ふだん彼がオタク同士で話すときは、一方がダラダラと話すことが割合に多かった。それゆえか、沈黙は悪だ! というどこか強迫じみた観念が、頭をもたげることもあった。
それが今はどこにもなかった。
どちらが何を言うでもない。ふだんなら居心地が悪くて仕方ないと思うような状況でありながら、尭史はむしろこう思っていた。
この時間が永遠に続けばいいと。
「いたく不思議なものね」不意にジェローナがぽつりと言った。
(なにが?)
「自分の気持ちが、と言っていいでしょうね。世の女の子が、みんなこんな気持ちを経験していくのかしらって」
(そうなんじゃないか? おれもよく判んないけどさ)
「だと、母さんも父さんに対して、こんな気持ちを持っていたのかしら。やっぱりすごく不思議だわ」
「それは……」
瞬間的に、両親の顔が脳裏に浮かんだ。
自分の気持ちなどろくに汲み取ってくれないあの二人も、いまの自分と同じ感情を持つことがあったのだろうか。
少し気が重くなる。
いや、そもそも二人はいつ出会ったのだろう? 恋愛をしたのか、見合いでもしただけか。そんなことさえ、尭史は知らなかった。
「そうなんだろうな」
気がつくと彼は、思ってもないことを口にしていた。
自分の両親のことなど、つまるところ、どうでもよくなっていた。大会が終わるまでに顔を合わせたりしなければ、あとはなんだったって構わない。
あるいはジェローナの気を揉みたくはなかったということもある。
思い出したように、借り物のサングラスをかけた。これはこれで、後で月居に返さなければならないのか。
少し後ろめたい気もしたが、そんな気持ちもいまは振り払った。
ジェローナと二人で戦いに臨めるように。そのコンディションさえ整っていればよかった。
「って、うげ」
だから。
会場が見えたとき、彼は露骨に嫌な顔を見せた。
「どうしたの?」ジェローナが尋ねる。
(いやさ。さっきは昼時だからバレなかったんだってこと、忘れてた)
会場の大半のイベントは、昼休憩の真っ最中だった。
ついさっきは休憩開始直後だったがゆえに、外食しに出る人混みに紛れることができたのだ。
一方、戻るタイミングは人それぞれである。いまの人入りはまばらだった。
(どうすっかな……ここでグラサンしてるの、悪目立ちするだけだしな)
「もう堂々と入っていくしかないんじゃない? 威厳たっぷりに行けば狼藉者も躊躇するかもよ」
(威厳ってそんな簡単に出るもんか?)
どのみち他に方法はなかった。誰に絡まれることもないよう祈りながら、尭史はサングラスを外す。そして早足に、選手控え室を目指した。
会場敷地内に入っただけで、どこか違う雰囲気を覚えた。かなりの若者が、尭史の方を見てきた。無断でカメラを向ける者も、ほどなくして見えた。ひどい嫌悪感だったが、目を合わせないようまっすぐ通り過ぎた。
「鮎川がいるぞ!」
いよいよ建物に入るというとき、誰かが叫んだ。尭史は唇を噛みしめる。急に、走って逃げたい気持ちが湧いてきた。
「気にしちゃいけないわ!」
すぐにジェローナが声をあげた。
「ここで走りでもしたら、それこそ威厳が地に落ちるというものよ。ルールに反することはしてないって、そういう態度を見せなさい」
その言葉に、黙ってうなずいた。ジェローナに情けない姿は見せたくなかった。彼はむしろ速度をゆるめ、胸を張った。
サマ師だの、八百長だの、そんな叫びも聞こえだした。それでも尭史はブレなかった。一歩一歩、自分のペースで、歩いていった。
ふと前を見ると、いつの間にか、軽薄そうな集団がこっちを見ながら立ちはだかっていた。
一瞬、足向きを変えかけて、やめた。そのまま進んでいく。
生唾を飲み込む。本当は怖かった。それでも退きたくはなかった。
「おっ! 鮎川くんじゃん!」
そんなときだった。
不自然なほど大きな声で、背後から何者かが、尭史を呼び止めた。
素早くきびすを返す。きっと厳しい眼の先、そこにいたのは意外な人物だった。
「馬渡……大地?」




