第二部 閑話4 ―宵闇にひらく扉―
新月まで、あと数日。
飛鳥たちは野営地でそれぞれの時間を過ごしていた。
ロメラは遺跡の屋根の上で、ギターのコードを鳴らしながら一つ一つ譜面に落としている。
ウェーリーは泉のそばで、静かに水を浄化しつつ、魚やカエルに囲まれながらぼんやりと漂っていた。
そんな夕暮れ時。
鳥の脚で器用に焚き火の残り火をつついていた飛鳥は、そっと顔を上げる。
「……風、止んだ?」
一瞬、空気がぴたりと静まる。
その向こう、森の奥からふわりと違う“匂い”が漂ってきた気がして、飛鳥が眉をひそめた——と、そのとき。
「……っ! にゃっ……にゃにゃにゃ……ッ!!」
ノーニャが、ぴくんと耳を立て、鼻をひくひくさせて飛び起きた。
「今の、今の匂い……絶対なんかあるにゃ……!この感じ、空気の境目ってやつだにゃ!」
「えっ、ちょっと待って……そこって、ヤオが言ってた——」
飛鳥はすぐに立ち上がりながら、ノーニャに声をかけた。
「……この辺、“過去と現在の境界”が曖昧になってる場所がいくつかあるんだって。ヤオが言ってたよ。そういう所には、むやみに近づいちゃダメって——」
「わかってんよ...」
ノーニャは、珍しく素直に返すと、胡座をかいて座り、しっぽをぴたりと止めた。
しばらくじっとしていたが——しかし。
「……でも、ダメにゃ……ッ!」
跳ねた髪が更にピクリと跳ね、しっぽがブンッと揺れる。
「オイラもう気になって気になって、胸の奥がモヤモヤする!こっそり、ちょっとだけ覗くだけ、にゃっ!!」
「ま、待ってっ、ノーニャ!!」
次の瞬間には、もうノーニャの姿は焚き火から消えていた。
ぴょん、と遺跡の塀を蹴り、森の奥へ。まるで獲物を見つけた猫のように、音もなく跳ねていく。
飛鳥は、ため息まじりに頭を抱えた。
「……ほんとに、もう……!」
けれど、放っておくなんてできなかった。
巻き込まれて危ない目に遭うかもしれない。だから、追いかけなきゃ——
飛鳥はそっと、翼を広げた。
「……行こう」
音もなく地を蹴ると、軽やかな風が舞う。
翼が空気を掴み、遺跡の斜面を越えて樹木の上へふわりと跳び上がる。
目の良さと飛翔の力を活かして、ノーニャの影を追って滑空していく。
(ほんとに、なんでこうなるの……)
呆れと少しの期待を胸に、飛鳥はその小さな背を追って、宵の境界へと羽ばたいた。
——そして。
森の奥。日が落ちかけた斜面の向こうで、まるでそこだけ周りから切り離されたような、不思議な気配が漂う空間があった。
その前には、すでに誰かの影——
「……足音がすると思えば。おぬしたちか」
それは、ヤオだった。
夕陽に照らされた銀髪と白蛇の尾。
静かにそこに立つ彼女は、まるで“門を守る者”のように、風の向こうに佇んでいる。
「……ヤオ……!」
飛鳥が翼をたたみながら降り立ち、息を整える。
ノーニャは地面にしゃがみ込み、目を細めてヤオと入口を見比べていた。
「……やっぱ、なんかおかしい空気だぜ。空間が……“たわんでる”?」
「うむ。よう気づいたな」
ヤオは、微かに目を細めながら、宙に手をかざした。
何もない空間の一点が、光を吸い込むように歪んで揺れている。
「ここはな、かつて異なる“想念”が重なりすぎた場所……時と時の層が混じる“隙間”じゃ。通れるのは、今宵のように風のない夕刻か、あるいは新月の夜くらいのもん」
「……じゃあ、通れるってことなの……?」
飛鳥の問いに、ヤオはゆるりと頷いた。
「通れるには通れるがな。……ただし、入り口は“鍵”のようなものでな。通った先に何があるか、ワシにも正確にはわからぬ」
「な、なにそれ……そんなの、危ないんじゃ……」
「じゃが、ノーニャには見えておるのであろう? 入口の“先”が」
ノーニャは、少しだけ目を伏せた。
しっぽが落ち着かずに揺れ、両手で膝をぎゅっと押さえている。
「……うん。わかるにゃ。なんか、“すっごく古くて懐かしい”感じがする……誰の記憶かも、何の匂いかもわからない。でも……奥に行けば、何かに会える気がするのにゃ」
「ノーニャ……」
「……オイラ、行く」
ぐっと立ち上がり、飛鳥の方を向いた。
「止めてもムダだにゃ。オイラのこういう“気になっちゃった病”、ココ姉でも止められなかったにゃ……!」
「でも……」
「でもって言うなにゃ!危ないのはわかってる。だからこそ、気になるんだってば!」
ノーニャの瞳は、いつになくまっすぐで。
それでいて、どこかぐらぐらしているような——“迷ってるけど、突っ走るしかない”そんな猫の眼だった。
飛鳥は、少しだけ目を伏せた。そして——
「……なら、あたしも行くよ」
「えっ、ちょ、おまっ……!」
「ノーニャひとりで危ない目にあうの、やだもん」
そう言って、飛鳥はそっと翼を伸ばし、ノーニャの肩にかけるように羽根の端を重ねた。
思わずノーニャがびくっとなる。
「お、お、おい……そんな可愛い顔して抱き寄せんな!オイラ、変な声出そうになったにゃっ……!」
「だって、ノーニャ。いっつも飛び出して、こっちの気も知らないでさ……」
「そ、それは……」
「……心配するに決まってるでしょ」
飛鳥が、ふわっと微笑んだ。
ノーニャは目を逸らしながら、小さく唸った。
ヤオがくすっと笑った。
「まこと、にぎやかな旅よの。……良い風が、吹いておる」
そう呟きながら、ヤオは一歩退いた。
「……行くがよい。戻ってこられるかどうかは、おぬしら次第じゃがな」
「うん。ありがとう、ヤオ」
飛鳥が深く頭を下げると、ヤオは片手を振って応えた。
白蛇の尾がふわりと風に揺れ、斜面の岩陰に静かに身を沈めていく。
飛鳥とノーニャは、並んで“ひずみ”の前に立った。
夕空は、すでに宵の色へと染まりつつある。
「行こう、ノーニャ」
「よっしゃ……やるからには、とことん探るにゃ……!」
そう言って、二人は一歩、歪んだ空気の向こうへと足を踏み出した。
——その先に広がるのは、“誰かの残した記憶の迷宮”。
まだ、名も形もわからぬ、異界の記憶の扉だった。
***
空間の“ひずみ”を越えた瞬間——
空気が、変わった。
視界がほんの一瞬、白く滲み、風の音も鳥の声も、まるごと切り取られたような無音の世界が広がる。
次に、耳の奥に“こぽん”という水音が響いた。
足元を見れば、薄く水が張った地面。
その上に草花が、まるで水面に浮かぶように生えている。
まばゆいほど淡い青の光。
霧が立ちこめ、空も地平も曖昧な、どこにも繋がっていない風景。
「……ここが、異界……?」
飛鳥が息を呑む。
「太陽もない、風もない……のに、世界は生きてるみたい……」
「……なんだ、ここ……?」
ノーニャも、思わず口を開いていた。
いつもの調子は鳴りを潜め、しっぽの先だけが落ち着かず揺れている。
「……においが、変だにゃ。草の匂いじゃない……記憶のにおい?」
「記憶の……?」
「誰かの、昔の出来事が、この空間に“にじんで”る……そんな感じがするんだにゃ」
ノーニャが低く唸るように言ったその時、
飛鳥は翼を広げ、空を見上げた。
「……この空、普通の空じゃない。何か道みたいなのが、見える気がする」
「多分、“誰か”の記憶が、そこに道を作ってるにゃ」
「……じゃあ、その記憶の道の先に、きっと出口があるんだね」
「ふふっ……“探検”らしくなってきたぜぇ」
ノーニャが、ちょっとだけ得意げに笑う。
飛鳥も、その横で小さく微笑んだ。
——こうして、ふたりの異界探索が本格的に始まった。
***
飛鳥とノーニャは、、霧が薄く漂う森の中を進んでいく。
湿った空気の中、周囲は不自然なほど静まり返っていた。風の音も、鳥の声もない。
足元の草を踏むたび、ぴちゃ、と微かな水音が鳴る。
「……あれ? なんか、地面が……」
飛鳥がそっと視線を落とす。
気づけば、森の地面はいつの間にか——無数の“水たまり”に変わっていた。
どれも風も波もなく、まるで鏡のように静かに空を映している。
「……これ……」
飛鳥は思わず立ち止まり、足元を見つめた。
ひとつの水面には、焚き火を囲みながら仲間と肩を寄せ合って過ごす夜の記憶が映っていた。ロメラ、ウェーリー、九重、ヴェル……懐かしくて、少し切ない光景。
その隣の水たまりには、丘を駆ける子どもたちと笑い合う自分の姿。泥だらけになりながら手を取り合い、歌を口ずさんでいたあの時間。
「……これ、ぜんぶ……あたしの“記憶”……?」
飛鳥がつぶやくと、ふと隣で立ち止まったノーニャも、同じように水面をのぞき込んでいた。
けれど——
「……オイラの“記憶”だにゃ……」
ノーニャの声が、少しだけ不思議そうに震えていた。
「……え?」
飛鳥は驚いて、ノーニャの足元の水をのぞき込む。
そこに映っていたのは、自分ではなかった。
赤茶けた毛並みの、細身の猫。
薄暗い廃屋の梁の上で、じっと身を潜めている。
ひどく痩せていて、でもその瞳は強い警戒と知性の光を湛えていた。
「……それ……ノーニャ?」
飛鳥が問うと、ノーニャは目を伏せる。
「う、うん……昔の、オイラにゃ……たぶん、あの時の記憶……」
飛鳥は、もう一度自分の足元を見る。そこにはやっぱり、自分の記憶が映っている。
「……これ……この水たち……見た人の、記憶を映してるんだ……」
ノーニャも小さく息を呑む。
「じゃあ、この森じゅうの水たまりが……“記憶の鏡”みたいなもんってことか?」
「うん……だから、私には私の記憶が見えて、ノーニャには……ノーニャの……」
ノーニャは、クンクンと鼻を鳴らす。
「にゃるほど……たしかに、この辺りの"記憶のにおい"は水たまりからしてくるぜ。んで、この道の先に“いちばん強い記憶のにおい"がある」
飛鳥はゆっくりと頷く。
「……それが、この空間の出口かもしれない……」
ふたりは視線を交わすと、そっと歩を進めた。
まるで過去に沈んでいくような、水面の森の中へと。
***
ふと、風が止んだ。
飛鳥は、胸の奥に妙なざわつきを感じながら、足を進める。
足元に広がる無数の水たまり。けれど、その中でひときわ目を引くものがあった。
森の中、ぽっかりと空いた広場の中央にある、円形の泉。
——その水面には、“檻”が映っていた。
ぼろぼろの鳥籠。冷たい鉄格子の中、横たわる影。
痩せた脚。羽毛の生えた肘。細い肩。
それは、かつて名前すら持たず、ただ「異形」として閉じ込められていた飛鳥自身だった。
けれど——
泉を覗き込んでいるのは、今の飛鳥ではない。
その縁に立っていたのは、過去の飛鳥。
うつむいた顔に陰を落とし、じっと泉の奥底を見つめている。
「……あれ……あたし……?」
飛鳥は息を呑む。
泉の中には、次々と別の情景が浮かび上がっていた。
森で矢を向けられ、逃げ惑った夜。
外套で翼を隠し、街の片隅を息を潜めて歩いた昼下がり。
化け物と罵られ、矢を射られ、石を投げられた日。
肩を落とし、九重の後ろを小さくなってついていった、寂しい影。
——それはすべて、「自分の異形が恥ずかしかった頃」の記憶。
「……こんなに、たくさん……」
あの頃は、ただ怖くて、恥ずかしくて、前なんて見られなかった。
でも——
(……あたしは、もう違う)
金色姫と出会って、美しさに憧れを抱いて、醜い自分を受け入れる心も芽生えた。
空だって飛べる。誰かを守ることもできた。
もう、あんな弱い自分に、戻るつもりはない。
「……だから、もう……要らないよ。あんな自分なんて」
呟いた声が、泉の縁の飛鳥に届いたかのように、その肩がふるりと揺れた。
飛鳥は、ぎゅっと胸の前で手を握る。
「もう、あたしは——あんな自分じゃない」
泉の縁に立つ過去の飛鳥が、ゆっくりと顔を上げる。
その表情は、どこか諦めたようで、静かに笑っていた。
——みんなに怖がられて、否定されて、それでも「自分が悪いんだ」って思い込んでいた頃の顔。
今回もまた、未来の自分に否定されて、
「やっぱり、あたしは要らないんだ」
——そう納得しようとしている顔だった。
それは、飛鳥が昔よくやっていた、自分自身に蓋をするような自己嫌悪の表情。
次の瞬間、
泉の縁に立っていた過去の飛鳥が、すっと前へ身を投げた。
水音が、静かに響く。
小さな波紋が広がり、そして、何も残さず——消えた。
飛鳥は、その光景を黙って見つめて、安堵していた。
(……やっと、消えてくれた)
情けなくて、惨めで、どうしようもなかった“あたし”。
何度も泣いて、怖がって、何もできずに、ただ誰かの後ろをついていくことしかできなかった自分。
——そんな自分が、ようやくいなくなった。
そう思った瞬間、胸の奥が軽くなった気がした。
けれど——
ふと、風が吹いたような気がした。
そこに居るはずのない声が、耳の奥で、やさしくささやいた気がする。
『あんたが、自分で決めた事なら……ウチは、なんも言わへん』
九重の声だった。
鳥籠から出て、歩き出した時も、この旅を始めた時も、背中を押してくれた声。
(……九重)
思い出す。
あの時、どれほど臆病で、心細くて、それでも一歩を踏み出せたか。
それは、彼女が傍にいてくれたからだ。
次に浮かぶのは、ロメラの声。
『これまで、頑張ってきたなハッチー。オマエが良いなら、オレも、それでいいと思うぜ』
ガサツで、いい加減で、でもいつも、一番近くで守ってくれた、彼女の声。
フィーちゃんは、こんなふうに笑ってくれた。
『うふふ……大丈夫、だいじょうぶぅ〜。飛鳥ちゃんは、がんばり屋さんですからぁ〜』
包み込むような、やわらかくてあったかい声。
あの笑顔の記憶に、何度救われたか知れない。
全部、かけがえの無い、絶対に手放したくない記憶。
あたしが、それを手に入れる事ができたのは。
それを、みんなが自分に与えてくれたのは......
——そして。
ヴェルちゃんの、少し怯えながら伸ばしてきた手を、ちゃんと掴んであげられたこと。
アクウェリーナの、言葉のない静かな孤独に、一緒に行こうと声をかけられたこと。
彼女たちに寄り添えたのは。
あたしが、彼女たちを、少しだけど理解できたのは...
——自分が“弱かった”からじゃなかったか。
いま、泉に身を投げた"あの子"が、弱くて泣いてたからじゃなかったか。だから、自分は、誰かの痛みをわかってあげられたんじゃないか。
飛鳥は、泉の水面を見下ろす。
そこには、もう誰の姿も映っていない。
(……あたし、あの子のこと、消えてくれてよかったなんて——)
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
あんなに、必死で生きようとしてたのに。
それなのに、自分は……
(あたし、あの子を、ひとりにした……)
————
飛鳥は、気づけば泉のふちに脚をかけていた。
水面が、かすかに揺れる。
——その向こうに、沈んでいく小さな背中が見えた気がした。
迷いは、もうなかった。
「待って……!」
そう叫んで、飛鳥は水の中へと身を投げた。
水は冷たかった。
でも、怖くはなかった。
羽毛の先まで沈んでも、暗闇に包まれても、あの時とは違う。
(……いる)
小さな背中が、ゆっくりと沈んでいく。
ぎゅっと膝を抱えて、ただ、深く、深く……。
飛鳥は、翼を使って水をかき、潜っていく。
(このまま、あの子を——あたしを——置いていったら……ダメだ!)
伸ばす脚。
ゆれる羽根。
爪先が、水中でふわりとほどけた黒髪に触れた。
——その瞬間、ばちん、と電流のような衝撃が、胸の奥を貫いた。
水の中で、目が合う。
怯えた瞳。
拒絶と諦めが混ざった、あの頃の自分の目——
「ごめん……!」
飛鳥は、水の中で叫んだ。声は泡になって弾けるだけだけど、それでも届いてほしかった。
「……消えてほしいなんて、もう思わない……!」
鳥の脚で、しっかりと彼女の右腕を掴む。痩せてて、細くて、冷たい腕。
「たしかに、今のあたしは、強くなったよ。みんなに出会って、歩いて、飛べるようになって、……自分のことを少しだけ好きになれた」
けれど——
「それができたのは、あなたが生きててくれたからなんだ。
あなたが、踏ん張って、泣いて、逃げずにいてくれたから……今のあたしがいるんだよ」
水の中で、沈んでいた“過去の飛鳥”が、ゆっくりとその左の翼を伸ばし、爪先に添えた。
次の瞬間、泉の水面が、ふわりと光を放った。
ふたりの飛鳥を包み込むように、羽毛のような光が舞い、やがて、揺らめく波紋とともに——
過去と、現在の飛鳥が静かにひとつに溶け合った。
飛鳥は、目を開けた。
そこは、もう水の中ではなかった。
***
水底とひっくり返ったかの様な空。そこから、白い光が降り注いでいる。
まわりには、もう泡も波もない。
ただ静かに、泉の水面が、鏡のように空を映している。
飛鳥はその脇で、空を向き横たわり、肩で息をしていた。
風も音もない、深い静寂が、彼女を包み込んでいる。
しかし、しばしの静寂の後、不意にその水面が再び波打つ。
さざ波の中、ゆらりと影が浮かんで広がり、一つの像を結んだ。
——それはノーニャの姿だった。
水面に現れた彼女の姿が、ゆっくりと水底に向かって沈んでいく。
肌も髪も、赤毛の跳ねっ毛も、霧のように溶け、ただの“記憶”に戻ろうとしていた。
「ノーニャ……!」
飛鳥が声を上げた瞬間——自分の内側から、何かがふっと抜けた。
現れたのは、“過去の飛鳥”。
その飛鳥が、一心にノーニャに向かって駆ける。
でも、羽根は震え、足元は揺れ、水面は踏むたびに波紋を広げる。
翼を伸ばす。けれど、指の無い羽根では水面を撫でるだけ。
その先で——
ノーニャの記憶が、泡のように水面に浮かぶ。
狭い路地裏。
空き箱に潜り込む、もこもこの赤毛。
空腹を満たすために盗んだ小魚。
誰にも懐かず、誰の名も知らず、ただ気ままに、気楽に、生きていた。
可愛がってくれる人の膝からも逃げ出し、自由と勝手気ままを選び続けた。
それが、猫だった頃のノーニャ——
誰にも縛られず、けれど、誰からも必要とされなかった自分。
(オイラは……ずっと、そうだったにゃ……)
助ける?守る?
そんな綺麗事、関係なかった。
飢えたら盗み、嫌なら逃げて。
大事なのは、自分の身だけ。
(それが……オイラだったにゃ)
——なのに。
(……どうして、今は……)
沈みながら、ノーニャの胸が軋む。
「みんなと一緒に居たい」
その想いが、胸の奥にある。
でも、それは“猫”だった自分には絶対に抱けなかった気持ち。
“みんなと”なんて、思ったこともなかった。
けれど、今は——
「……いやだ……忘れたくない……ココ姉の事や、飛鳥たちに出会った思い出!オイラが変わったことも……!」
けれど、飛鳥は翼を伸ばすだけで、助けられなかった。
“飛べない”あの頃の自分では、誰かを救えない。
————その時
大きな羽音が、水面に響いた。
もうひとりの飛鳥が、空から舞い降りる。
——“いま”の飛鳥。翼を持ち、風を知った、自分。
「……行こう、一緒に」
過去の飛鳥が振り返る。
その瞳には、涙が滲んでいた。
かつて飛べなかった自分と、ぴたりと重なる。
その翼が——風を掴む。
ばさり、と風が鳴った。
飛鳥はノーニャの沈む方へ向かって真っ直ぐ飛び込む。
その姿は、まるでカワセミのそれ...
その先で——
ノーニャが、ぎゅっと目を閉じていた。
その手を、飛鳥の脚が掴んだ。
「……見つけたよ、ノーニャ」
「っ……飛鳥……」
ノーニャを掴んだこの脚は、過去の飛鳥のもの。
けれど、それを支えていたのは、現在の飛鳥の翼だった。
ふたりの飛鳥が、ノーニャをしっかりと掴み、水面へと浮かび上がっていく。
赤毛が揺れ、跳ね髪が濡れて垂れる。
けれど——そこには、ちゃんと、ノーニャの姿があった。
水面から顔を出した瞬間、ノーニャは涙を拭おうとせずに飛鳥を睨んだ。
「……ばかにゃ。なんで……助けにきたにゃ……」
飛鳥は、小さく笑った。
「ほっとけなかったんだよ……あたしも、みんなに助けられてきたから」
ふたりの体が、そっと寄り添う。
まだ少し濡れたままの頬が、重なり合うように触れ合った。
***
飛鳥は、ゆっくりと息を吐く。さっきまでの息苦しさが、まだ喉の奥に残っている。湿った空気。濡れた羽根の重み。全身の感覚が、じわじわと戻ってくる。
隣で、ノーニャも地面にへたり込んでいた。濡れた跳ね髪が額に張りついて、猫耳風のシルエットがしなびたみたいに小さく見える。
「……はー……死ぬかと思ったぜ……」
ぴくぴくと尻尾が動く。けれど、その声には、いつもの毒気はなかった。
「うん……ほんとに……」
飛鳥も、地面に座り込み、胸の前で翼をたたむ。肩が少しだけ震えているのは、冷たさのせいか、それとも――
ノーニャは、片膝を立てて、じっと目の前の泉を見つめていた。あの“過去の記憶”を写した泉だ。
「……なぁ、飛鳥」
「なに……?」
「オイラ、さ……」
ふいに、ノーニャの声が静かになった。
「……ずっと、自分が何者かなんて、どうでもいいって思ってた。猫だったころのことも、正直どうでもよかった」
「……」
「でも、さっきのアレ……。全部、飲み込まれそうになって……。あの時、オイラ……すごく、怖かった」
飛鳥はそっと、隣に目をやる。
ノーニャは、手の甲で目元をぐしぐしとこすった。
「オイラ、ズルいって思ってたんだ。怖がってるやつとか、泣いてるやつとか。自分では何もせず、助けて貰う事ばかり期待して。見てると、自分まで弱くなる気がして。だから、バカにしてた」
ぽつり、ぽつりと言葉が落ちる。
「……でも、本当は、自分が一番……そうだったんだ。ずっと、怖がってて、でも平気なフリしてて……」
飛鳥は、小さく笑って——ノーニャの肩に、自分の翼をふわりとかぶせた。
その羽毛は、まだ少し冷たく、でもどこか安らぎの匂いがした。
ノーニャは顔を伏せたまま、小さく息を吐いた。
「……飛鳥は、やっぱ、ズルいにゃ……オイラが絶対、言わないようにしてたこと、全部、言わせる……」
「……ううん。あたしも、似たようなこと思ってたから……」
飛鳥は、小さな声で答えた。
ふたりの間に流れるのは、静かな風の音だけ。
泉の水面には、今はもう何も映っていなかった。
***
ふたりの間を、しばしの静寂が包んだ。
泉はすっかり静まり返っている。水面にはもはや過去の影もなく、ただ風に揺れる葉の影を映すばかりだった。
ノーニャはまだ翼の下にうずくまりながら、ぽつりと呟く。
「……変なの」
「なにが……?」
「こんなとこで泣くなんて、絶対イヤだったはずなのに……今は、ちょっとだけ……ホッとしてる」
飛鳥は微笑みかけるだけで、何も言わなかった。
ただ、その気持ちを知っている、と伝えるように翼をもう一度、そっと寄せた。
けれど——そのときだった。
ぴちゃり、と、音がした。
ふたりの傍らにある泉が、かすかに揺れた。
その波紋が、ひとつ、ふたつと広がっていく。
風のせいではなかった。音もなく、そこから泡が、ぼこぼこと、浮かび始めた。
「……飛鳥、これ……」
ノーニャの声が震える。
飛鳥も、とっさに身を起こし、泉を覗き込む。
それは、あの日見た森の小道でも、子どもたちと笑い合った草原でもない。
そこに映っていたのは——
ー血まみれで倒れた兵士。
ー焼け落ちる村の中央、火に追われ焼けていく少年。
ー縋り泣く娘を傍らに、剣に貫かれている男。
ー泣き叫ぶ赤子を、抱き締めたまま動かない母親。
名前も知らない誰かの、絶望の記憶。
「……こんなの……」
思わず、飛鳥が目を背ける。
その瞬間、泉の中から、ひとつの影が這い出した。
まるで水面を破るように、半透明の手が伸びる。
続いて、濡れた髪。焼け焦げた服。表情のない瞳。
「……たすけて」
「おいてかないで……」
「わたしは……ここに、いるのに」
その声に続くように、周囲の無数の水たまりが波紋を広げる。
そこから、次々と“人影”が這い出してくる。
顔のない少女。片腕の青年。泣き腫らした母親。
そのすべてが、手を伸ばし、飛鳥とノーニャの方へと這い寄ってくる。
「……っ!」
飛鳥は、無意識にノーニャの前に立った。
「……飛鳥! これ……ヤバいやつ!」
ノーニャが飛び退くと同時に、指先から爪が閃く。
飛鳥は、強く翼を広げた。
「ノーニャ……逃げて!」
次の瞬間、飛鳥は地を蹴った。
翼で風を切り、空中から地上を見下ろす。
ひとつ、ひとつ——
亡霊の気配が増えていく。
そのとき、足元の泉の縁に、誰かの姿が立ち上がった。
それは——再び現れた、過去の飛鳥だった。
羽根は小さく、顔はおびえて、姿勢もおどおどとしているが。
『……助けなきゃ……この人たち、苦しんでる……!』
——それはまさに、あの頃の飛鳥だ。
誰かを助けたくて、でも、自分の力ではどうにもできなくて。
それでも、ただ差し伸べてしまう、無力な優しさ。
過去の飛鳥は、亡霊たちに向かって一歩踏み出そうとしていた。
まるで、あの影たちの嘆きを、自分の責任だと抱え込むように。
『……置いてなんていけない!だって、誰も、助けてあげなかったら……!』
——そのとき
飛鳥が——"いま"の飛鳥が、そっと過去の飛鳥の前に降り立った。
「……もう、"あなた"が行く必要はないよ」
『え...でもっ!』
「あなたは、ずっと一人で、あの中に飛び込もうとしてた。でも……」
飛鳥は、かすかに笑った。
「ありがとう……でも、もう大丈夫」
過去の飛鳥が、顔を上げる。
その顔は、悲しみに歪んでいる。
「"いま"のあたしなら、もう、飲まれたりしない」
"いま"の飛鳥は、過去の飛鳥にそう告げると、翼を大きく広げた。
その背中には、ノーニャの爪と、飛翔の記憶があった。
だが——そのとき。
ずるり、と、亡霊たちの手が伸びてくる。
地面のあちこちで、水たまりから這い出した“記憶たち”が、今度は明確な敵意を持って、近づいてきた。
「忘れないで……」
「わたしも、ここにいる……」
「おいてかないで……!」
飛鳥は、ぐっと翼を構える。
ノーニャも爪を展開し、横に並ぶ。
「……やっぱり、ここじゃ終われないにゃ」
「うん。あたしは、もう進むって決めたから」
——亡霊たちの波が、一斉に襲いかかってきた。
ノーニャは、一度肩をすくめてから、にっと笑った。
「一匹ずつ、爪痕くれてやるにゃ!」
飛鳥は翼を振るい、空へ跳ぶ。
異界の空に、風のような旋回が走った。
ふたりの少女の戦いが、始まった。
***
亡霊たちが、群れとなって迫る。
引きずるような足取りのものもいれば、空を滑る影もいる。
そのどれもが“人だった頃”の輪郭を保ったまま、しかし中身は空っぽで。
「飛鳥、後ろ!」
ノーニャの声と同時に、飛鳥は翼をはためかせて旋回する。
鳥の爪で影を蹴り、更に宙へと舞う。
爪の軌道に残るのは、飛沫でも、血でもない——ただ、記憶のかけら。
ノーニャは低い姿勢で滑り込み、爪で影を薙いだ。
「こいつら、まともな敵じゃないにゃ!」
「でも……ここで負けたら、きっと抜け出せない……!」
飛鳥の視線が、空間のわずかな揺らぎをとらえる。
空気の層が、どこか“裂け目”のように歪んでいる。
(あそこが……出口……?)
でも、その前に立ちはだかるように、次から次へと湧き出す亡霊たち。
もはや数を数えることもできない。
(……あたしの目と、ノーニャの爪。どこまでやれる……!?)
「いこう、ノーニャ!」
「任せろっ!」
ふたりは呼吸を合わせて突っ込んだ。
飛鳥は宙を舞いながら、視界の死角にいる亡霊たちの軌道を読んで回避し、すれ違い様に鳥の爪で切り裂く。
ノーニャはその間を縫い、風のように駆け、猫の爪で断ち切る。
だが——
「っ……まだ、来る……!」
気づけば、霧のように亡霊たちが地面から這い出し続けていた。
「にゃ〜!!オイラも目が八つくらい欲しいぜ…」
声はなく、ただ“想い”だけが波のように押し寄せる。
——その時。
地鳴りのような低い音が、空気を裂いた。
亡霊の群れが一斉に動きを止めた。
そして、“風”が吹いた。
いや、それは正確には風ではなかった、
巨大な何かが宙を過ぎ去った余波。
次の瞬間——
ドンッ!!と、地響きが走った。
飛鳥とノーニャの目の前、"出口"と二人の間の亡霊の波が吹き飛ばされた。
水滴が弾け飛び、霧のような影が裂ける。
宙を舞う鱗の光。
そして——静かに、白い尾が地面に滑るように現れた。
滑らかに絡む白蛇の胴体。
その上に乗る、細身の少女の上半身。
色のない髪が、風もないのにふわりと流れる。
その目は、こちらを見てはいない。
ただ、亡霊たちの奥を——静かに、静かに見つめていた。
「……去ね」
一言。
その尾が、しなる。
次の瞬間——
地を薙ぐように振られた尾によって、亡霊たちが霧散し、引き波の様に消えていく。
飛鳥も、ノーニャも、ただその光景を見つめていた。
飛鳥は、息を呑んだまま、その名を呟いた。
「……ヤオ、ちゃん……?」
ぬるりと、蛇の胴が再びとぐろを巻く。
その中央に座した白い少女の上半身が、振り返る。
「……おぬしら、よう頑張ったの」
その目は、すべてを見透かしたように穏やかで、峻厳な静けさをたたえていた。
***
夜は静かに深まり、星がちらちらと瞬いている。
季節は初夏へと移り変わり、虫の音と温かな夜風が心地よく辺りを包む。
飛鳥はテントの中、毛布にくるまりながら、ほっと息をついていた。
異界での冒険はようやく終わったけれど、胸の奥にはまだ波のようにざわめきが残っている。
(……でも、無事に帰ってこられた。ノーニャと、一緒に)
そう思いながら、まぶたを閉じようとした——そのとき。
「……さむいにゃ……」
聞き慣れた小声とともに、テントの布がひょこりとめくれた。
「ノ、ノーニャ……? ど、どうしたの……?」
「オマエばっかりぬくぬくのテントと毛布とか……不公平だにゃ!」
そう言いながら、ノーニャはずるずると中へ侵入してくる。
「え、えっ!? ま、待って、ちょ、近っ……!」
「うるさいにゃ……今日は寒い。というか心が冷えてるにゃ……ぬくもりが足りんにゃ……」
あっという間にノーニャが飛鳥の隣に潜り込み、ずぶずぶと体を押しつけてくる。
毛布の下、ノーニャのロケットおっぱいが、遠慮もなく飛鳥のちっぱいをぐにゅりと潰していた。
「う、うぅ……お、押しつぶされてる……!」
「……これは、ちっぱいの宿命にゃ……あきらめるにゃ……」
「う、うそだあっ……!」
飛鳥は顔を真っ赤にしながら、翼で必死に押し返そうとするけど、ノーニャの体温とやわらかさにあっさり包まれてしまう。
「……ノーニャって、いつもは木の上で寝てるのに……今日は、なんで?」
「うるさいにゃ……今日は特別なんにゃ……オイラだって、さっきちょっと怖かったにゃ……それに……」
ぽそり、とノーニャが呟く。
「……飛鳥、オイラのこと、ちゃんと見ててくれた。……だから、そばにいたいにゃ」
飛鳥の胸がきゅっと鳴った。
「……ノーニャ……」
ふわりと翼を伸ばし、そっとノーニャの背にかける。
「……えへへ……」
ノーニャは頬をすり寄せて、甘えるように目を細めた。
「……今だけ、にゃ……」
「う、うん……」
夜の静けさに包まれて、毛布の中のふたりは寄り添い合った。
ロケットとちっぱいがぴとりとくっついて、小さな寝息が重なっていく。
そのころ——テントのすぐ外。
焚き火の名残の赤に照らされて、ロメラが木にもたれていた。
目は閉じているけれど、耳だけはぴくりと動いている。
(……あー……あれはもう……)
ひとつ、ため息をつく。
「ノーニャも...リンドに完全にオトされた……か……」
ロメラはそうつぶやいて、ギターのネックを軽く撫でた。
月が照らすそのテントの中、あたたかな百合の時間がふくらんでいった。
——つづく




