知識の価値
休日の旧校舎には誰もいない。旧校舎どころか、学校の敷地内に、僕ら以外はいない。そういう風に委員長が何かしたらしい。だから僕はなにも心配しなくていい。
ここには、化物しかいない。
僕が旧校舎に踏み入れた瞬間に襲ってきたのは、以前図書室で感じた殺気と同じだった。もちろん、殺気だけではない。襲いくるのは、あの見えない手。
"鬼さんこちら、手の来る方へ"
無邪気な声を、僕はいつ聞いたのだろうか。憂のない、楽しげな声を聞いたのはいつで、記憶にすらない筈の、あの声をどこで聞いたのか。
夕焼けを背にして笑いながらはぐらかすだろうか。それともこの世は自分の支配下だと言わんばかりの余裕の笑みを浮かべるのか。
深呼吸をして、準備に抜かりはないかの確認をする。気を抜いたら僕が喰われる。
友人に、喰われる。
それだけは、もう嫌だ。
真っ直ぐに伸びてくる手は相変わらず見えない。それに対してぼく達が思いついた手段は1つ。
左手から力を抜けば、僕の手の中にあったそれは重力に従って床に落ちる。
瞬間。僕が左側に落とした本が煙のように"消え"た。しかし手が本にふれた瞬間、僕の目には確かに手が映った。
「本当に、"繋がり"は大事ですね」
右手に持っている袋から新たな本を取り出して駆け出す。また新たに伸びてくる手の気配に、僕は本を真上に放り投げる。すると手は僕を避けて本を掴み、本が消えた。本が消えていくたび、手がはっきりとしてくる。見えている時間が増えていく。無駄ではないと確信してそれを繰り返す。途中に隠しておいた新たな袋を拾って、旧校舎三階の渡廊下への最短距離を駆け抜けながら。近づいて行くたびに手の勢いが弱まっているのがわかった。
僕らは確かに化け物だ。だが、"喰事"とは、"欲を満たす"事である。食べ物を食らい続ければ食指も動かなくなってくるように、ただの欲なら満たされれば、その時にそれ以上は求めないものだ。
そしてナツキを満たせるだけの"知識"の量は、小鳥遊さん曰く、1万ページ。
ナツキさんが昼休みに取り出していた本の冊数は違うものの毎回決まって1万ページになるらしい。
大事なのは、ナツキさんが1日に喰らっていた量は最高でも20冊と言うことだ。20冊の文字数分と同じくらいになる本又は論文を用意する事。それから、それ以上に大事で、問題なのは、希少価値の高い"知識"であること。
世間一般に広く知られている知識や、本はダメだ。あまりに普遍すぎる。広く知られていない、誰の目にも止まったことのない知識くらいでなければ、彼女の空腹を満たせない。僕らが探しているのは、僕と彼女の間での共通の知識に成り得る本だ。
作戦は簡単に思いついたけど、餌はなかなか見つからなかった。最終的に司書さんがいくつか論文や本を持ってくれた。……本、というか、製本される前の状態の紙の束だけど。多分委員長からの差し入れ、もしくは追加事前報酬。借りがどんどんでかくなっていく。けどもう、そんな事を気にしている暇なんてなかった。僕はそれらを読み込んだ。読むだけじゃダメのをわかっていたから。理解して、"知識"にしなくちゃいけない。僕はみんなと違って、"知識"を喰べることは出来ないのだから。
僕が読んだ論文を合計1万ページの複数本にする。論文2本くらいなら、3日あれば僕でも読み込めた。どうやら本のほかにそれが混じっていたのは、本のページ総数を補うと丁度一万ページになるように、用意されていたそうだ。委員長は、最初から知っていて用意していた気がする。だとするなら、今回のナツキさんの暴食も、全部分かってた?予想がついていて、準備もしていて、なのに……僕がくるのを待ってた?何度目かの疑問だった。けど、ようやく僕らは作戦を実行できる。
本を通して、僕はナツキさんと"繋がれる"。
そしてナツキさんが喰べれば喰べるだけ僕との繋がりは深くなる。喰事をやめた時には、彼女は満たされているはずだから他人を襲うことはないし、僕との"繋がり"のお陰で飢えが満たされている事を理解するから、僕を喰らうことは、多分ない。知識とは共有できる誰かがいて初めて知識として扱われる。その論文や本が僕を含めた本当に僅かな人間の知識であると、散々"知識"を喰らってきた彼女なら分かるだろう。
優しい彼女は、僕以外の人間を殺したくないから、僕を殺せない。
「ごめん、ナツキさん」
夏も目前の、夕暮れ時。
昼と夜の境目が、丁度ぶつかり合う時間。
僕は渡り廊下の真ん中に立っていた。もちろん、旧校舎の東棟に向かって。そして扉の前には、1人少女が立っていた。
有村夏希。一見穏やかに見えるが、その瞳はどこまでも虚ろで、以前の様な前向きな光りはどこにも感じられない。
「ねえ、ソウマ。世界って残酷だよね。誰のためでもないって理不尽を振りまくくせに、ひとり甘い汁を吸って生きてる人もいる」
「ナツキさん。話をしよう」
「余裕だね?一応言っておくけど、私はさっきまであなたのこと殺そうとしてたんだよ」
食料として喰べるという対象どころか、やはり肉片も残らず苦しんで死ね。というくらいには憎んでいるらしい。
僕には、…ううん、今の、僕にはわからない話だけれど。
「僕は、無力なんだ。
臆病だし、けど自分が被害を被るのだけは許せない狡い奴。
君を救えないし、もし出来たとしてもそれは多分、君を余計怒らせるだけなんだろうなとは、思った。
だからって、助けたいと思わなかったわけではたぶんないんだ。
繰り返すけど、僕には力が無い。
でも欲張りで、自分の命も惜しいし、君という友人を失うのも嫌だ。
だから、救われて欲しい。自分自身で」
「なにを、いって…?」
夏希さんが僕を間に挟む形で自分と反対側の渡り廊下の橋にいる人物が小鳥遊さんだと気づくのと同時に、わざと開けておいた窓の外から2名ほどが姿を見せてくれ、あっという間に夏希さんを後ろでに拘束、目隠しをした。
僕らは"喰事"の時にいくつか条件があって、その1つが目視にあたる。暴走している場合はそれに限らないけど、ナツキさんは今、満腹の状態。暴走状態には程遠い。憎しみを募らせるという手もあるが、小鳥遊さんがいることによって"なにも感じられない"状態だ。
そしてここまでして漸く僕らはまともに話ができる。
「君は、君の手で君を救う。
そのために、僕らに協力してほしい」
「はあ?」
「風紀委員長について、知ってる限りのこと全部教えてほしい。
君が僕を恨んでいるのは分かった。その原因も何となくわかった。
でも、その記憶が僕にはない。
この世界のどこにも、その証拠も根拠も何もないんだ」
「……本当に、君は私の神経を逆なでするのが好きだよね。
そんな風にいうくせに、"記憶"がないとか馬鹿にしてるの…?」
「そのつもりもないし、"記憶"がないのは確かだよ。それは君の方がわかってるんじゃないかな」
苦々しい笑みを浮かべて、ナツキさんは溜息をついた。
「似てるのは、過ごした時間の差なのかと思うと、羨めばいいのか、憎めばいいのかもうわかんないや……。まあ、時間があったところで、私はそうはなれないけど」
抵抗するのは、やめたのか。工藤と冬馬が拘束をといた。
「ナツキさん」
「……知ってることは、ちゃんと話す」
目隠しを取った彼女の瞳は先程とは違う、僕を友人と呼んだ彼女のものだ。憑き物が落ちたかのように、落ち着いている。
「"存在しない"記憶について」
彼女が語ったのは、逃亡の記憶。まさに逃げて喰われるまでのショートフィルムのような話。繰り返し繰り返し起きたはずの出来事。
しかし、"存在しない"記憶の話だった。
【Memories】
蝉の声もまだ消え切らないころ。
1人は大きな輪の外から、彼らを見つめていた。
輪の中心にいるのは、2人。野球帽の少年とマネージャーの少女。2人連れ立って校舎裏に入っていって暫くして、手を繋いで戻ってきて、いまの状態だ。他の部活のメンバーに取り囲まれて照れ臭そうにしている。
ああ、嬉しそう。同時に感じるのはチクチクとした何か。
あの2人を見ていると?…ううん。違う。あの周りも、みんな含めて。見ているのが、とても苦しい。苦しいのに。私は見るのをやめられない。
マネージャーの子が私に気づく。嬉しそうに手を振る。私も嬉しそうな顔を作って、おめでとうと言いながら、祝福しながら絶望を続ける。
ああ、なんて不毛な時間。
私の大好きだった幼馴染と私の友人を祝福する。その時浮かべた笑顔が偽物だなんて誰も思わない。誰も私に気付いてくれない。でもそれは自業自得の末の話だから置いておこう。
割り切った上で、私はあの子が羨ましい。何も知らない友人が羨ましい。彼にとっての特別でいられる彼女が羨ましい。
そして行き着くのはいつも同じ。
化け物じゃない彼女が、羨ましい。
化け物じゃない彼らが羨ましい。
私はどうして、こうなってしまったんだろうか。
下校時間を過ぎて教員に帰るように諭され皆が門の外へと抜けていく。私もそこに合流しようとした。流されて生きようとした。
そんな私の目に飛び込んで来たのは、見たこともない少女。多分その人は憐れみを持って言った。
(…もしかしたら、それすらもないひとり言だったのかもしれないが)
「もう少し素直に生きていれば、化物にならずに済んだかもしれないのに」
それは異様だった。門を抜けていく学生の隙間を逆行してくる。うちの制服を着た女子生徒。でも誰も気付いていない。誰も彼女の言葉を聞いていないし、話しているはずの学生達の声も聞こえない。まるでその存在が世界から切り離されてでもいるみたいに。私にだけ、見えているようだった。
私とは違う、いい子で居続ける私なんかとは違う。強くて眩しい人。
強すぎるその印象の前に先程までの憂鬱などは煙の如く消え去っていた。私はその人に手を伸ばそうとして、そして
「先輩」
意識が戻ってくる。音が帰ってくる。雑音とか夏の暑さとか、そういったものがすべて。
「…ほたる、ちゃん」
いつもなら絶対に近寄って来ないクールな後輩がまるで私をそちら側から意識を引き戻すように手を引いた。体温の低い彼女の手は心地よいように思えた。
まずい。と、キョロキョロと周りを見て、あの女子生徒を探してみるがもうどこにも居ない。
「門、閉まります」
「え…あ、うん。そうだね。いこっか」
どうかしましたかと聞いてくる彼女が私に近づいてくるなど珍しいのに不審に思われるのは嫌なので、ほたるちゃんから声かけて貰えるの嬉しいなぁと笑って見せれば分かりやすく顔を反らした。この子に私は嫌われている。少なくとも、良くは思われていない。それでも私を連れ出すためか手は離さないし、珍しく話を聞いてくれているらしい。外に出ると手が離された。ほたるちゃんの家は学校の北側、私は南側なのだ。ここで今日はお別れだ。
「幼馴染の方、随分能天気ですね」
「え」
「失礼しました。クズですね」
いや、さっきよりひどくなっているような気がするのは気のせい…?
「……怒らないんですか」
「え?……そう、ね。ええっと……」
なんでかは、わからない。けれど、もう何とも思わなかった。今までなら少なくともそんなことないよと言って、1つ2つ思い出話でもしているところなのに。その状態の私に、後輩はどこか満足げな気がする。
「じゃあ、先輩。また」
「ええ。気をつけてね」
話は終わったと言わんばかりに、彼女は背を向けて帰っていった。
【Memories Ⅱ】
昼と夜の境目を私は彷徨っていた。
右には夜が、左には昼が広がっている。背中を預けた屋上の錆びたフェンスが軋む。焼け付くような喉の渇きを誤魔化すように、手元の容器に入った水を飲み込んだ。
無駄と分かっていても、繰り返していれば満足するかもしれないじゃないか。ただそれだけの惰性で繰り返している作業を今日も行なっている。
見下ろす世界はまるで作り物。いや、実際作り物ではあるのだが。この地球上に、手を加えられていない場所なんてない。日本の、学校なんていい例だろう。建物も、指導方法も、何もかもが人工物。
「全部、作り物だ」
何もかもが、作りもの。
この私でさえも、この世にうみ出されたものでしかない。
"あの子"が目を覚ましてくれたら、こんな現状も多分変わるとは思うけれど。
見下ろす校舎の一角には、つい先日成立した1組のカップルと、部活動の仲間、そして不自然には思われない程度離れて歩く少女がいる。
少女は何を思うのか、少し前を行くカップルを見ている。意思もなく。ただ、夢でも見ているように。
カップルの男子を見る目には、数日前まではたしかに恋慕が滲んでいた。いまではその影も無いから、多分喰われたのだろうなと思う。だから、彼らを見つめているという事は、それ以外の感情があるということだ。
それにしても、そんなにも羨ましいと思うのなら、"喰って"しまえばいいのに。
「お人好し、優しすぎ……なんだろうね?」
どう思うー?と屋上入り口に先程から何か言いたげなのに無言で佇み、堅物そうなイメージにさらに威圧感を漂わせた人物に問う。
彼は不機嫌を隠そうともせずに逆に私に問うた。
「彼女に、何かしたのはお前か」
問うというよりは、余りにも断定的過ぎた。けれどその言い方は真っ直ぐで、誤魔化す余裕がないのか、そもそもオブラートに包むような物言いをする人間ではない可能性を感じさせる。
まあ、正直に応える気は勿論ない。
「彼女、が誰を示しているのか分からないけど……それを聞いてどうするの?
元に戻せ、とか言わないよね」
だってその方が君には都合がいいでしょう?と笑って見せれば、少し眉間にシワを寄せた。
「犯人を見つけて、問い詰めれば元に戻ると思った?
原因を排除して元に戻せば、誰かの為になるとでも?
……馬鹿馬鹿しい。身勝手で傲慢な考え方だ」
自分でも自覚のあるくらいには、他人を不快か不安にさせるような毒々しい笑みを浮かべている。蝕むように、私はただただ、愉しそうに。
でもそうして、危険か厄介という印象をつけないと。どうやら彼は無意識に私を見つけあまつさえ話しかけるという、"ありえない"行動を取ってしまっているのだから。
それに気づいて、ふと、ある事に思い至って私は浮かべていた笑みを思わず納めていた。
「……そうか、きみ、もしかして…」
"恐怖"を感じ取れない人間か。もしくは"恐怖"しないが故に、"弱者"を理解できない化物、と言える。
歴とした、我が同胞。
「へぇ…。いいね。
気が変わった」
背と共に体重…私自身の命すら預けていた老朽化の進み過ぎたフェンスから自分の体を取り戻して、両足でしっかり立つ。
私のことを敵だとでも認識しているのか険しい顔に、あたらに笑みが浮かぶがそれをわざわざ隠す気もない。
「私はミカド。普段はここにいる。
君がもし気づかずにいたいなら二度とここへは来ない方がいい。
それにこの状況は本来なら君にとって都合のいいものだろう?変えたいとするならそれは君がかなり卑屈で、自己保身ばかりの人間だということの証明になりかねない。
…だがもしも、君が知りたいというのなら私は止めない。
知識欲とは人間の根本だ。
私は貪欲に知識を求める君を肯定しよう。君の存在を肯定する」
「なんの、話だ」
「知識の話さ。君は私に辿り着いて、少し他より周りをよく観ているか知っているという優越を持っているようだから、それを砕いてやろうと思ってね。
君は無知だ。
学問的知識も、常識的知識も、心理的知識や未来的知識も無い。
ただ恐怖しないだけ。
君が私の手足になるなら、私は君に確かな恩恵を与えるよ。
知識と、居場所と、存在を。
ただし、これはどんな事にも言えるけど、一度知ったら知らなかった頃には戻れない。
違和感がいつまでも君を取り巻いて、死ぬまでそれを自覚し続ける。
人によっては地獄かも。まあ君は"恐怖"が欠けているから、あまり問題ないかもしれないけれど。
さて、珍しく饒舌な私の警告はここまでとしよう。
いったいどちらに転ぶのか、楽しみにしているよ。……篠遠くん」
夕陽は落ちた。温度のない夜の深い青だけが広がっている。
ここからは、化け物たちの時間だ。彼はまだこちら側だと気付いてすらいない。ならば引き摺り込むわけにはいかないだろう。無知と無自覚は迷惑しか生まない。私は彼がどうするのか、気長に待とう。
逃す気なんてないくせに。と、誰かが頭の中で囁く。
愉しそうに笑う。
彼を認識して、嗤う。
固まったように動かない彼を横目に私は屋上から去る。何故彼は私を呼び止めなかったのかって?
あら、そんな出来事あったかな?そもそも彼とは誰だろうね?
そんなできごとがあったとしても、その記憶や記録が"存在していない"のだから、私にとっては何の事やら。
「ごちそうさま」
思わぬおやつに感謝して、私は階段を下って行った。
【Memories Ⅲ】
初めて会った時から、報われないのは知っていた。
彼女も、自分も。
一方通行の想いを、持ち続けた。
俺の友人の幼なじみという肩書きの彼女は、高嶺の花と言われてもおかしくない人だ。
例えば、容姿。
一度も染めたこともなく、常に綺麗に整えられた黒い長髪。
対照的な健康的な白さの肌。垂れ目がちな目元と、控えめに浮かぶ笑み。
入学当初から、校内の美人番付には必ず名前を連ねた。
例えば、学力。
常に上位3位以内の成績を収め、学力特待生として名を刻んでいた。
例えば、その立ち居振る舞い。
誰から誰まで親切に。それがまるで彼女の中の規則だとでも言うように、花の水やりを忘れられた花壇があれば何も言わずに水を注ぎ、終わりの見えない書類作成があれば通りかかって暇だからといい手伝って何事もなかったように帰って行く。
息をする様に重ねる善行。
その相手が、自分にとって害が無いなら。
まるで身を切って与えるだけの毎日を、彼女は静かにこなしていく。
そんな人を、俺は最初は嫌悪した。
嫌悪、というよりは戸惑ったと言った方が正しいかもしれない。少なくとも、今はそう思う。兎に角、今までに出会ったことのないタイプの人間だった。
俺の周りはいつも身勝手な人間ばかりだった。
父親は外務省の海外職員のため、母親は小学校に入学するまでは、ほぼ一人で俺を育てていた。…というか、親として最低限のラインを、家政婦を雇うことで果たしていた。
単身赴任で連絡も生活費の振込のために1ヶ月に一度寄越したらマシな父親に対して、愚痴をこぼし、酒を煽る生活は、小学校入学を皮切りに悪化して行った。
…元々苛烈な人だったらしい。父は別に母に対して情はなかったが、母の方が言っていたらしい。人の格とやらはぴったり。だから結婚したと言っていた。…ある日突然現れた母親の元恋人がそう言った。
酒と、タバコと、いくつかの香水の香りに、すぐに母と同種の人間だということには気付いた。
小学校高学年になる頃には、母親は居なくなっていた。家の中からだけではない。戸籍からも消えていた。知らない間に離婚が成立していたそうだ。
俺はそれに対して、何とも思わなかった。恐らく、父も。
父は父で、冷徹という言葉がよくにあった。感情らしい感情が見えなかった。冷淡で、現実主義、効率主義。
合理的主義の怪物。
父親と母親の繋がりが切れた所で、俺の生活に変化は特になかった。
両極端な親の元に産まれた俺が、厄介なことに両方の気質を継いだのだと気付いたのは、中学に上がってすぐだった。
まだ父親似で感情が見えない人間だと思っていた頃。入学して比較的仲良くなった男子生徒の幼なじみの存在を知った。高嶺の花だった。
容姿頭脳共にトップクラス。人間的にも良くできた人。寄ってくる人間もピンからキリまであったが、彼女自身、冷静で、人を見る目もある。なのに、彼女の交友関係の中には、当然のように俺の友人になった男…幼なじみがいた。
まず、その事に苛立った。
今まで散々彼女に甘えて生きてきた。かといって、彼女が困って居る際に助けたりはしない。それでも彼女は見捨てたりしない。というより、見捨てられない。
ありがちな話だ。彼女は幼馴染の事を慕っているのだ。救いようのない程に。自分に気持ちが向くことはないと知っていて、それでも離れない。
何て愚かなのだろう。なんと無駄な時間だろ。
なんて馬鹿らしい。俺は、許せなかった。凛とした花のようなあの人が、こんなにも馬鹿げた事をしている事も、何もかもが。
その理由に気づいた時、自分は、自分の方が彼女に相応しい人間だと思っている事に気付いた。
自分は、無意識にも、母親と同じ感覚を持っている事に。
思わず、笑ってしまったほどに。
けれど何も思わなかった。他に抱くべき感情があったのかはわからない。だが、その感情が無いことが、俺の今を作っていることも分かった。
彼女は、人を見る目がある。
それはつまり、俺がどんな人間か、わかっているのだ。
「……嫌気がするほど、似てますよ。先輩方は」
後輩に言われた一言は、やけに納得いった。
彼女が幼なじみを諦めきれないように、俺もまた分かっていても諦められない。自分勝手な人間。
そう理解して、やっと俺は彼女を肯定出来たのに。ある日それは失われた。
唐突に彼女は幼なじみを想う感情を失った。
そして見えた本質。
彼女が、想っていなくても、幼なじみを思っているのだと。わかった。
俺は、どんなに足掻いても、思ってすら貰えないのだと。
分かってそして、それでも俺には、その感情を捨てる事は出来ない。
似ているようで、全く違う。
だから、動いた。
そうして俺は、化物の存在を知った。
【Memories Ⅳ】
「馬鹿だねぇ」
その人は、お気に入りのソファーに深く腰かけて、いつも通りに紅茶を片手にもう片方の手ではサイドテーブルに乗せた本のページを捲り、視線は文字に向けたまま、悪びれもなくそう言う。
「喰べる相手、間違えてるよ?」
「……心にもない事を、言う必要はないと思います」
瞬きの間に、文字を捉えていた眼は私に移って、お茶を飲み込んでいた口元は、わかりやすく弧を描いていた。
私が間違えたなど、カケラも思っていないのだろう。実際、私は間違えていない。…はずだ。
「誰の気持ちがどこへ向いているかなんて、君は見ればわかるだろう?」
「……それは貴女も同じでは?」
「私に人間の感情の機微なんて分かるはずないだろ?」
「……散々"喰べ"続けてきた貴女が"分からない"筈が無い」
態とらしく肩をすくめて、飽きたとでも言いたげに、ソファーの肘掛にそれぞれ背中と膝の裏を預けてだらしなく寛ぎ始めた。この人はいつだっていい加減で暇を持て余しているようにしか見えない。その分彼女の手足は見かけるたびにいつも動き回ってる。多分同じ場所に5分以上居ないんじゃないか。
「本当に彼女が嫌いなら、何で彼女の方の心を食べたりしたのさ」
「……嫌いだから、最も大切にしてるモノを奪ったんですよ」
「なるほど。だから"彼"の方は喰わなかったわけだ?
君が彼女から喰った事によって、彼は自覚したくなかった事を嫌でも目の当たりにして気付くだろうね。多分そこまで鈍い男じゃないからさ。…そして、傷付くんだろうね。
そりゃ愉快だね。嫌いな女からは大切なものを奪い、好いた男には苦しみを与える。
実に人間らしいじゃないか」
「撤回して下さい」
ただ事実を述べたあの人は、悪びれた様子も全くない。
「私が誰かを"好く"事はありえない」
「……そうかなぁ?」
「…私が、何であるかは貴女がよく知っているはずです」
訳が分からない。この人は言ったはずだ。初めて会ったその日に。
『"恋心"を知らないが故に、他者の"恋"を喰らう君は、いつか"恋"をした時、その存在意味は消えてしまうのかな?』
"恋"を知らないが故にに"恋"を喰らう化物が"恋"をしたら?そんな事が起きたら、化物は"恋心"を喰えなくなる。そして死んで行く。
「私が誰かに恋をする事は、化け物である限りありえない」
目の前のこの人は、やはり楽しそうにいう。
「好きと恋は等号で繋がるかな?」
「世間一般的にはそうだと思いますが?」
「愛情に関しては追っていけば好きにたどり着く。恋もたしかに好きの延長線上にあるのだろうね。
好きを向ける相手でそれは愛か恋かに変化する。
変な話だよねぇ」
「何が、言いたいんですか」
「私は君に会ったとき、確かこう言ったね。
"恋心"を知らないが故に、他者の"恋"を喰らう化け物。と。
思うにね、君は恋や愛を知らないのさ。だから知るためにそれらを喰らう。それらを望む。渇望する。
分かるかな?
君は好きを知ってる。けど、君の中には好きというレールだけが存在していて、駅がないんだよ。行き着く先がない。ただそれだけ」
失礼します、と去って行く背中に最後に一言だけ投げかけた。
「辿り着けることを祈っておくよ。君が途中で力尽きてしまう前に」
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化け物は1人、定位置となったその椅子に腰掛けて、部屋の中を見渡した。
14の椅子が、彼女からは見えている。うち13の椅子は何かしらの私物が置いてあり、そこが空席ではないことを示している。
残りはあと一席。
最も埋める事を望んでいた、たった1つの椅子。
そこに座る人間が誰か分かっていて、だからこそ、開けたまま、待ち続けた。
何度埋めてしまいたい衝動に駆られた事だろうか。それでも我慢して、我慢して、我慢して苦しんで、やっと、その時がきた。
揃えるべき、揃うべきが何なのか分かっている以上、それ以上に大事なことは、埋める順番に他ならなかった。
だから、そこは一番最後にしなくてはならなかった。今度こそ、"存在し続けること"が出来るように。




