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外伝 彼岸と椿

椿の始まりの物語です。江戸に来る数年前です


 白銀の世界が広がるこの場所で目を閉じるとあの時の光景が脳裏に浮かぶ。


 真っ白な地面に零れた真っ赤な血。元は人間であったそれは今ではもうピクリとも動かない。

 俺の荒い呼吸に合わせて白い息が空気に溶け込んでいく。心臓がどくどくと身体に響いている。

「最初はこんなものか。まぁ一人でやり遂げたのだから合格といったところか」

 その言葉に俺は胸を撫で下ろした。

「後処理の事は小太郎に聞くといい。頼んだぞ」

「はっ!」

 小太郎がすぐ側に来て足元の死体をどう処理しようか眺めている。あの人はもう既に背を向けて歩き出している。興味があるのかないのか……。

「もう少し血を流さぬよう仕留めましょう。後処理が面倒になります」

 小太郎は死体から目を離さずに言った。俺は、あぁ、とだけ答え空を見上げた。雪がちらちらと降ってきた。目元に落ちて溶け、それが涙のように下へ伝っていった。





 朝起きて障子を開け放ち縁側に出ると、冬の気配を含んだ風が肌を撫でていき身震いをする。腕をさすりながら朝日を浴びれば陽の暖かさを感じ、体の表面がじんわりしてくる。

 目の前に広がる世界には赤や黄が増えており、緑は差し色として映えている。陽の光を浴びている場所はより鮮やかに彩られ、赤色は朱色に、黄色は黄金色に変化している。

 眩しさに少し目を細めてしまう。

 どこかの木に鳥がいるのか小鳥特有の高い声が耳に届いてくる。


 そんな朝の空気を感じていると、風に揺れる葉音に交じって茶器がぶつかる音がした。


「おはようございます。姫様」

 茶器一式を乗せたお盆を持って女が一人声をかけてきた。女中のおつうだ。


「おはよう」


 起き抜けの掠れがかった声で挨拶を返す。

 そのまま縁側に腰を下ろすとお通が手慣れた手つきで茶を入れてくれる。草木の香りに混じって茶の香りが鼻腔をくすぐった。体がその香りを求めているのか、喉が張り付いたように乾きを訴えている。


 私は黙ってその湯呑みを両手で持つ。

 湯呑みからぬくもりが手のひらに伝わってくる。冷えていた指先にまで血が通っていくのを感じながらそっと口に引き寄せていくと湯気が鼻を包み込む。

 中身を口に含むと苦みが広がり鼻に香りが抜けていった。喉を通るとほのかな甘みが残る。

 そして心の臓に灯がともり、その灯のぬくもりが全身にじわじわと広がっていくのを感じる。


「父上と兄上は?」


 お通に視線を向けると、いつもの柔和な笑みを崩さず「昨夜はお帰りになりませんでした。先ほど部屋を確認しましたが戻った様子はございませんでした」と言った。


「そう……」


 いつものことだ。父上がどこで何をしているのか私にはわからない。兄上も最近は父上と行動を共にしているようで会話らしい会話をしたのはいつだっただろうか。


 物心ついた時にはもう母上はいなかった。いつも身の回りの世話をしてくれていたのはお通だ。

 父上はこれをしろ、あれをしろと習い事を次から次へとやらせてくる。

 小さい頃一度だけ反発したことがあったが、あの冷たい視線で睨まれ萎縮してしまい「ごめんなさい」と小さな声で謝罪した。

 黄金色の瞳に切れ長の眼。鷹のような眼だ。

 笑った顔は見たことあるが優しさは感じられず『不敵な笑み』とでもいうのだろうか。


 それとは正反対に兄上は丸くて優しい眼をしている。

 昔から私にお菓子をこっそりくれたり、遊んだり、ご飯を一緒に食べたりしてくれた。

 それも最近はない。父上と行動するようになってから人が変わったように笑顔は消えてしまった。


「姫様。本日は茶道と華道の先生がお見えになります。朝餉を用意してございますので召し上がってください。その間にお召し物の用意をしておきます」

「ありがとう。今日はあの柿色の着物がいいわ。秋らしい色味の方が先生方も喜ぶでしょう」

「かしこまりました」

 お通がすっと立ち上がり去っていく。

 お茶を飲み干し、一息ついて私も立ち上がる。もう一度庭を眺め、諦めたように朝餉のある部屋へと足を進めた。





 茶道、華道と習い事をこなして気づけば日も傾き始めている。

 自室に戻りやっと解放されたと緊張を解いた時だ。廊下から足音が聞こえる。こちらに向かっているようだ。

 私は居ずまいを正し、障子が開かれると同時に指先を膝の前につき頭を垂れた。


「おかえりなさいませ父上」


 開かれた障子の前には父上が立っている。こちらを見下ろしているのだろう。威圧感を感じて手が震えるのを必死にこらえる。


「支度をして道場に来なさい。今日は小太郎が相手をしよう。」

 それだけ言うとさっさと行ってしまった。返事も聞かずに行ってしまうとは。いつものことながら勝手だ。





 袴姿で道場に向かうと父上と小太郎がいた。小太郎は父上の側近だ。寡黙で細身だが剣の腕は確かだ。

「姫様、早速始めましょう。木刀を持ってこちらに」


 私は壁に掛けてある木刀を手に取り小太郎の前で一礼、そして構える。父上は入口付近に腕を組んで立ち、じっと見ている。


「やあ!」


 小太郎に向かい木刀を振り下ろすがあっさり弾かれてしまう。何度も何度も向かってみるが簡単に躱されてしまう。隙を見つけては掛かっていくがその隙も誘われているような気がしてならない。遊ばれているようだ。

 肩で息をする頃には父上の姿は見当たらなかった。


「姫様、一本くらいは取ってください」

「そう言われても…小太郎も少しは手加減してくれても……」

「姫様の為にも手を抜くことなどできません」


 小太郎はそういうやつだ。真面目で実直。頑固ともいえる。





 あれから一本も取れなかった。体力が限界を迎えて稽古は終わりとなった。

 痛む体を引きずるように湯浴みに向かう。お通が着替えの準備をしておいてくれたのだろう。脱衣所に丁寧に畳んで置いてある。

 袴を脱ぎながら体中の傷や痣を確かめていく。以前の稽古で付いた痣もまだ残っているというのに今回もまた新たな痣を付けてしまった。


 湯船に浸かると傷口が痛む。まるでお湯が傷口を突き刺すようだ。顔を顰めながら浸かっているとだんだん痛みにも慣れてきてお湯の温かさを心地よく感じるようになった。

 秋になり空気が冷える。そんな時に入る風呂は格別だ。体の表面から内側へとじんわり温もりが染み渡っていく。


「はぁ……。父上は私に何をさせたいのだろう……」


 独りごちる。湯気がゆらゆらと上っていく。


 茶道や華道、琴や舞の稽古もさせられている。女の嗜みといわれる事は全て行っている。それに加えて剣の稽古。これは女の嗜みではなさそうなのに……。

『何を考えているのか分からない人』というのが父上に対する印象だ。





 湯浴みを終え、部屋に戻る途中で兄上に会った。久しぶりに顔を見たが、目が虚ろなように見える。

「兄上、おかえりなさい。お勤めご苦労様です」


 丁寧な挨拶、そして笑顔も絶やさないよう振舞ったが、兄上は顰め面をしている。

「あの……? いかがされました?」

「稽古でまた傷を作ったと聞いた。小太郎は加減を知らないから仕方ないとはいえ少しは上達せんと父上に愛想をつかされるぞ」

 無表情で淡々と言われた。

「精進いたします……」

 そう素直に言えば兄上が何か言いたげな顔で見てくる。首を傾げてどうしたのかと問えば「いつかお前にも分かる。父上が何をしているのか。何をお前にさせたいのか。俺は妹であるお前にやらせるのは反対だがな」と答えた。

「反対というのは……どういうことですか?」


 兄上の目が泳いだ。


「と、とにかくだ。剣の腕は磨いておくに越したことはない! しっかり励めよ!」

 そう言って兄上は去ってしまった。ポツンと残された私の中にはモヤモヤしたものが残った。





 庭の木々もだいぶ葉が少なくなってきた頃、今日は朝から雨だ。しとしと降る雨。赤や黄色の絨毯は華やかなのに空は灰色。それはそれで華やかさが際立つからいいのか。

 そんなことを考えながら繕いものをしているとパタパタと廊下を走る音がする。そして部屋の前で止まったかと思えばお通が息を弾ませながら声をかけてきた。

「姫様! 急ぎ旦那様の部屋へ!」

 私はお通とは正反対にゆったりとした足取りで障子を開けた。お通は顔面蒼白。これは相当な事が起こったのだと思い、落ち着かせるようにお通の肩に手を置き頷いた。





 部屋の前に座り中に声をかける。

「父上、お呼びでしょうか」

「入りなさい」

 不安と緊張を携えて障子を開け中に膝をすり入れる。顔をできるだけ伏せたまま体を横に向け障子を閉める。そして再び部屋の主に向かって頭を垂れ、そこでやっと顔をあげる。

 そこにはいつも通りの父上が姿勢よく座っている。そしてその前には布団の上に横たわる何かがあった。

 横たわるそれは恐らく人間であったもの。その顔には白い布が被せられている。

 父上は私を一瞥し、横たわるそれに目を移した。自分で確認しろとでも言わんばかりに。


 私はそれに近づいてゆっくりと白い布を捲った。そこには青白い兄上の顔があった。一瞬息が止まった。手が震えるのを堪えて、暫く兄上を眺めてから布を元通りに被せた。

 少し間があり、父上は口を開いた。


永秀ながひでは死んだ」


 兄上が死んだという事実をまだ実感していないのか、はたまた死んだのは当たり前だと思っているからなのか、不思議と私の心は穏やかだ。揺らいだのはさっきの一瞬だけ。

「心の臓を一突きだ。呆気ないものだ。己の身も守れず、返り討ちに合うとは情けない。そうは思わんかね?」

 顔色ひとつ変えない父上に問われても何も返せない。


「永秀が死んだとなれば次はお前がやらねばならない。私も歳には勝てない。次の後継者を作り上げていかなければならないのだ」

 私はなんの事だか分からないまま黙って聞いている。


「後継者になりなさい。今からお前が兄の代わりだ。いいかね? 椿」


 どきっとした。あまりにも久しぶりに自分の名前を呼ばれたからだ。お通も小太郎も『姫様』と呼ぶし、兄上も父上も私の名はあまり呼ばない。

「はい」

 ただそう答えるだけで精一杯だった。





 その日から剣の稽古が増えた。朝から晩まで稽古をすることもあり、木刀を握らない日はなかった。それと同時に、異国の文字の扱い方、夜陰に紛れる方法、暗器の扱い方、各地方の話し方を習った。私はただ、目の前に山積みにされる課題をこなすことだけを考えていた。

 そして雪がチラつき始める頃には小太郎から何本か取れるようになっていた。そして私の記憶から兄の笑顔が消えていた。





 ◆◇◆


 火鉢に当たりながら旦那様は私に問う。

「あれはどうかね?」

「はっ! そろそろ良い頃合いかと」

 私は姫様の腕前がみるみる上達しているのを実感している。恐らく充分通用する域に達したと思う。

「ならばあれにやらせてみるか」

 旦那様は不敵な笑みを浮かべて紙片を私に差し出した。それを両手で受け取ると中身を確認し懐にしまった。

「私の補佐という形でよろしいでしょうか」

「いや。あれ一人にやらせてみるとしよう」

 その言葉につい驚いてしまい、えっ、と声を発してしまった。


「あれには兄には無い特別なものが宿っている。この私に似たところがあるのだよ。血は争えないようだ」


 不敵な笑みを絶やさず心底楽しげに話す旦那様に背筋がゾクッとした。まるで刃を喉元に突き立てられているような感覚だ。このお方には姫様がこの先どうなっていくのか視えているのだろう。

「仰せのままに」

 私は部屋を出て逃げるように姫様の元へ向かった。





 姫様の部屋の前で声をかけると短く入室の許可をいただけた。

 障子を開けて中に入る。姫様は窓辺近くに座り庭を眺めていた。その横顔は数ヶ月前とは違い、大人びていて素直に美しいと思ってしまった。旦那様と同じ黄金色の瞳。

 全て見透かされてる様な感覚に囚われて息を呑む。こちらにゆっくりと顔を向け私の言葉を待っている。


「旦那様からこちらをお預かりしました。今夜お一人で、との事です」

 先程旦那様から受け取った紙片を渡す。姫様はそれを受け取り中身を眺めながら、そう、とだけ言った。


「その場へは私がお連れします。その先はお任せ致します。何か必要なものがあれば承りますが」

「いいえ。大丈夫です。よろしくお願いします」

 あぁそうか。姫様も兄上様と同じなのだな、と思った。





 月が高く上る頃、私と姫様は現場に向かって雪の中を歩いている。そして対象が居るであろう場所から少し離れた林の中で足を止めた。

「姫様、準備はよろしいですか」

「ええ。問題ありません。小太郎はここに居てください。手出しは無用」

「はっ!」


 姫様は袴姿でたすきを掛け、髪を一つに結い、口元と鼻を布で隠している。腰には兄上様が使っていた刀を携えている。はたから見たら若い男侍と思うだろう。女子とは思わない。


「小太郎」

 突然名を呼ばれ、ばっと顔を上げた。


「兄上はなぜ失態を犯したのでしょう」

「兄上様は……失態など犯しておりません」


 姫様の「そう……」という返事が静寂に溶け込んでいった。


「松永家としての宿命……なのですね」

 私は答えることができなかった。


 空を見上げたまま、姫様は凛とした声を私に向けた。


「今までありがとう。兄上のこともこうやって助けてくれていたのでしょう? でももうその役目も終わりです。私が向かったらすぐにここを去りなさい」


 何を言われたのかさっぱり理解できない。

「姫様。何を仰います。私はこの身が朽ちるまで旦那様と姫様にお仕え致します」

 主人に仕えると決めた時からその気持ちは変わらない。主従関係とはそういうものだ。


「姫様……か。もうその呼び方はやめましょう。今からは『彼岸ひがん』と呼んでください。今夜、私が父上に認められたら私は死にます。それだけは変えられぬ未来です」


 私は黙って姫様の言葉に耳を傾ける。


「知っていますか? ある鷹が獲物を狙おうと窺っていたら、その鷹を狙っていた人間が矢を放ったのです。矢は鷹に見事突き刺さりました。その矢の矢羽根は鷹の羽で作られていたという話があります。つまりこの話の教訓は『己を滅ぼす者は己である』ということだそうです」


 旦那様が言っていた事がようやく理解できた。


『あれには兄には無い特別なものが宿っている。この私に似たところがあるのだよ。血は争えないようだ』


 姫様は、もう鷹になってしまったのだ。そして鷹を射る矢は彼岸様……。そうさせたのは紛れもない旦那様だ。旦那様もまた鷹なのだ。この父娘はあまりにも似すぎている。己を滅ぼすことが出来るのは己だけなのだ。私には何も出来ない。


「それでは行ってまいります」

 凛とした声でそう言うと、姫様は対象の元へと向かった。


 暫くの静寂の後、女の悲鳴と泣き叫ぶ声が聞こえた。そしてその声は突然ぴたりと止み、再び静寂が戻った。

 私は姫様の言う通りこの場を去ろうとした。

 主人の元を去らなければならない。役目を終えたのだから、いつまでもここにいてはいけない。

 雪を踏み締め歩き出したがすぐに立ち止まり拳を強く握った。


「椿の最後の願いを聞いてあげないのかね?」


 突然後ろから旦那様が現れた。いつもの不敵な笑みを張り付かせ、鷹のような目でこちらを見ている。金縛りにでもあったように身体は動かず、立ちすくむ。


「小太郎。彼岸が待っている」


 その言葉に引きずられるように足が勝手に彼岸様の元へと向かう。先にたって歩く旦那様の背中を眺めながら私は確信した。

 もうこの方々から逃れることは出来ないのだと。鷹の獲物にいつの間にかなってしまっていたのだと。





 ◆◇◆


 息を吸うと冷たい空気が流れ込んでくる。刀には血がべっとりと付き、雪の上にポタポタと赤い雫が垂れている。

 お通はもう動かない。可哀想に。ここの女中にならなければこんなことにはならなかった。泣き叫び、どうかお助けを、と許しを乞う声が耳に残っている。

 肉を切る感触、赤い血が飛び散る光景、鉄の匂い、息絶えた後の静寂。どれもが俺の気持ちを高ぶらせ、口の中に流れこんでくる空気さえ美味に感じる。お通の叫びはもう消えた。自然と口が弧を描く。


「最初はこんなものか。まぁ一人でやり遂げたのだから合格といったところか」


 父上の声が後ろから聞こえた。『合格』。良かった認められた。これで父上と同じになれた。


「後処理の事は小太郎に聞くといい。頼んだぞ」

「はっ!」


 小太郎の声に小さく舌打ちをする。馬鹿な男だ。折角助けてやろうと思ったのに。椿の言う事を聞いていれば畳の上で静かな最期を迎えられただろうに。

 その時、小太郎が兄上と重なって見えた。何故かはわからないが、不思議と小太郎への苛立ちが消えた。


 お通の側に来た小太郎を一瞥し、後ろを振り返ると父上は笑みを浮かべて声を出さずに口を動かした。


『さすが我が息子』


 それに笑顔を返し、小太郎に視線を戻す。小太郎はお通をどう処理しようか悩んでいるようだ。俺は再び父上を見たがもう背を向けてしまっている。


 次の対象は小太郎か。骨が折れそうだ。春には始末出来るように準備しておこう。


「もう少し血を流さぬよう仕留めましょう。後処理が面倒になります」


 小太郎に後処理の仕方を教わっておかないとな。すまないな小太郎。あの娘ではお前を救うことは出来なかった。そもそも小太郎があの娘ではなく俺を望んだんだ。その覚悟の上で来たんだろ? ならば俺のやり方でお前を救おう。


 鷹の娘は死んだ。残されたのは父上にそっくりな鷹の息子だ。そしてそんな俺を殺すのもまた俺だ。


 所詮鷹の子は鷹なのだ。


ここまでお読みくださりありがとうございます。

本編とは違う雰囲気を楽しんでいただけたら幸いです。


本作を完結まで届けられたのは、ひとえに読者の皆さまのおかげです。心より感謝申し上げます。


感想、レビュー、評価など頂けたら励みになります。


次回作でもお会いできたら嬉しいです。



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