五話・隣の少女
結果として掃除は想像以上に難航した。汚れは落ちないシミは取れないホコリは減らないで悪戦苦闘すること数時間。ついに俺たちは内装を完全に綺麗にすることができぬまま夕暮れを迎えてしまった。
そもそも無謀だったのだ。洗浄剤もなくこんな一面小汚い家を掃除するなど。
「何なんだこの家の汚れ……ジーパンについたガムみたいにこびりついて取れないぞ」
全身ホコリまみれになりながら、無念の結末に歯噛みする。そのそばで少女三人は床に倒れて力尽きていた。
「疲れた~」
「も、もう、動けません……」
「ガクリ」
各々満身創痍でリアクションを取るその様子が不覚にも面白く、つい相好が崩れる。
「お前ら、よくやったな。お疲れ」
「ほんとに、掃除なんて生まれて初めてした」
「ほう、その割にはうまかったぞ」
「でしょでしょ? あたし器用だから」
素直に褒めれば、クルシュが仰向けのまま嬉しそうに笑みを湛えた。その横でリヘナとヴィムが口をへの字に曲げる。
「私たちだって頑張りましたよ?」
「もちろん知ってる。リヘナはかまどを磨いてくれたし、ヴィムは浴室を洗ってくれた。おかげで必要最低限の設備は使えるようになったよ」
「えへへ」
リヘナがはにかむように笑う一方で、ヴィムは思い出したように声を上げた。
「ところで一番は誰?」
「一番? ああ」
そういえば一番にご褒美を上げる約束してたっけ。掃除に夢中で完全に失念していた。
改めて三人を見返せば、全員が期待に満ちた眼差しをこちらに向けている。
さて、ここでの最適解としてはやはり……、
「今日は全員頑張ったからな。ご褒美は三人ともにやるよ」
「「「やったー!」」」
三人ともほぼ同じタイミング同じ挙動で歓喜する。仲良いなこいつら。全員年相応の反応をしてくれるせいで、時たま真の正体がドラゴンであることを忘れそうになる。
「ご褒美ってなになに?」
「明日になってからのお楽しみだ」
「え~」
クルシュが不満げに頬を膨らませるが、あいにくまだ言えない。だってまだなんにも考えてないから。
どうしようかと真剣に悩み腕を組む。そこへ『グ~』という間の抜けた音が届いてきた。
「お腹、空いた……」
腹部を押さえて力なく声を出すクルシュ。そんな彼女の腹の虫につられて、一つ二つと残る少女の腹も鳴る。最後には俺の腹まで空腹を訴える始末だ。
「シグレくん……何か、食べ物ありますか?」
「食べ物……あ~、食べ物ねぇ……」
頬をかいて口ごもる俺の様子を見てリヘナは察したのか、愕然とした表情に変わる。
「まさか……」
「すまん、掃除に気を取られて……飯を忘れてた」
ありのままの事実を告げると三人の顔が絶望の色に染まる。そりゃそうだよな……昼から食ってないもんなぁ。
さすがに申し訳なく思い黙り込む間にも、三人の瞳は見る見る潤んで涙が決壊寸前まで到達しかける。まずい。
「待て! 落ち着け! 分かった! 今から全力で食べられるもの探してくるから泣くな!」
必死になだめ聞かせて適当なことを言ったものの、当然食料調達の当てなどない。おまけに外は日没間近。暗い森の中で食べ物など見つけられるわけもない。最悪ご近所さんにこいつらの分だけでも恵んでもらうか……よそ者に飯をくれるほど親切な町ならいいが。
頭では考えを巡らしながら、同時に迷っている暇はないと立ち上がり玄関へと向かおうとした――ちょうどその時、控えめなノックが室内に響いた。
「誰だ……?」
中腰の姿勢で硬直し、玄関の扉を凝視する。こんな廃屋にわざわざ出向く物好きな人間は真っ先に物取りか浮浪者が思い当たるが、律儀にノックしてくるのもおかしな話だ。
となると残る可能性はこの家を手配した張本人の女神であるが、今になってやって来る理由が分からない。様子でも見に来たのか。
出るべきかどうか迷い黙考することおよそ五秒。
俺は結局訪問者の顔を確認することにした。盗人なら即行扉を閉めればいいし、女神なら首を絞め上げればいい。これで解決だ。
頭の中で単純な作戦を練り上げ慎重に扉へと近づく。
そして、ゆっくりとノブを回し、扉を開けて隙間から外を窺う。
するとそこには、見慣れない少女が立っていた。クルシュたちよりは年が上に見えるが俺からすれば十分若い、それこそ中学生くらいの年齢に見える。
予想だにしない来訪者を前に、一拍反応が遅れてしまった。
「えっと……どちら様?」
「あ、あの、私……隣の家に住んでるアイシャと申します」
二つ結びの茶髪を揺らしてたどたどしく挨拶する少女。彼女の素性を聞いたことで俺の中から警戒心が消え失せる。
「ああ、お隣さんでしたか」
「は、はい。その、隣で物音が聞こえたので、少し様子が気になって……すみません突然」
「いやこちらこそ、うるさくして申し訳ない。今日ここへ引っ越してきたばかりで掃除をしているところだったんです」
「あ、やっぱり、新しい入居者さんなんですね」
「はい。ご挨拶が遅れましたがこれからよろしくお願いします。倉坂時雨です」
「こ、こちらこそ、よろしくお願いします」
そっと手を差し出すと少女も慌てて握手に応じてくれた。気の良さそうな隣人でよかった。
内心安堵して、それから背後を振り返る。
「実は俺以外にもあと三人、子供がいまして――おーい、お前ら」
『グ~』
室内に呼びかけるも、行き倒れた少女たちは微塵も動かないどころか声すら発さず、代わりに一際大きな空腹の音を鳴らす。
「誰が腹の虫で返事しろっつった」
ドラゴンどもの礼儀知らずに呆れ頭を掻き、愛想笑いでアイシャさんに向き直る。
「すいません、掃除して疲れてるみたいです。ハハハ」
「あの子たち、お腹を空かせてるんですか? お食事は……?」
「それがお恥ずかしい話、掃除に手間取って食事の準備を忘れてしまいまして……」
「それは大変ですね……」
正直に伝えると彼女も苦笑を浮かべて同情してくれる。
どうしよう。このまま勢いでご飯を分けてもらえないか訊いてみるべきか……しかしいきなりそれは厚かましいだろ。なるべくご近所付き合いは友好的に保ちたいし、ここは何も言わないのが得策か……。
二者択一を迫られ難しい顔で悩む俺の眼前で、なぜか少女も同じくして考える素振りを見せていた。そして、
「ちょっと、待っててもらえますか?」
そう言い残すとアイシャさんは小走りに自宅へと引き返してしまった。はて、何だろ?
首を傾げて待っていれば、ものの一、二分で少女は戻ってきた。
最初の時とは違い、彼女の手にはバスケットが握られている。
「あの、これ、よかったら」
彼女が手渡してきたカゴの中身を確認すると、そこには四つの小ぶりなパンが入っていた。驚きに思わず目を丸くする。
「これは……?」
「私が働いてる店で作ったパンです。お口に合うかは分かりませんが、もしよけらばもらってください」
「っ……!?」
感激のあまり、言葉も出なくなってしまった。目頭が熱い。霞む視界に映る少女が、今はまるで天使に見える。それこそどこぞの女神よりよほど神々しい。
俺は気づくと彼女の小さな手を両手で握りしめていた。
「ありがとう……本当にありがとう」
「い、いえ! 大したことじゃありませんから」
照れたのか頬を赤くして謙遜する少女であるが、俺にとっては救世主に等しい存在なのだ。礼は尽くさねばならない。とはいえどうやってもてなすべきか。家に招きたいのはやまやまだが、客を呼べるほど綺麗でもないしなによりお茶請けがない。
さてどうしようかと考えているところへ、不意に下から声が現れる。
「あー、パンだ」
「ん……? うぉ!?」
声が聞こえて目線を下げると、いつの間にそこにいたのか、三人の少女が俺の脚にしがみついて覗き込んでいるではないか。さてはパンの匂いを嗅ぎつけたな。
「お前ら、動けなかったんじゃないの……?」
「食べ物があれば動けます!」
「にぃに、はやくパンちょうだい」
わらわらと群がりパンをねだってくる少女三人の重量に屈服し、やむを得ず俺はカゴをクルシュに手渡す。
「お前ら、そのパンくれたのこのお姉さんだからな。ちゃんとお礼と自己紹介しろ」
たしなめると三人は玄関の前に一列に並び、パンを頬張りながら名乗った。
「あたしクルシュ。お姉ちゃんありがと!」
「リヘナです。ありがとうございます!」
「ヴィムだよ。ありがと~」
「食いながら礼するヤツがあるか」
嘆息して三人の頭を軽くはたく。
「申し訳ない。あとでキツく言っておきます」
「いえいえ、気にしてませんから」
朗らかに微笑んで、アイシャさんは少女たちを見つめ屈んだ。
「私は隣の家のアイシャっていうの。みんな、これからよろしくね」
「「「よろしくー」」」
若いのにしっかりしてるなと失礼ながら感心して見守っていると、彼女は再び俺を見返した。
「この子たちはシグレさんのお子さんですか?」
「まさか。うちで預かってるだけです」
「預かってる……? いろいろと事情がおありのようですね」
「ええ、まあ」
さすがにこいつらがドラゴンですとは口外できない。俺は返事を濁しつつ、俺の分のパンにまで手を出そうとするガキどもから無言でパンを奪い取る。
話の穂が途切れたところでアイシャさんはにこりと笑い、丁寧に頭を下げた。
「また何か困ったことがあったらいつでも頼ってください。私、みなさんが引っ越してきてくれてすごく嬉しいんです。いままでずっと独りで住んでて、隣家にも誰もいませんでしたから……」
「そうでしたか。じゃあお言葉に甘えて、今後も頼らせていただきます。アイシャさんも何かあれば遠慮なく言ってください。お隣同士なんですから、持ちつ持たれつ、これから末永くよろしくお願いします」
俺がそう言うとアイシャさんは一瞬目を丸くし、次いで満面の笑顔を見せた。
「はい! ありがとうございます!」
互いに笑み浮かべて礼を返し、別れの挨拶を告げてアイシャさんは自宅へと帰って行った。
「いや~、あんな可愛くて優しい子が隣人でよかったよ」
率直な感想を述べて扉を閉めようとしたところで、三人の少女と目が合った。
全員一様に納得のいかない顔でジト目を向けている。
「どうした、お前ら?」
「別にぃ」
「知らない」
「嫉妬なんてしてません」
ふてくされたようにそう吐き捨てて部屋の中へと戻っていく三人を、しばらく眉根を寄せて凝視していたが、ややあって手に収めていたパンに目がいった。
それからまた三人の背中を見る。
「あいつら、そんなにパンが食べたかったのか?」
よく分からん。独りごちて俺は玄関の扉を閉めた。