二話・女神セルフィエラ
「……どちらさん?」
気づくと俺はなぞの白い空間に立ち、目の前には見たこともない美女が無表情で相対していた。物静かで知的な印象を受ける氷のような女性だ。
「私はセルフィエラと申します。あなたは倉坂時雨さんですね?」
「はい、そうですけど……」
俺のぶしつけな誰何にも丁寧に答え、おまけに彼女は俺の名前まで知ってくれていた。しかし名前を言われても残念ながら俺は彼女を知らないし記憶にもない。こんな美女一度見たら忘れないだろうから少なくとも顔見知りではない。
当惑してしばし黙する俺の思考を見透かしたかのように、セルフィエラと名乗る女は先を続ける。
「私は、あなたの住む世界とはことなる異世界で女神の座に就く者です」
「は? 女神?」
一瞬この人頭大丈夫かと心配しそうになったが、すぐに得も言われぬオーラというか、光を放つ存在感と不可思議な空間が説得力をもたらして俺の心から疑念を取り除いてしまった。どちらにしても、女神の真偽より重要なのはなぜ俺がここに連れて来られたのか、その理由を訊くのが先決だ。
「……なるほど、あなたが女神というのは信用します。それで、その異世界の女神様が、俺みたいな凡人に何の用があるんですか?」
自分で言うと悲しくなるが、俺は特出した才能など持ち合わせていない。強いて言うならブリーダーとして働いた経験があることくらいだ。
そんな路傍の石も同然の人間に直接あおうなどとは、酔狂な神様もいたものだ。
ひねくれた考えに陥ってつい仏頂面になる俺の顔を見つめたまま、感情の読めない瞳でこう返答した。
「実はあなたのブリーダーとしての実力を見込んで、一つお願いしたいことがあるのです」
「お願い……? ちょっと待て、どうして俺なんだ? ほかにも有能なブリーダーなんていくらでもいるだろ?」
「たまたま見つけた魂があなただったからです。あなたはつい先日、交通事故で亡くなりましたね?」
言われて体が強張る。まるで電流が走ったかのように記憶の回路が繋がって、それまで忘れていたはずの出来事が思い出された。
そうだ。俺はトラックに轢かれそうになったイヌをかばってそのまま……。
我知らず打ち付けた頭に触れて状態を確認するが、痛みもなければ血もついていない。つまり今の俺は霊体ということだろうか。思わず苦笑がこぼれる。
「そういうことか。ブリーダーを欲していたあなたはちょうど死んで間もない適任者を発見して登用することにしたとかそんなところですかね?」
「はい。あなたを選んだ理由は他にもありますが、まあ、今はそう思っていただいて差し支えありません……それで、どうでしょう? 私のお願いを聞いてくださるのであれば、あなたに二度目の人生をプレゼントすることができますが、引き受けていただけますか?」
また女神とは思えないほどズルい頼み方をしてくるな。そんな見返りを提示されたら断るに断れないだろ。
「ええ、いいですよ。俺でよければ引き受けます」
「よくぞ言ってくれました。やっぱり男なんて美女が言い寄ればチョロいもんですね」
俺が了承すると無表情でとんでもない本音を吐いてきやがった。聞き間違えたかな?
「それで、俺に育ててほしい動物というのは?」
「はい。ここにいますよ」
そう言って女神が腕を広げると、彼女の背後に黄金と漆黒と白銀の、三つの巨大な影が現れる。皮膜の翼を背中に生やし、全身を金属の如き硬質な鱗で覆った恐竜じみた生物――俗にいうドラゴンそのものであった。
俺はこの瞬間、自分が重大なミスをやらかしていたことに気づいた。どうして最初に飼育する動物を確認しなかったのだろうか。てっきりイヌだと思っていたが、よくよく考えればわざわざ神様がイヌの世話を頼むはずもない。
「ちょ、ちょっと待て! 預かるのは動物じゃなかったのか!?」
「私は一言も動物とは言っていませんよ?」
ポーカーフェイスで何の悪びれもなく平然と言ってのけた。
くっ、このアマ……女神のくせに善良な人間を騙しやがったな。
憤りを覚えて睨みつけても、女神は表情を崩さない。
「大丈夫です。あなたならきっとこの子たちを育てられます」
どっから湧いてくるんだその根拠。こんなモンスターどもどうやったって手懐けられるわけないだろ。一日ともたず食われるのがオチだ。
「それにこのまま育ててもらうわけではありません。ちゃんと人間の営みに溶け込めるよう配慮いたします」
「……ほんとに?」
「はい。本当です」
どうにも一度騙された経験からこの女神を素直に信用できなくなってしまった。
でも神の力ならこの三つの巨体を縮小できたりするのかもしれないし……う~ん。
「あなたには特別にある程度の力を授けますし、こちらであらかじめ住居もご用意します。これでもダメですか?」
テレビショッピングのお買い得商品よろしく次々と特典が付け加えられるせいで、むしろ怪しい気配が増しているが、反面これだけ用意され承諾した上で拒否するのも憚られる。
どのみち断れば自動的にあの世送りだ。ならば幾分支障があろうと責務を全うするのが是と言えよう。
無意識に深いため息がこぼれた。
「無事育て切る保障はありませんよ?」
「構いませんよ。きっとあなたならできると信じてますから」
いったい何をもってしてそこまで俺に期待できるんだ。神様の自信の源は人間の俺にはよく分からん。
俺はため息をつきそうになってさっきもしていたことを思い出し、寸前で息を呑み込んだ。
「では出立しましょうか。あなた方四人の旅路に幸あらんことを祈っています」
「そりゃどうも」
どうにも素直に受け取れずついついぶっきらぼうな返事になってしまったが、元はと言えば詐欺まがいの契約を結んできた女神が悪いのだからこれくらいいいだろ。
これからの人生に期待半分、不安半分を胸に抱いて俺は出発の時を待つ。
「それではシグレさん。この子たちのこと、よろしくお願いしますね」
「まあ……なるべく努力します」
俺があいまいに返事をすると、女神の頭上からロープのようなものが降りてきた。
何だそれ、と首を傾げロープの先を辿ろうと顔を上げる寸前、突然女神がそのロープを思いっきり引っ張ったのだ。
するとそれに連動して俺の足元の床がパカッと開いた。
「……え?」
「いってらっしゃい」
無表情に親指を立てて見送る女神の姿が一瞬だけ見え、俺の体は重力に導かれ暗い奈落の底へとなす術もなく落下していった。
「ああああああぁぁぁぁぁぁ!」