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九城霊異記  作者: pepe
9/10

8幕:階梯

 霊子とはなにか。その明確な答は、いまだに得られていない。

 霊子研究の第一人者であった白石勇造さえ、その解を示すことはなかった。だが、メノウには、あるいは父はついにその正体を掴んだのではなかろうかと思えた。少なくとも、その核心に近づいたのではないのか。

 晩年、急に老けこんだ父は、自らの死期を悟ったように、膨大な研究ノートを燃やしていた。生涯のほとんどを費やした、それこそ生命より大事なはずの思索と成果の道筋を、自らの手で始末しようとしていた。

 当時はそれを奇異に思うことはなかった。彼女はまだ幼く、そして白石博士は気が触れたのだという世評を知らないわけではなかったからだ。

 だが、研究ノートとメモは、そのすべてを始末するには、量が膨大に過ぎた。そして、白石勇造の余命はすでにして尽きかけていた。

 死の床で渡されたクリスタルの謎を解くために、メノウは残された研究資料を漁った。数式は理解できなかったし、メモは断片的にすぎた。

 理解できる範囲で拾い集めた知識では、クリスタルがなんなのかは分からず、やはり父は狂ったのだという結論を導くだけだった。研究成果の断片は、科学というより、ほとんど宗教か哲学というべきだった、それも荒唐無稽な類の。あるいは魔術というべきか。

 後期のメモに残された、祈りのような文句だけが、妙にメノウの記憶に残っている。

『霊子とは、その制御の万全なるを以て――人がどこから来て、どこへ行くのかという問いに対しては、最も根源的にして究極の解たりうると信ずるものである』

 意味するところは分からない。意味などないのかもしれない。

 それでも、残された断片には、霊子制御への忌避感があった。霊子機関に対して危険を感じ、強い懸念を抱いているようにも思われた。

 霊子理論研究の果てになにを見たのか。

 なにも分からないままに、メノウは残された研究資料を焼いた。学術的な価値は勘案することもなかった。ただ、これらの資料はあってはならないものだと、そう思ったから……。



「そんな……」

 茫然とつぶやいた少女は、ようやく事態がどれほど危険なものかを悟った。

 周囲に満ちる霊子は、通常では考えられないほどの密度でひしめき合っている。それこそが、久遠の異常に増幅された霊子力の所以だった。

 考えてみれば、当り前の話だ。ここは、霊子を大規模に集積する霊子炉の直下なのだから。

 問題は、その通常では考えられない密度だった。わずかな操作が、爆発的な連鎖を引き起こす。具現化する力が、どれほどの現象を引き起こすのか、メノウには予測がつかなかった。

 これが、東京の消失現象の正体なのだろうか。不意に浮かんだ考えが、父の遺したメモに繋がる。『霊子の機械的なエネルギー変換は、あまりに危険なものと感ずる』――すなわち、この大気に満ちる、高密度の霊子を指すのか。

 余計な思考を振り払う。いまは、どのように敵に対抗すべきかを考えなくてはならない。

 メノウの異常な反応に、直行が眉をひそめた。凍りついたように動かなくなった二人に対し、

「それで終わり?」

 久遠が嘲笑う。青白い燐光が、揺らめく炎のように立ち昇っていた。赤色灯の光を打ち消して、室内を青く染め上げる。

 それだけの光が、これから起こる霊子制御の余波でしかない。いったい、どれほどの現象が引き起こされるのか。

 直行が踏み込んでいた。理性と本能の双方が叫びをあげている。逃げても無駄だ。制御している女を、迅速に葬り去らなければ危険だ。

 もちろん、直行の反応は想定内だったろう。少年が間合いに飛び込むよりも早く、久遠は霊子が蓄えたエネルギーを解き放つ。

 なんの予兆もなく膨れ上がった爆炎が、二人に襲いかかる。引き伸ばされた時間感覚の中で、メノウは目の前に迫る、壁のような炎を見ていた。

 あれに巻き込まれたら、どんな死に方をするのだろう。そんな考えが頭をよぎり、それから逃れるにはどうしたらよいのかと、それだけを考えた。それ以外のことは、一切が頭から離れていた。

 どうにもならない。絶望的な思考に、彼女は強く眼をつむった。そうすれば、現実を受け入れないですむ、とでも言うように。

 衝撃が全身を叩く。だが、思ったより強くはない。吹き飛ばされるほどの威力はなく、想像した熱を感じることもなかった。

 それだけだった。

 目を開け、怪訝そうな表情でこちらを睨みつける久遠が見えた。まだ、あたしは生きている?

 ようやく、飛び込んだ相棒を目で探し、直前にいたはずの場所から、かなり後方でうずくまっている姿を見つけた。

「ナオ!」

 呼びかけたが、反応はない。いや、反応する余裕がないのだろう。体は小刻みに動いている。どれぐらいの傷を負っているのか、判然としない。

 久遠の目が、メノウの足もとから放射状に延びる床の焦げ跡を追った。確かに少女の目前まで迫った爆発は、切り裂かれるように左右に分かれ、届いていない。

「エリキシルか……」

 久遠がぽつりとつぶやく。メノウが無事な原因を、彼女も理解しかねていた。まだ消え散らない涼やかな青白い輝きを、メノウの足もとに見つけて、そのように推論した。

 メノウの方も、ようやく状況を理解した。身を守ろうとする意識が、霊子へと干渉して爆炎を防いだのだ。全身を叩いたのは、減殺しきれなかった爆圧の衝撃波なのだろう。

 どっと汗が噴き出す。意識しなかったとは言え、これだけの膨大な霊子の海の中で、霊子制御を行っていたのだ。それは久遠が引き起こした指向性の爆発より、はるかに肝を冷やす。

 もし、過剰な霊子を励起していたら、と思うと、ぞっとする。

「自分のやってることが、どれだけ危険か、分かってんの?」

 震えだしそうな膝を必死で支えて、メノウが問いかける。直行のことが気になるが、それ以上に、次は奇跡が起こらないかもしれないと思うと、これ以上の霊子制御を抑止しなければならない。

 メノウを警戒するように見ていた久遠は、その言葉を聞いて、ようやく笑みを取り戻した。

「なんだ、ビビっちまったのかい?」

「こんな場所で、霊子制御するなんて……」

「ああ、お嬢ちゃんにも分かるんだよね。そう、一歩間違えれば、歯止めが効かないだろうね」

「分かってて、なんで!?」

「そうさね、分かりやすく言えば、復讐ってところかね。あたしの頭の中で、だれかが囁くんだ。狗どもを殺せとね」

 短い前髪をかきあげて、笑っていた久遠は、すっとその笑みを引っ込めた。一瞬にして漂白されたように、能面のような無表情が浮かび上がる。

「あたしは、そんなこと望んじゃいない」

 力なくつぶやいて、しかし、女はすぐに上機嫌な笑みを浮かべた。

「だけど、もう、そんなことはどうだっていい。気分がいい。ここは、とても気分が高揚する。なにもかもが思うがままだ。力があるというのは、とても気分がいい」

 意味が分からず、メノウは沈黙を保った。狂っているのだろうか。精神が病んでいるように見えた。少なくとも理性や知性を重視して行動しているようには見えない。

 だから、こんな危険な場所での霊子制御を躊躇わないのか。あるいは、完璧に制御しきれるという自信があるか。

 いずれにせよ、こちらには打つ手がない。メノウはゆっくりと呼吸して、首から提げたままのクリスタルを握りなおした。なんとか、久瀬直人が到着するまでは、最小限の霊子制御で耐えるしかない。

 あの人ならば、あるいは。

 だが、それは長い戦いになりそうだった。



 死んだか?

 久瀬直行は、そのように思った。揺らぎ、踊る青い輝きが、とても現実のものとは思えず、だが、そのように思考する自らはなんなのか。

 揺らめく青い炎の向こうに、人影が二つ見える。はっと正気を取り戻した直行は、しかし、認識した肉体の痛みに、動くどころか声を上げることもままならない。

 叩きつけられた爆炎は、瞬時のことでこけおどしに過ぎない。喉の粘膜までは焼かれたが、肺にまでは入り込まなかった。しかし、その炎を叩きつけた衝撃波が、直行の意識を刈り取って、意識を失った肉体を床に叩きつけた。幾つもの打撲が軋むような痛みと熱を発していた。肋骨は折れたか、少なくともひびが入っている。

「もう、おしまい?」

 くっくっ、と喉に引っ掛かるような笑声を漏らして、久遠は膝を屈した少女を見下ろした。喘ぐような呼吸に上下する少女の薄い肩が、尋常ではない疲労を伝える。

 二人を取り巻く青い焔は、勢いを増すばかりで、まばゆさに目を細めねばならぬほどだった。これほどの余波が満ちるほどに、二人は霊子制御を続けていた。もはや臨界点が近いことは、素人目にも明らかだった。

 不規則な呼吸に肺が痛む。疲労が痛みとなって額と首の付け根に押し寄せ、吐き気に涙が滲む。メノウにとって、その十数分は地獄の責め苦に等しかった。ほんのわずかなミスも許されぬ、精緻極まる制御によって、最小限で凌ぎ続けなければならない。人間には不可能な業であり、ヒヒイロカネの模造品に過ぎないクリスタルのスペックを遥かに超えた仕業だった。

 だが、それをやらねばならない。できなければ、九城が消えてしまう。そこに生きる多くの人々が失われてしまう。

 瞬間、青い輝きを圧する紫電のきらめきが空間を渡った。直上より降り注いだ閃きは、メノウに触れる寸前に、砕けた波の如く青白い燐光の飛沫となって散った。もはや、メノウ自身にもなにをどうやっているのか判然とはせず、条件反射のように霊子を制御しているに過ぎない。

「やるじゃないか」

 楽しむように囁いた久遠が、ちらりと唇を嘗めた。嗜虐よりも、むしろ自らの力を存分に振るえるという事実に、女は酔っていた。

 対する少女は余力を使い果たし、いつ倒れてもおかしくはない。いや、限界をとうに超えて、あとはいつ倒れるかというだけに過ぎない。

 それでも、久遠を見上げた瞳には、強い意志が見えた。

「まだ……」

 双眸に消え残る鬼火のごとき執念が、なおメノウを支えている。彼女自身にさえ、その執念がどこから発するのか分からない。

 好きな街ではなかった。好きな人生ではなかった。消えてなくなれば、案外すっきりするのかと思わないではない。だから、この場を死守しようとする自らの意思に、わずかな戸惑いを覚える。いや、これは自分自身の意思なのか?

 久遠が高らかに嗤った。嗜虐の笑みで、健気な少女の姿を嗤う。

「なにがまだ(、、)だと言うんだい? 大したものだと褒めてやってもいいけどね、もう面倒だ。潰すとしようか」

 両手を掲げた久遠は、愉悦の笑みを浮かべたまま、霊子操作を開始した。その姿が青い輝きに霞むほどの干渉に、暴走の臨界点に達しようとする霊子が大気を震わせた。

 やばい――肌を粟立たせて、直行は唇を噛んだ。逃げろと呼びかけるべき相棒は、もはや動くこともかなわないのか。睨むような眼差しを向けたまま、微動だにしない。あるいは、逃げることの無意味が分かっているのか。



 メノウの超感覚が捉えていた。久遠の解き放った衝動が、大気にひしめくように満ちる霊子を突き飛ばし、霊子の海に投げ入れられた小石の波紋が連鎖と合流の繰り返しの果てに、とてつもない大きさと複雑さで、いま――世界を侵食しようとしていた。

 抉り取られた地表――唐突なヴィジョン。

中尉殿(、、、)!」名も思い出せない(、、、、、、、、)操縦士が、操縦席から振り返って叫んだ。「これ以上は無理です。霊子機関が不安定で……」

 ガス欠のように息継ぎを繰り返す発動機。|眼下には人類史上最大の惨禍の跡が広がる《、、、、、、、、、、、、、、、、、、、》。

 思念を感じ取る。渦巻く思念。それがなにか、見極めようとする。霊子炉の暴走の末路、被害規模はすでに報告されている。だが、上層部が知りたいのは、そうした表面上の数字ではない。そこでなにが起こったのか、その真相であり――それが危険であるのかという、そもそもの根源的な疑問への解だ。

 消えたわけではない?

 大規模消失現象、失われた帝都。

 見えないというだけ?

 唐突な閃き。あるいは、そう、白石博士の推論の通りであるとするならば……?

「高次へと昇ったか……?」

 呟いたメノウは、ようやくフラッシュバックする記憶と思考が、自らのものではない(、、、、、、、、、)という異常な事態に気付く。

 そして、疲労の極致にあってなお働きかける本能が警告を発し、霊子の波動を観察――その水面が異様なまでに凪いでいることに気づく。

「あんた、なにを……」

 愕然と久遠が口にして、問うべき相手を間違えたことに気づく。メノウもまた、信じられない事態に茫然としていたからだ。

 乱入者の存在に気付いたのは、久遠の方が早かった。

「狗が……」

 腐った傷口から滴る膿のような、ぞっとする憎悪の声が向かう先に、久瀬大尉がいた。抜き放たれた桜花を手に、仁王立ちする全身は、赤い霧をまとっていた。

 壮絶な鬼気に当てられての錯覚か――否、そうではない。全身の毛細血管の破裂によって、皮膚を通して噴霧した血液が濃霧のように彼を覆っている。

 耐えられるはずがない。メノウは感情から切り離された思考を辿っていた。それは人の行為の極限――それすらを遥かに超越した神の御業に他ならない。

 白石勇造の語る、不可能性の理論。すなわち、ひとたび解き放たれた霊子力を現象の発現前に打ち消すことは可能か、否か。

 それは音を相殺することに相似をなす。霊子の波動ともいうべき「波」に、まったく逆位相の「波」をぶつけて、これを相打ち消す必要がある。強すぎても、弱すぎても、どちらかの波動が現象を引き起こす。ましてや、人の能力で霊子の波を感覚し、それを精密に逆位相で模倣することなど、とうてい考えられない。

 だが、男はそれをやってのけた、その想いと力のすべてによって。

「シライシ……」

 ラジオ放送のようなノイズのかかった声で、直人は語りかけていた。

 鍛え抜かれた肉体が、もう幾万と繰り返してきたのであろう動作を機械的に行う。『桜花』を黒塗りの無愛想な鞘に納める動作は、精妙そのものだった。

「ウケトレ」

 もはや、意識があるのかどうかも定かならない男は、血の塊とともに、言葉を吐き出す。意味のとれない言葉は、これが最後の力と投げ放たれた宝刀によって補完された。

 宙を舞った『桜花』は、床に落ちて硬質な音を立て、横滑りした末に、その柄頭を少女の膝に当てて止まった。

 それは二度とは引き返せない契約だ。彼女特有の直感なのか、それともそれは先ほどと同じような他者の記憶なのか。分からないままに、メノウは震えを殺しきれない指先で、魔剣の柄に触れた。

「これが……父様の目指した、完成型……」

「狗ふぜいが、面倒な……ッ!」

 霊子の配置を把握。それに触れるために、意識の中で手を伸ばすイメージを思い描く。原型(ヒヒイロカネ)の圧倒的なアドバンテージとは、大量生産の模造品(エリキシル)などという半端な代物では成しえない精密さと万能性だ。

 霊子の偏りが見える。幾度となく振われたエネルギーの残滓が、余熱としてくすぶっている。それを使う。余分な時間はかけない。熱量を一気に増大させて、小娘ごと『桜花』を焼き尽くす。

 急激な熱量の増大が大気中の水分を蒸発させ、焼けた建材の黒煙に水蒸気が混じって視界を遮る。

「チッ……素直に倒れてりゃ良かったものを」

 力尽きて倒れた傷だらけの男に、皮肉っぽく告げた。ひりつくような熱気が頬に不快だった。だが、これで『桜花』を奉じてきた邪魔な一族は途絶えた。これで満足だ。『桜花』に劣る――それでも個人が持つには過ぎた――神器を押しつけられ、ゆえに日陰の中でさらなる闇を歩まされた我らの悲願が、ついに……。

「ま、どうだっていい。後はなにもかも消して、すべて世は事もなし……」

 振り返って仰ぎ見る霊子炉は、巨大な円筒形に配管が血管のごとく絡みついた、なんとも歪で無様な代物だった――これが支える都市が無様で歪なように。

「九城政府とは」威圧感を持つ、刃金のごとき冷たい声。「多くの犠牲を払って築いた秩序だ。貴様ごときの平安と引き換えるわけにはいかん」

「権力の狗め、まだ――」

 まだ立ち上がれたか。あの小娘は囮か。不意の声に混乱しながら振り返った女は、それを見た。

 立ち上がったメノウは、薄くたなびく煙の向こうで、青い燐光をまとう刀を手にしていた。



 それを手にした瞬間、メノウは無数の声に包まれた。いや、それ(、、)は意識に響くなにかで、それを声としか表現できないだけだ。

 意識に差し込まれた無数の声が、脳裏に無数の情景を影のごとく落とす。わずかな温もりと、優しさと、圧倒的な殺戮の凄惨な記憶……。それらは識域の限界を超えて投影され、メノウには膨大な情報としか捉えられない。

『さもありなん』

 ひときわ鮮烈な声が語りかける。

『千年を越えて受け継がれし記憶なれば、器に収まりきらぬ水はこぼれ落ちるのみ』

 どうやら、それは女の声のようだったが、メノウには判然としない。

『さりとて、案ずることはない。幾億の闘争が育てた心技は、そなたの内に宿る。それこそが『桜花』の真髄であるのだから』

 時を知らず、穢れることなき、不朽の一振。

 幾多の想念を内に封じ、それらは穢れ=気枯れることはない。それはつまり、時代を経て継いできた幾多の遣い手の記憶と経験を余すところなく、現今の遣い手に伝えるということ。

『左様。『桜花』とは無数の遣い手とともにある神剣。ゆえに『桜花』を継ぐ者は人の世に在って常勝不敗なり』

 疲労で動くことが苦痛に感じられた五体に力が満ちる。限界はあっても、疲労も苦痛も抑制し、無視する方法はいくらでもある。

 でも、これだけじゃ足りない。現に常勝不敗の力を以てして、直人は霊子の暴走を止めるために全力を使い果たしていた。

 あらゆる条件を加味してみれば、『桜花』ほどの能力を持たないにせよ、ヒヒイロカネを所有する女を瞬殺する術はない。一瞬でも手間取れば、敵は必ず霊子炉を暴走させる。

『なればこそ、我ら(、、)はそなたを選んだ』

 なにを言って――あれは急場しのぎ、苦し紛れにすぎない。多少ならあたしも霊子制御の術理を知っているだけで……。

『いいや、白石メノウ、それは違う。他でもない、そなたがもうひとつの(、、、、、、)ヒヒイロカネを持つゆえよ』

 もうひとつのヒヒイロカネ。それはいつも肌身離さず持ち歩いてきた。だが、オリジナルを手にした今、まがい物がなんの足しになるというのか。

 否、そうではない。そうではなかった。オリジナルを手にした今、その意味が分かる。白石勇造は『桜花』を完成形として、それを創造したわけではない。

 では、なにを求め、なにを託したのか。

『行け。もはや解はそなたの内にある』

 そうとも、こんなくだらないことは、すぐさま終わりにしなければならない。それが己の意思であるか、メノウには確信が持てなかった。



 聞こえた声は、そう、確かに少女のものだった。だが、あの威圧感は、刃金のごとき鋭利な冷たさは、そしてなにより、この底知れぬ闇をたたえた幼い瞳はなんだというのか。

「こけおどしのつもりかい、お嬢ちゃん?」

 鋭利な殺気を感じて、久遠は咄嗟に半歩を退き、半歩以上を退くこともかなわず、下腹を切り裂かれた。

 五メートルは離れていた。それが瞬時に間合いを詰められたように感じた。動くとも見えず動く――奥義を会得したような少女には見えなかったが。

 出血は派手だが、傷は浅い。

 だが、混乱する久遠は、振り抜かれた白刃を目で追ってしまう。右膝の裏に軽い衝撃。振り切った刀の遠心力で体を回りこませ、放たれた蹴撃。ダメージはない――打撃ではない。膝を折らせるための関節技。息を呑む。不可抗力で片膝をつき、反射神経だけで翳した短刀が受け止めた白刃は、正確に首を狙っていた。口中が干上がった。

 だが、所詮は子供の力だ。打ち込みの力を十分に受け止められた久遠は、刃を押し返す。メノウは無理には押し込まなかった。後ろへ退きながら、くるりと体を反転させて、勢いを乗せた蹴りを放つ。踵が久遠の側頭部を撃ち抜き、女はうめきながら受け身からの反動で身を起こした。

 これは――この連撃の組み立てと精度は、なんだ?

「バカな、こんなことが……久瀬って、『桜花』って……なんなのよ、アンタはァッ!?」

 不条理を現実として目の前に突き付けられた女の絶叫。だが、『桜花』を完璧な形で構える少女の瞳は、あらゆる色彩を呑みこむ闇色に染まって揺らぎもしない。

 メノウの幼い唇が、無感情に言葉を紡いだ。

「最も強く残るものは怨念ゆえに、不完全に受け継がれたな。刷り込まれた怨嗟に蝕まれたならば、その業を払うも我ら(、、)が務めか」

 傲岸たる眼差し、厳然と事実を突き付けるような口調。自分の半分ほどしか生きていない少女に、久遠は怯えを自覚する。勝てない、逃げろ、と本能が絶叫している。全身が震え、歯の根が合わない。

 これがすべてのヒヒイロカネの原型たる能力なのか。これは存在していいものではない。そうと思い知らされれば、もはや久遠に取るべき手段は他にない。

 霊子炉を暴走させる。

 もしも抑え込まれたとしても、久瀬の当主と同じように相応の手傷を負うはずだ。『桜花』がいかな万能性と能力を秘めようと、その遣い手は超人ではない。そう、たとえどれほど武術に長けようと、人の限界はあるのだ。

 すべてを無に帰す。

 そうすれば、この呪われた人生に付きまとった業と罪は払えよう。

 ()すら与えられなかった短刀が青白い輝きを放つ。

 いかん。生気を失った茫洋たる瞳で成り行きを眺めていた直人は、脳裏に囁く。即座に止めねば、白石もまた同じ轍を踏むことになる。

 だが、メノウは動かない。場内が急速に青い輝きに満たされていく。計測するまでもなく、それは暴走の前兆なのだろう。

「そう、すべてのヒヒイロカネが目指したのは、融合(、、)による力の増幅。だが、白石勇造だけは違った。この異質なもうひとつのヒヒイロカネは、調和(、、)のためにある」

 瞳を閉じ、細く息を吸った少女は、胸元のクリスタルを握りしめ、そして目を開いた。

 それだけだった。たった、それだけの動作が青い光を一瞬で消失させていた。

 赤い非常灯の光に照らされた久遠の顔が絶望と驚愕に引きつる。その視線の先、たたずむ孤影だけが青い輝きを放っていた。その神剣と、胸元にたらされたクリスタルと――そして、その双眸と。

 床に這ったまま、直行はその様を震えながら見ていた。あれは、メノウなのか?

「人の身に知ることは(あた)わぬ」

 冷徹な声音が荘厳さを帯びて響いた。すべての感情が萎える。それは魂を鷲掴みにされるような感覚として、その場に居合わせた者たちに刻まれた。

 ――空気さえ揺れなかった。

「これが極致」

 久遠の背後に立ったメノウは、茫漠とした表情で告げる。その動きは、直行はおろか、直人にさえ捉えることができなかった。否、彼女はほんとうに動いたのか?

 もはや驚きさえ許されぬ久遠の口から血が滴った。微かに揺れるメノウの黒髪から青い燐光が舞った。

「神域の御業」

 恐怖の果てに飽和した虚無と諦念に彩られた首が落ちる。落ちた首と残された体は、吹き散らされる灰のごとく、青い炎に包まれて急速に形を失っていく。

 その様を見届けるように睥睨していたメノウの瞳から、青い輝きが消えうせる。細い指先がほどけ、『桜花』が滑り落ち、乾いた音を立てた。

「メノウ!」

 痛みを無視して叫んだ直行の声は届いたのかどうか。少女の細い肢体が不安定に揺れたかと思うや、その場に崩れ落ちた。


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