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獅子と夜桜 前編

挿絵(By みてみん) 

未来のことなど、いったいどれくらいの人間が想像して生きているのだろう。十年後、二十年後、自分がどこで何をしているのか――そんなことを、鳳玲雄は柄にもなく考えていた。答えの出ない問いだ。だが今の玲雄には、それを考える以外にやることがなかった。

 警察を辞めて、ひと月。

 次に何をして生きていくのかも、まだ決めていない。

 そんな折、警察時代の元上司から連絡があった。

『どうせ暇してるんだろ。ちょっと手伝ってくれ』

 断るつもりだった。

 だが、

『行方不明の女子高生の捜索なんだ』

 その一言で、断りづらくなった。

 依頼そのものは、さほど珍しいものではない。少女の家族はすでに警察へ捜索を依頼しているが、手掛かりらしい手掛かりがない。それにただの行方不明では警察もそこまで本腰を入れて捜査をしない。そこで、元上司が経営する調査会社に話が回ってきたらしい。玲雄が聞き込みをしたのは、少女の友人だった。最後に少女から送られてきたというLINEには、こう書かれていたという。

『これから○○の門前町で働くことになった』

 店の名前もない。詳しい住所もない。ただ、門前町の名前だけ。

 それを頼りに、玲雄はここまで来た。

 正直、気は進まなかった。警察を辞めて、まだひと月だ。できることなら、あの頃のことは思い出したくない。それでも足を運んだのは、少女の行方がどうにも引っかかったからだ。理由を突き詰めれば、それだけのことだった。

「……本当に、ここなのか?」

 思わず声が漏れた。

 参道の両脇には、古びた家屋が並んでいる。土壁はところどころ崩れ、軒先には蜘蛛の巣が張っていた。商店らしき建物もいくつかあるが、どこも戸を閉ざしている。看板の文字は色褪せ、人の気配はほとんどない。女子高生が働き始めるような場所には、とても見えなかった。

 風もないのに、どこかの軒先で風鈴が鳴った。

 玲雄は足を止め、音のした方を見た。

 風鈴どころか、吊るすものすらない軒先だった。

「……」

 空耳か。そう自分に言い聞かせて、玲雄は再び歩き出した。だが、さっきよりも足取りは慎重になっていた。

 参道の先には、古い寺がある。もう少し歩けば、本堂が見えてくる頃だろう。そこまで行って何もなければ、今日は無駄足だったということにして帰る。そのつもりだった。

「……ん?」

 玲雄は足を止めた。

 参道の脇。木々の隙間から、細い道が伸びている。その先に、何かが見えた。

 トンネルだった。

 古い石造りの入口。その手前には一本のロープが張られ、白い札がぶら下がっている。

 ――通行禁止。

 玲雄は札を見つめた。警察官だった頃の癖が、勝手に頭をもたげる。立入禁止。人の寄りつかない場所。そして、こんな場所にわざわざ張られたロープ。

 単なる工事かもしれない。崩落の危険があるだけかもしれない。

 そう思いながらも、玲雄はすでに札の下を覗き込んでいた。気づけば手が、ロープに触れている。

 もし、あの少女がここへ来ていたとしたら。

「……まさかな」

 小さく呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 警察を辞めた今、勝手に立ち入る理由などない。分かっている。分かっていながら、玲雄はロープを跨いでいた。

 トンネルの中へ入る。

 暗い。昼間だというのに、内部にはほとんど光が届いていない。湿った空気が肌にまとわりつき、玲雄の足音だけが、妙に大きく響いた。

 一歩。また一歩。

 トンネルそのものは短かった。数十メートルもない。前方に、出口が見えている。

「……なんだ。すぐじゃないか」

 息を吐いた、その先で。

 出口から差し込む光が、次第に大きくなる。

 そして――。

 トンネルを抜けた。

「…………」

 玲雄は、言葉を失った。

 目の前に、巨大な日本家屋が建っていた。古い。何十年、いや、それ以上の時を経ているのかもしれない。黒ずんだ木の柱。大きな格子戸。長く伸びた軒。どう見ても、今の時代に建てられたものではない。

 だが、玲雄が絶句した理由は、それだけではなかった。

 提灯が灯っている。ひとつやふたつではない。建物の軒先から通りに至るまで、無数の提灯が吊るされ、赤や橙の光が眩しいほどに辺りを照らしている。

 人の声がする。笑い声。話し声。どこからか、三味線の音まで聞こえてくる。

 ついさっきまで、あれほど寂れていたというのに。ここだけは違う。まるで、ここだけ別の時代から切り取られてきたようだった。華やかで、どこか淫靡で、そして――生きている。

 玲雄はゆっくりと視線を上げた。建物の正面。そこには、古びた看板が掲げられている。達筆な文字で、こう書かれていた。

 ――常世楼。

「……遊郭?」

 玲雄の口から、呟きが漏れた。

 目の前には、巨大な遊郭が広がっていた。

 もう、引き返せる気がしなかった。

 ――そのことに、玲雄はまだ気づいていない。

「……こんなところに、遊郭?」

 玲雄は、改めて周囲を見渡した。聞いたことがない。今の日本に、こんなものが残っていること自体が驚きだった。しかも、よりによって――行方不明になった女子高生が、ここで働いているという情報を掴んだ直後である。

 遊郭。女子高生。この二つの言葉を並べてしまえば、あまり考えたくはないが、妙に話が繋がってしまう。

「……洒落にならないな」

 玲雄は小さく呟いた。考えるのは後だ。まずは確認する。

 目の前には、巨大な日本家屋が建っている。玄関だけでも、普通の民家とは比べものにならない。玲雄は一度だけ息を吐き、引き戸に手をかけた。

 がらり。

「おや」

 中には、初老の女がいた。和服姿。座卓の上に帳簿を広げ、何やら細かい文字を書き込んでいる。玲雄に気づくと、女はゆっくり顔を上げ、頭の先から足元まで眺めた。

「おや、お客かい。ちと早かないかい。もうちょっと後に――」

「ああ、いや。すいません」

 玲雄は慌てて手を上げた。

「ここに、この女の子が働いていませんか?」

 ポケットから写真を取り出す。行方不明になった女子高生の写真だった。

 女は写真を受け取った。そして――一瞬だけ、指が止まった。ほんの一瞬だった。

 玲雄が見つめる。だが、女は何事もなかったかのように写真を置いた。

「さぁね。見ない顔だよ」

 帳簿へ視線を戻す。

「あの……」

「あんた、この女になんか用かい?」

 玲雄は内心でため息をついた。面倒なことになった。警官だった頃なら、こういう時は警察手帳を見せればいい。それだけで、相手の態度が変わることは珍しくなかった。別に警察官が偉いと言いたいわけじゃない。ただ、警察手帳というものは便利だった。桜の御紋。あの小さな手帳を見せるだけで、人は少なくとも嫌な顔をしながらもしぶしぶ答えてくれる。

 警察を辞めたことに後悔はない。ないのだが、こういう時になると、あの紋章の偉大さを思い知らされる。今の自分は、ただの民間人だ。正確には、調査会社の調査員。それだけの肩書きで、相手が進んで情報を喋ってくれるほど世の中は甘くない。

 さて、どうするか。

 玲雄は少しだけ考えた。そして。

「いや、ここでこの女の子が働いているって話を聞きましてね」

「……」

「結構、ドストライクで」

 女の手が止まった。

「出来れば指名できないかなって」

 沈黙。数秒後、女は呆れたように玲雄を見た。

「嘘はよくないですよ。その風体、とても女を買いに来た人間には見えやしませんよ」

 ぐうの音も出なかった。自分でも分かっている。スーツは着ている。身なりも、そこまで悪くない。だが、目つきが鋭さ。にじみ出る圧迫感に似た雰囲気。辞めてまだひと月だ。警察官の匂いを誤魔化しきれない。

「まだまだ青い青い」

 女は煙管を取り出した。慣れた手つきで火をつけ、ゆっくりと煙を吸い込む。紫煙が、細く天井へ昇っていく。

「帰んな、兄さん。ここは、あんたが来るには十年早いよ」

「……十年?」

「そうさ。あんたみたいな若造が遊郭遊びなんざ、まだまだ」

 女は笑った。

「まあ、十年経ったって早いかもしれないけどね」

 玲雄が眉をひそめる。意味が分からない。だが、聞き返すより先に――。

「おかみさん」

 廊下の奥から声がした。玲雄が振り返ると、おかっぱ頭の少女が立っていた。十五、六歳くらいに見える。遊女というより、小間使い。そう思ったのは、着ている服のせいだけではない。少女には、客を迎える人間特有の華やかさがなかった。ただ、そこにいる。それだけだった。

「夜桜さんが、玄関の男を連れてきて欲しいって」

「客かい?」

「何も言ってなかった。ただ、連れてきて、と」

 女は煙管を咥えたまま、しばらく黙っていた。

「……また、あの子の気まぐれかい」

 困ったように息を吐く。

「いいさ。連れて行ってやんな」

 少女が頷いた。

「では、お客人。こちらに」

 少女が廊下の奥を指差す。玲雄は動かなかった。

 夜桜。誰だ。おそらく、この遊郭の遊女。それも、ただの遊女ではない。あのおかみの口ぶりからして、少なくともこの場所では特別な存在なのだろう。そして、その女が自分を呼んでいる。理由は分からない。だが、ここで粘ったところで、あのおかみが素直に情報を話してくれるとは思えない。それなら、呼んでいる本人に会った方が早い。何より、あの女子高生のことを知っている可能性がある。

「……分かった」

 玲雄は少女の後についていった。

 廊下は薄暗かった。古い木と畳の匂いがする。足を踏み出すたび、床が小さく軋んだ。ぎし、ぎし。玄関から、それほど離れてはいない。なのに、歩いているうちに、外の気配が少しずつ薄れていく。人の声が聞こえない。車の音もしない。風の音さえ、いつの間にか消えていた。

 玲雄は何度か後ろを振り返った。さっきまで見えていた玄関は、もう見えない。廊下を曲がったのだから当然だ。分かっている。分かっているのに、首の後ろが冷たかった。手のひらに、じっとりと汗が滲んでいる。

 玲雄はスマートフォンを取り出した。画面を見る。

 圏外。

 玲雄は無言でスマートフォンをしまった。

 少女は何も言わない。ただ、黙々と歩いている。階段を上がる。二階。そこからさらに廊下を進む。どれくらい歩いたのか。時間にすれば、ほんの数分だったはずだ。それなのに、妙に長く感じた。

 やがて少女が立ち止まる。一枚の襖の前だった。

「どうぞ」

 少女が襖を指差す。そして、襖に向かって声をかけた。

「夜桜さん、シロです。お客様をお連れしました」

 玲雄は少女を見る。シロ。それが名前なのか、それとも別の呼び方なのか。聞こうと思った。だが、その前に。

「入って」

 襖の向こうから声がした。女の声だった。澄んだような。けれど――どこか、底が見えなかった。静かな水面を覗き込んでいるのに、その下がどこまでも暗い。そんな声だった。

 玲雄は襖に手をかけた。そこで初めて気づいた。手が震えている。

「……」

 自分でも驚いた。何を緊張している。相手は女だ。しかも、遊女、言ってみれば商売女だ。何も恐れる事はない。玲雄は自分に言い聞かせた。それでも、指先の震えは止まらなかった。

 襖を引く。すう、と音もなく開いた。

 部屋の中にいた女を、玲雄は美しいと思った。それだけなら、別に珍しいことではない。美しい女など、世の中にはいくらでもいる。

 だが、あの女は座っているだけなのに、部屋の空気が違った。灯りは同じはずなのに、彼女の周りだけ、まるでスポットライトが彼女に当たっている錯覚を覚えるほど彼女の存在感は別格に見えた。

 静かにこちらを見つめる瞳と、目が合う。

 その瞬間、玲雄の頭から、ほんの一瞬だけ行方不明の少女のことが消えた。そして、そのことに玲雄自身が驚いた。

 女は、ゆっくりと口を開いた。

「――待っていたわ」



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