Episode.02 内気な同級生②
昇降口に近づくにつれ、湿り気を帯びたコンクリートの匂いと、生徒たちが発する熱気が混ざり合った独特の喧騒が、静まり返っていた校舎の端から漏れ聞こえてきた。
――急な春の雨。
それは、準備を怠った生徒たちを足止めし、薄暗い玄関口に奇妙な停滞を生んでいた。
そこには、一際目を引く一団が固まっていた。
「あ、お兄ちゃん!」
僕の姿を認めるなり、弾けるような声を上げたのは、妹の相澤澪だ。
彼女の隣には、袴姿ではなく制服に身を包んだ鳴瀬凪が、少し困惑したような表情で立っている。
二人は一本の傘を共有し、澪が凪の腕を強引に抱きしめるような形で、密着した相合傘の構図を完成させていた。
澪は、僕と、そして僕の隣にいる見慣れない少女――詞條さんの存在を認めると、その双眸をわずかに細めた。
「……お兄ちゃん。……その人、だぁれ?」
澪の問いかけは、愛くるしさを含みながらも、その奥底に、ドロドロとした何かが滲んでいた。
「ああ、彼女は詞條詩織さん。妙の友達なんだ」
僕が紹介すると、詞條さんは「……っ!」と喉を鳴らし、文字通り澪と凪の視線の刃に射抜かれて、逃げ場のない小動物のように僕の背後に隠れた。
震える指先が、僕の制服の裾を、消え入りそうな力で掴む。
「あらあら、相澤君。また随分と……守ってあげたくなるような『小鳥さん』を連れているじゃない」
その背後から、艶やかな、それでいてどこか毒を含んだ声が響く。
七ツ海高校の生徒会長、蓮見遥先輩だ。
彼女の隣には、不機嫌を絵に描いたような表情の妹、蓮見秤が立っている。
秤の手にはしっかりとしたビニール傘が握られていたが、遥先輩は手ぶらだった。
「姉さん、わざとやってるでしょ。予報見てたんだから、傘持ってないはずないじゃない」
「あら、心外ね。私はただ、可愛い妹との相合傘を楽しみたかっただけなのに。……でも、秤はつれないんだもの。……ねえ、妙子ちゃん?」
遥先輩は、秤の制止をさらりとかわすと、あろうことか僕の隣にいた小鳥遊妙子に背後に回り込み、抱きついた。
「……ひゃっ!? ちょ、遥先輩!?」
「ふふ、いいわね。妙子ちゃんは、見た目以上に、おっぱいが大きいわね。着痩せするタイプなのかしら? ……これはなかなかのものをお持ちですな〜。……相澤君、君はこんな幼馴染を持って、果報者ね?」
遥先輩が、見せつけるように妙子の胸を揉みしだきながら、こちらを見てくる。
あなたの大切な人間を汚されたくなかったら、私に靡きなさいとでも言いたげな表情。
「……先輩、妙にちょっかいかけるのやめてください」
僕が遥先輩へさらに棘のある言葉で追撃しようとした時に、妙子が「ありがとう、でも大丈夫だよ」と目配せしてくる。
遥先輩は僕たちのそのやりとりを見て、さらに嗜虐心を燃やしたのか、優雅な笑みを浮かべながら、おっさんのような下世話な台詞を吐き捨て、そのまま妙子を自分の傘代わりにするように、強引に相合傘を作っていく。
秤は姉のあまりの狼藉に頭を抱え、引き攣った表情を浮かべつつも、「……小鳥遊さん、ごめんなさい。うちの姉さんが……」と申し訳なさそうに、姉の暴走を止めるべく二人を追いかけていった。
結果として、雨の帰り道は奇妙な陣容となった。
前を行くのは、澪と凪の、親友同士の相合傘ペア。
その少し後ろで、遥先輩に弄ばれる妙子と、それを必死に諫める秤の三人組。
そして、最後尾に取り残されたのが、自分の傘をそれぞれに差した、僕と詞條さんだ。
――静かだ。
前方の騒がしさが、雨音にかき消されて遠くに感じる。
僕は、この感覚に覚えがあった。
前世の、飲み会の後の二次会への移動。
仲の良い同僚たちが前を歩き、自分はそれほど親しくない同僚と、何を話せばいいのか分からず、ただ足元を見つめて歩く、あの胃が痛くなるような気まずさ。
でも不思議と、彼女を隣を歩いていると、あの痛みは襲ってこない。
彼女からは安心できる空気が漂っている。
17歳の京なら、この沈黙に耐えきれず、無理に明るい「セクハラ」紛いの話題を振って自爆していただろう。
「……詞條さん。今日は部活もお休みだし、本当ならゆっくり本を読んでいたかったよね」
僕が努めて優しく声をかけると、詞條さんは驚いたように顔を上げた。
彼女の細い肩が、雨の冷気にわずかに震えている。
彼女は立ち止まり、震える指先でガラケーを叩き始めた。
カチカチ、カチカチ。
プラスチックの乾いた音が、規則正しく雨音に混ざる。
やがて、彼女は言葉を失った唇を噛み締めながら、画面を僕に突きつけた。
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いいえ。雨の日は、嫌いではありません。
文字以外の音がすべて、この雫の下に埋葬されていくから。
貴方と、こうして歩いている時間も。
何だか、誰にも読まれていない一冊の『詩集』の中に、
迷い込んでしまったみたいです。
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その、美しすぎる文学的表現に、僕は息を呑んだ。
対面では一言も発せない少女の内に、これほどまでに豊かな、色鮮やかな言葉の海が広がっている。
「詩集、か。詞條さんの言葉は、本当に綺麗だね。……さっき読んでいた本も、そういった類のものだったの?」
僕の問いに、彼女の目が、ぱっと花が開いたように輝いた。
彼女は再び、憑かれたように文字を打ち始める。
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はい。古い詩集を。
「汚れつちまつた悲しみに」。
私の、この形のない感情を、誰かが言葉にしてくれているようで。
相澤君は、詩を読みますか?
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画面越しに繰り広げられる、饒舌な対話。
彼女の指先が、僕という人間を「理解者」として認識し始めた瞬間なのだろうか。
雨は、二人の間の境界線を、ゆっくりと、けれど確実に溶かし始めていた。
前方で、遥先輩に抱きつかれて悲鳴を上げる妙子の声も。
澪が凪に向ける、友愛の籠った視線も。
今の僕たちの間には、一滴の雫すら入り込む余地はないように思えた。
―――――あとがき―――――
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