Episode.01 内気な同級生①
―――――まえがき―――――
今作はカクヨムの方で110話ほど先行公開しております。
小説家になろう様のプロフィールにリンクがあるので、もし気になる方がいらっしゃればチェックしてみてください。
今作はカクヨムの日間・週間・月間の部門ランキング1位、総合は7位でした。
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四月の第一週、土曜日。
春という季節が持つ、独特の湿り気を帯びた微温的な風が、校舎の長い廊下をあてもなく彷徨っていた。
午前中の臨時授業を終えた放課後。
いつもなら吹奏楽部が奏でる音や、グラウンドから響く硬球の打球音が、この巨大な校内を満たしているはずだった。
だが今日は、学校側の都合で部活動が全面的に休止となっている。
主を失った廊下は、窓から差し込む斜光に埃を躍らせ、深海のような静寂を湛えていた。
自分の上履きが床板を叩く音だけが、等間隔に、執拗に、世界の鼓動を刻んでいる。
「……あ、ごめん京くん! 教室に教科書忘れちゃった。ちょっとだけ、付き合ってくれる?」
隣を歩く幼馴染、小鳥遊妙子が申し訳なさそうに眉を下げ、両手を合わせて拝むような仕草を見せる。
僕は「いいよ、別に。急ぐ用事もないから」と、短く応えた。
今の僕にとって、十代の少女の気まぐれに付き合う時間は、決して苦痛ではない。
むしろ、かつての人生で失い、二度と手に入らないと思っていた「無為な時間」こそが、今の僕には何よりの贅沢に感じられた。
化学準備室でクラス委員長の蓮見秤に足湯マッサージを行うわけでもなく、弓道場で鳴瀬凪の弦音に耳を澄ますでもない。
ただ、幼馴染の歩調に合わせて、静かな校舎を歩く。
そんな昼下がりも、悪くはないと思っていた。
2-Cの教室の扉を、妙子が遠慮なく横に引く。
乾いた木材が擦れる音と共に、四月の光に満ちた空間が露わになった。
――その瞬間。
僕の視界は、窓際の一角に座る一人の少女によって、強引に奪い去られた。
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対象:詞條 詩織
学年:2年 誕生日:11月1日
血液型:AB型 身長:168cm
好感度:??? / 100[状態:???]
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詞條詩織。
『Sweet Kiss』で蓮見遥たちと並ぶ、王道ヒロイン。
本来であれば、四月の二週目の『図書室』イベントで初めて顔合わせのはずだが……。
彼女は、クラスの喧騒が去った後の無機質な教室で、たった一人、自らの周囲に「沈黙」を張り巡らせていた。
春の淡い陽光が、彼女の細い指先を透かし、膝の上に置かれた古い文庫本の紙面を白く飛ばしている。
彼女の存在そのものが、まるで、音のない世界から迷い込んできた迷子のように儚い。
耳にかかった一房の髪が零れて、微かな風に揺れ、彼女の白い項を撫でる。
妙子が「あ、詩織ちゃーん!」と、その完成された静謐を遠慮なく踏み抜くように声を上げた。
――びくり、と。
少女の肩が、まるで冷たい水を浴びせられたかのように大きく跳ねた。
彼女は恐る恐る、何かに怯える小動物のような仕草でゆっくりと顔を上げた。
「……妙子ちゃ――」
そして、僕と目が合った。
その瞬間、世界の時間が止まったような錯覚に陥る。
彼女の瞳は、潤んだ硝子玉のように澄み渡り、そこには言葉にならないほどの困惑と、圧倒的な拒絶に近い緊張が混ざり合っていた。
白磁のように白かった彼女の頬が、見る間に朱を差したように染まっていく。
耳朶まで真っ赤になり、細い首筋にうっすらと浮き出た血管が、彼女の激しい鼓動を物語っていた。
「……っ!」
彼女の唇が微かに震え、音にならない吐息が零れる。
言葉を紡ごうとして、その機能が完全に麻痺してしまったかのような、絶望的な沈黙。
彼女は、逃げ場を失った獲物のように視線を彷徨わせ、やがて救いを求めるように、机の下から一台のガラケーをひったくった。
カチカチカチカチ――ッ!
教室の静寂を切り裂く、異様なまでに速いボタンの打鍵音。
彼女の指先は、まるで狂おしい祈りを捧げるかのように、小さなプラスチックの鍵盤を叩き続ける。
ゲーム内と同じ、彼女の所作。
それは、対面でのコミュニケーションを一切放棄した彼女が、世界と繋がるための唯一の「翻訳機」だ。
「あはは、びっくりしたよね、京くん。詩織ちゃん人見知りで、……人と目が合うと、頭の中が考え事で埋め尽くされちゃうんだって」
顔を真っ赤にした彼女が、自分のガラケーを僕たちの目の前に差し出した。
そこには、彼女の、送信前の「下書き」の断片が、赤裸々に映し出されていた。
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初めまして、相澤君。
私は、詞條詩織という者です。
小鳥遊さんから、お名前は、ずっと。
実物は、写真よりもずっと、その、大人びて、おられますね。
私、人と話すのが苦手で。
貴方を、不快にさせて、いないでしょうか。
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本人の目の前で、本人の感想を、血の通った文字として読まされる。
それは、直接耳にする言葉よりもずっと重く、逃げ場のない熱量を持っていた。
彼女の綴る言葉は、どこか古風で、それでいてひりつくような自意識に満ちている。
――知らない相手の前だと、声が出ない。
けれど、文字には彼女の激しい体温と、張り裂けそうな自意識が宿っている。
その真っ直ぐすぎる「文字の視線」に、不意に初々しい動悸を覚えた。
「不快なんて、とんでもない。……詞條さん、こちらこそ驚かせてしまって、ごめんね」
僕が努めて穏やかに、彼女の「結界」を壊さないよう慎重に言葉を投げかける。
彼女はさらに深く項垂れ、指先を真っ白にさせながら、再びガラケーを連打し始めた。
その姿は、あまりにも脆く、今にも砕け散ってしまいそうなほど繊細だ。
彼女の殻の中から漏れ出す、文字という名の雫。
それが、僕の乾いた日常の表面に、波紋を広げていく。
窓の外では、春の終焉を告げるような急な雨が、アスファルトを黒く染め、世界を雨の檻に閉じ込め始めていた。
彼女は、消え入りそうな動作で何度も首を振り、震える手で教科書をカバンに詰め込む。
沈黙と文字。
視線と動悸。
雨の音にかき消されそうなほど小さな彼女の気配が、僕の意識の半分を占拠し始めていた。
妙子に促され、三人は湿り気を帯びた廊下へと足を踏み出す。
これから昇降口で待ち構えている、あの嵐のようなヒロインたちの交錯。
そして、この「言葉を持たない少女」が抱える、深すぎる情熱。
その全てを、僕はまだ、予感することしかできなかった。
―――――あとがき―――――
今作をここまで読んでいただき、誠にありがとうございます。
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