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Episode.02 真面目な後輩②

放課後のチャイムは、僕にとって戦開始の合図のようなものだ。


同じクラスの委員長である蓮見秤(はすみはかり)が、こちらに視線を送って「今日も、わかってるわよね?」と目配せしてくる。


帰り支度を先に整えてから、賑わう教室を後にし、僕は慣れた足取りで化学準備室へと向かう。


扉を開けると、そこには既に「彼女」が立っていた。


「――遅いわよ、相澤くん」


優等生から女王へ。


蓮見秤は、窓際で腕を組み、夕闇が混じり始めた光の中で僕を睨みつけていた。


手元には、昨日僕が彼女の肩にかけた制服の上着が、驚くほど丁寧に畳まれて置かれている。


「ごめん。少し、放課後の予定を整理していたんだ」


「……ふん。どうせ、あの幼馴染でしょ?」


秤は椅子に深く腰掛け、傲慢に足を組む。


漆黒のタイツに包まれたその曲線は、今日も完璧に整えられている。


だが、前世で社会の荒波を経験した僕の目は誤魔化せない。


その足首の僅かな張りが、彼女が今日一日、どれほど「完璧な委員長」を演じるために神経を削り、「重圧」に耐えたかを物語っていた。


「さあ、始めなさい。……今日は、昨日よりも念入りに『奉仕』してもらうわよ。……じゃないと、この上着、返してあげないから」


彼女は頬を微かに染めながら、そっぽを向いて呟く。


――支配欲。


そして、昨日の「休息」の味が忘れられないという、子供のような渇望。


僕は苦笑しながらバケツにお湯を汲み、彼女の前に膝をついた。


「わかったよ、秤さん。……でも、今日は少し手短にさせてもらうよ。この後、弓道場に『先約』があるんだ」


「弓道場? ……もしかして、昼休みに来てた一年の鳴瀬凪(なるせなぎ)?」


秤の瞳が、鋭く細められた。


流石は学園の情報を握る委員長だ。


僕が昼休みに凪と話していたことなど、既に把握済みらしい。


「あの子も……自分を律しすぎて、いつかポッキリ折れそう。……っていうか、アンタって年下好きだったの?」


彼女は忌々しいものでも見るみたいに、蔑みを含んだ瞳をこちらに向けてくる。


「別に、そういうんじゃないよ。ただ、手伝いが必要だっていうからさ」


僕は彼女のタイツをゆっくりと脱がせ、熱いお湯の中にその足を沈めた。


「……っ、ん……。……相澤、くん……。……あんな女より……私の方が、ずっと……」


お湯の熱と、僕の指が土踏まずのツボを捉えた瞬間、彼女の毒舌は甘い吐息へと溶けていった。


昨日よりも早く、彼女の防衛本能が瓦解していく。


「……秤さん。君は十分頑張ってるよ。……だから、今だけは僕に体重を預けていい」


社畜時代に磨き上げた指圧を始める。


「……バカ……。……本当、アンタって……最低っ……」



――三十分後。



完全に骨抜きにされ、僕の上着を抱きしめたまま夢心地で椅子に沈んでいる秤を準備室に残し、僕は弓道場へと急いだ。


背後で「……次は、もっと早く来なさいよ!」という、消え入りそうな強がりの声が聞こえた気がした。



 ◆



武道館の裏手に位置する弓道場は、校内の喧騒から切り離された別世界だった。


板張りの床から漂う、古い木の匂い。そして、張り詰めた空気。


――道場の中央。


そこには、道着の袴姿に身を包んだ鳴瀬凪(なるせなぎ)が独り、佇んでいた。


彼女が手にしている弓を見た瞬間、僕は息を呑んだ。


「……え?」


僕が「形だけ」一ヶ月間かじった弓道。


あの時、僕が見ていた初心者用の弓は、せいぜい10kg程度の「竹の棒」のように感じられたものだ。


だが、今、凪が握っているそれは、もはや「弓」という概念を超えた、黒光りする鉄の構造体のように見えた。


漆塗りの漆黒の弓。


「お疲れ様です、相澤先輩。……お待ちしていました」


凪が静かに振り返る。


彼女の細い腕。一見すれば華奢なその少女が、その「異質」な弓を、事もなげに携えている。


「鳴瀬さん。……その弓、随分と……立派に見えるんだけど」


「……これですか? ええ。京都の職人に作ってもらった特級品です。十五、六歳の女子が引く弓ではありませんね。……弓力(きゅうりょく)は、22kgありますし」


弓力とは、弓を引く際に必要な力のことだったはず。


「……22kgって成人男性用じゃ」


「この程度なら、七割くらいの筋力で引けますよ? いつか30kgの弓が引けるようになれたらいいなと、思っています」


僕は絶句した。


通常、女子の部員が引くのは12kgから14kg程度だ。


20kgを超える弓は、筋骨隆々の成人男性、それも相当な高段者が扱う代物のはずだ。


これを、彼女は片手で支え、さらには全身の力で引き絞るというのか。


妹と同じく華奢な身体に見えるが、彼女の筋力は相当のものらしい。


「……これくらい引けなければ、30kgの弓(浪漫砲)は夢のまた夢ですから」


冗談めかしてそう言うと、彼女は準備を始めた。


僕は弓道場の厳かな雰囲気に気圧されながら、後方のスペースに、ちょこんと座る。


他の部員は見当たらない。静寂が流れる弓道場。


スゥ、と。


彼女の肺が、道場の空気を飲み込む。


「足踏み」から「胴造り」。


そして「打起し」。


ゆっくりと、その22kgの弓が引き絞られていく。


ミ、ミ、と。弦が悲鳴を上げ、弓全体が極限の緊張を孕んで撓んでいく。


凪の腕の、美しい筋肉が僅かに浮き出る。


それは、僕の視界を、強烈な「武」の威圧感で塗り替えていく光景だった。


――(かい)


矢が、今まさに放たれようとする静寂。


だが、その瞬間。


凪の眉が、僅かにピクリと震えた。


「……っ!」


――バチンッ!!


鼓膜を叩くような、暴力的な衝撃音。


放たれた矢は、(まと)を狙うどころか、安土(あづち)(まと)のある盛り土)の遥か上、防矢ネットを激しく揺らした。


「……はぁ、はぁ……っ」


凪の手が、幽霊のように弦から離れ、震えている。


「……やっぱり。……まだ、早気(はやけ)です……」


彼女は、膝から崩れ落ちるようにして、自分の震える右拳をじっと見つめていた。


22kgという弓を軽々と引く力がありながら、彼女は、自分の「心」だけは制御できずにいた。




―――――あとがき―――――

今作をここまで読んでいただき、誠にありがとうございます。

少しでも続きが気になった方は、モチベーションに繋がりますので、

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