Episode.01 真面目な後輩①
―――――まえがき―――――
今作はカクヨムの方で110話ほど先行公開しております。
小説家になろう様のプロフィールにリンクがあるので、もし気になる方がいらっしゃればチェックしてみてください。
今作はカクヨムの日間・週間・月間の部門ランキング1位、総合は7位でした。
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窓の外では、春の陽光に誘われた虫たちが力なくダンスを踊っている。
昼休みの教室は、購買のパンを争奪した生徒たちの凱旋と、色恋沙汰にうつつを抜かす生徒の喧騒で、煮え切らない鍋のような熱気を帯びていた。
僕は自分の席で、午後の古典の予習……という名目の、明日、妙に渡す夕食のお弁当の献立案をルーズリーフに書き連ねていた。
独身貴族時代、僕の唯一の贅沢は「自分を甘やかしつつも健康にも配慮した自炊」だった。
昨日は和食だったから、今日は少し趣向を変えて、洋食の技法を取り入れた「冷めても美味しいハンバーグ」にしようか。
タネに飴色まで炒めた玉ねぎだけでなく、隠し味に味噌と塩麹を練り込めば、冷めても肉質が硬くならない。
妙がおいしそうに食べている姿を想像する。
そんな、平和極まりない「一人作戦会議」をしていた時だ。
「――おーにーいー、ちゃんっ!!」
鼓膜を突き抜けるような、それでいて甘ったるい粘り気を含んだ声が教室の入り口から響いた。
喧騒が一瞬だけ静まり返る。
クラス中の男子の視線が、入り口へと一斉に収束した。
無理もない。
そこに立っているのは、高校一年の中でも一、二を争う美少女として知られる僕の妹、相澤澪だったからだ。
澪は、髪を揺らしながら、僕の席まで一直線に駆けてくる。
その後ろから、対照的に静かな足取りで付いてくる少女が一人。
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対象:鳴瀬 凪
学年:1年 誕生日:7月7日
血液型:A型 身長:165cm
好感度:10 / 100[状態:親友のお兄さん]
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……鳴瀬凪。
僕はペンを置いた。
鳴瀬凪。一年生で弓道部。
伝説のギャルゲー『Sweet Kiss』のヒロインの一人。
今作の女性キャラは、実質的に攻略不可な相澤澪と特定の条件を達成しないと出現しないシークレットキャラも含めて、全七人。
相澤澪、蓮見遥、小鳥遊妙子、蓮見秤に続く、五人目。
凪は腰まで届きそうな艶やかな黒髪を、機能的に、けれどどこか気高くポニーテールにまとめ、切れ味の鋭い涼しげな瞳が印象的な少女だ。
彼女が歩くだけで、周囲の温度が二、三度下がるような錯覚を覚える。
まるで、触れれば指が切れるような、研ぎ澄まされた日本刀のような静謐さ。
「澪。……それに、鳴瀬さんも。どうかした? 僕のクラスに二人揃ってなんて」
「えへへ、お兄ちゃん、お疲れ様! 邪魔しにきちゃった」
澪は僕の腕に迷いなく抱きつくと、その胸の感触を押し付けるように擦り寄ってきた。
ここはギャルゲーの世界。
これはあくまで「妹のスキンシップ」の範疇……と言い聞かせたいところだが、最近、澪の距離感が以前よりも近くなっている気がする。
「あの、相澤先輩。……お騒がせして、申し訳ありません」
凪が、一歩引いた位置で深々と頭を下げた。
敬語。
他者との間に、目に見えない強固な壁を築くことで自分を守っているような、そんな印象を受ける。
『Sweet Kiss』の設定上、彼女は「孤高の努力家」として登場する。
だが、その内側には、中学時代に経験した「早気」という深い傷を抱えていることを、僕は知っている。
早気というのは、弓道において、矢を放つ前の最終段階である「会」を十分に保てず、意図したタイミングよりも早く矢を放ってしまう心理的・身体的な射癖のことだ。
凪が澪と一緒に主人公の元へと部活の助っ人を探してやってくるというのも、原作のギャルゲー通りのイベント。
「いや、構わないよ。それで、何か相談? 二人の顔を見る限り、ただ遊びに来たわけじゃなさそうだけど」
僕がそう問いかけると、澪が「そうなの!」と身を乗り出した。
「実はね、凪ちゃんの弓道部が大変なの。新入部員が少なすぎて、矢拾いとか、雑用をしてくれる人が全然足りないんだって。それで、凪ちゃんがずっと一人でやってて、澪も手伝いたいんだけど……」
「……お母様から、放課後のお使いを頼まれているんだよね? 澪」
凪が静かに補足する。
澪は「そうなのー! お肉屋さんとスーパーと、あとクリーニング屋さんも! 澪がいないと家が回らないんだもん!」と頬を膨らませた。
確かに、僕たちの母親は昼間働きに出ているから、家事は僕や澪が担っている部分がある。
特に今日のような特売日は、澪という「最強の家計管理者」の出陣が不可欠なのだろう。
「それでね、凪ちゃんが困ってたから、澪が『お兄ちゃんなら絶対手伝ってくれるよ!』って言ったの。ね、お兄ちゃん。凪ちゃんを助けてあげて?」
澪の瞳が、期待に満ちて輝いている。
……だが、輝きの中に、ドロドロとした何かが生まれた。
彼女の瞳のハイライトが、フッと消えたのを僕は見逃さなかった。
「……凪ちゃんと、私と、お兄ちゃんで……」
澪の口元が微かに動き、何やら物騒な単語が呪文のように溢れ出している。
僕と凪には「ぶつぶつ」という独り言にしか聞こえないが、その場の空気が一瞬で凍りついた。
鳴瀬凪が引きつった笑みを浮かべながら、僕に視線を送ってくる。
「……あの、相澤先輩。澪のことは気にしないでください。お兄さんのことになると時々、こんな風になるんです」
「……そ、そうなんだ」
僕は気を取り直して、凪に向き直った。
「僕でよければ、弓道部の手伝いくらい喜んで受けるよ。ちょうど放課後は、『用事』が終われば暇だったからね」
「……本当、ですか? 先輩は、部活動もされていませんし、貴重な放課後を潰してしまうことになりますが」
「いいんだ。それに、弓道には少しだけ『縁』があるしね」
僕は、前世の記憶を掘り起こした。
ゼロから何か新しいことを始めてみようと思い、弓道を習ったことがあった。
弓道場で先生に教えてもらいながら、通販でゴム弓を買い、ネットの動画を見ながら、鏡の前で「足踏み」から「胴造り」までを練習する毎日。
……だが、結局、本物の弓を引く前に、一ヶ月で飽きてしまった。
「挫折した身」というには、あまりにも情けない経験だが、それでも、弓道という武道が持つ凛とした空気感だけは嫌いではなかった。
「……縁、ですか?」
凪の瞳が、わずかに揺れた。
彼女は、今世で僕が中学時代に澪に連れられて、彼女の大会を見に行ったことを覚えているのだろうか。
いや、あの頃の僕は、彼女にとって「澪の、少し頼りないお兄ちゃん」でしかなかったはずだ。
中学2年の頃、会場に響いた甲高い弦音。
静寂を切り裂くような、あの美しい音。
中学3年の大会で、彼女が「早気」によって崩れ落ち、仲間から「あんたのせいで負けた」という冷たい言葉を浴びせられていた姿も、僕は見ていた。
転生前の僕は、ただ遠くから彼女を哀れむことしかできなかったけれど。
「ああ。……それに、鳴瀬さんの射を、もう一度近くで見たいと思ったんだ」
僕がさらりとそう告げると、凪の白い頬が、一瞬だけ、桜色に染まった。
彼女は動揺を隠すようにポニーテールを整え、再び視線を逸らす。
「……私の射など、もう見る価値はありません。……今は、ただの壊れた弓引きですから」
自嘲気味な言葉。
彼女の硬い言葉の裏側に、癒えていない傷跡が見えた。
「価値がないかどうかを決めるのは、僕自身だよ。……手伝い、させてくれるかな?」
僕が、高校生にしては大人びた微笑みを向けると、凪はしばらく黙り込み、やがて小さく、けれど確かに頷いた。
「……わかりました。放課後、弓道場でお待ちしています。……よろしくお願いします、相澤先輩」
彼女が去っていく。
その背中を見送りながら、僕は自分の腕に絡みついている澪に視線を戻した。
澪は、再びハイライトの消えた目で、僕の顔をじっと見つめている。
「……お兄ちゃん。まさか、凪ちゃんのこと、気になってる?」
「まさか。ただの手助けだよ、澪」
「……ふーん。……そうなんだ」
澪は僕の耳元で囁くと、狂気的なまでの笑みを浮かべて教室を後にした。
一人取り残された僕は、深い溜息を吐き、書きかけのハンバーグのレシピに目を落とした。
……弓道、か。
一ヶ月で挫折した僕に何ができるかはわからないが、少なくとも、あの時聞いた美しい弦音を、彼女が自分自身で否定し続ける姿だけは、見ていられないと思った。
放課後。まずは化学準備室で「優等生」の足を解してから、道場へ向かうことにしよう。
波乱の予感しかしない放課後が、すぐそこまで迫っていた。
―――――あとがき―――――
今作をここまで読んでいただき、誠にありがとうございます。
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