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Episode.02 ギャルゲー世界転生②

視界の端で、赤い警告灯のような文字がちかちかと明滅している。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 [警告] 生成された選択肢を逸脱しました。好感度:測定不能 → 減少(判定中)

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


そんな無機質な文字列を網膜に焼き付けながら、僕は目の前にいる妹――「相澤澪(あいざわみお)」という名の少女を凝視していた。


「……最高の朝、って。お兄ちゃん、やっぱり頭打ったでしょ」


澪は呆れたように肩をすくめた。


けれど、その唇の端はわずかに緩んでいる。僕がいつものように「うるさいな」と突き放すのではなく、どこか晴れやかな顔で挨拶を返したことが、彼女にとっては意外であり、同時に少しだけ嬉しかったのだろう。


その感情の揺らぎが、ドットの集合体ではない「肉体」を通じて伝わってくる。


彼女が僕の腕を掴んでいる指先の熱。


パジャマ越しに伝わる、少女特有の華奢な骨格の感触。

そして、シャンプーの微かな、林檎のような甘い香り。


これらはすべて、僕がかつてブラウン管の向こう側に幻視していた「記号」ではない。


「ほら、さっさと着替えて! お母さんがもう朝ごはん作って待ってるんだから。今日の焼き魚、お兄ちゃんの好きなアジの開きだよ」


澪は僕の背中をぐいぐいと押し、部屋の隅にあるクローゼットへと追いやった。


その一挙手一投足が、あまりにも「妹」だった。


ゲームにおける澪は、主人公プレイヤーを学校へと送り出すための、いわばチュートリアル・ナビゲーターのような存在だ。


全ルート攻略後のシークレット対象という設定はあったが、物語の本編において、彼女は常に「兄の背中を見送る側」に徹していた。


だが、今僕の背中を押している彼女の手のひらからは、そんな設定以上の「重み」を感じる。


彼女は、僕という人間がこの世界で欠落しないように、必死に日常のレールへと繋ぎ止めようとしている――そんな切実ささえ、今の僕には感じられた。


「わかった、わかったから。自分で行けるって」


苦笑いしながら彼女の手を優しく()ねのける。


その瞬間、またしても視界にウィンドウが割り込んだ。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

[システムメッセージ]

不規則な接触を検知。

サブヒロイン:相澤 澪 のフラグ管理を再構築中……

【分岐予測:依存/献身/……崩壊】

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「崩壊……?」


不吉な単語が脳裏をよぎる。


そうだ。僕は知っている。


この『Sweet Kiss』というゲームの、表向きの爽やかさの裏に隠された、設定資料集にだけ記されていた「残酷な真実」を。


このゲームのヒロインたちは、皆、致命的なまでの「欠落」を抱えている。


完璧な生徒会長も、天真爛漫な幼馴染も、優等生なクラス委員長も。


彼女たちが抱える闇は、本来なら高校生一人の手に負えるようなものではない。


ゲームでは、主人公が「正しい選択肢」を選び続けることで、奇跡的にその闇が払われることになっていた。


だが、もし選ばれなかったら? もし、主人公が彼女たちに関わらなかったら?


その結末は、決して「めでたしめでたし」では終わらない。


「お兄ちゃん、何ブツブツ言ってるの? 早く、ほら、制服!」


澪がクローゼットから引っ張り出してきたのは、見覚えのある紺色のブレザーだった。


七ツ海市立高等学校。


かつて、僕がその校章を自分のノートの隅に模写したこともある、憧れの制服だ。


僕はそれを受け取り、ゆっくりと袖を通した。


生地の感触。少し硬い襟元が首に当たる感触。


ボタンを一つずつ嵌めていくたびに、僕の意識は「現代の疲れ果てた男」から、「この物語の当事者」へと強制的に上書きされていく。


ふと、部屋の壁にかけられたカレンダーが目に入った。


――四月。


物語が始まる、運命の一ヶ月。


僕は机の上の鏡を覗き込んだ。


そこには、十七歳の僕がいた。


少し寝癖のついた髪、まだ何者にも染まっていない、どこか頼りなげで、けれど強い意志を秘めた瞳。


相澤京(あいざわけい)


この世界の「主人公」としての器。


「……よし」


鏡の中の自分に向かって、小さく呟く。


僕は、この「相澤京」という役を演じるつもりはない。


僕は、僕だ。


この世界を愛し、慈しみ、けれどその美しさを「所有」することで汚したくないと願う、一人のファンだ。


だからこそ、僕は「システム」が提示するあざとい選択肢には屈しない。


好感度を稼ぐための甘い言葉も、フラグを立てるための作為的な行動も取らない。


僕は、彼女たちの「人間」としての尊厳を守るために、ここにいる。


「……待っててくれ、みんな」


脳裏に浮かぶのは、七人のヒロインたちの顔だ。


これから出会う、あるいは再会する、彼女たち。


ゲームの画面越しには見ることができなかった、彼女たちの「本当の涙」や「本当の絶望」が、この街のどこかに確実に存在している。


完璧さの裏で、手応えのなさという虚無感を抱える蓮見遥(はすみはるか)


笑顔の仮面の下で、家族の重荷に押しつぶされそうになっている小鳥遊妙子(たかなしたえこ)


彼女たちが直面している現実に、僕は「主人公」としてではなく、「一人の友人」として向き合いたい。


「お兄ちゃーん! 先に行っちゃうよー!」


階下から澪の叫び声が聞こえる。


僕はカバンをひっつかみ、部屋を飛び出した。


階段を駆け下りる足音が、木造の家の中に心地よく響く。


リビングに入ると、そこにはテレビから流れるニュースの音と、台所で立ち働く母親の背中があった。


すべてが、あまりにも完璧な「日常」だった。


食卓に座ると、目の前には宣言通りアジの開きが置かれていた。


立ち上る湯気。醤油の焼けた香ばしい匂い。


箸を割り、一口運ぶ。


「……おいしい」


自然と声が漏れた。


前世で食べていた、コンビニの冷めた弁当とは比較にならない、命の味がした。


「何言ってるのよ、いつもと同じでしょ」


母さんは笑いながら、僕の茶碗に二杯目のご飯を盛ろうとした。


その穏やかな光景の中にも、視界の端には常に「データ」が浮かんでいる。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

対象:母(相澤 恵子(あいざわけいこ)

 状態:【息子の食欲に満足】

 好感度:MAX

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


この世界は、徹底的にシステム化されている。


僕が何を言い、何をなすか。


そのすべてが、透明な計算式によって処理され、結果として出力される。


だが、僕は知っている。


計算式には、必ず「誤差」が生じることを。


そして、その誤差こそが、人間が人間であるための証明なのだということを。


「ごちそうさま。……行ってくるよ」


僕は席を立った。


まだ一口残っていた味噌汁を飲み干し、玄関へと向かう。


「あ、待ってお兄ちゃん! 私も一緒に行く!」


澪が慌ててパンを咥えたまま追いかけてくる。


玄関の扉を開ける。


その瞬間、僕の全身を、鮮烈な光が包み込んだ。


――あぁ。


思わず、目を細める。


そこには、僕が夢にまで見た「坂の街」が、どこまでも鮮やかに、残酷なほど美しく広がっていた。


朝の光を浴びて白く輝くコンクリートの坂道。

家々の軒先に咲く色鮮やかな花々。

そして、坂を下った先に広がる、吸い込まれるようなコバルトブルーの海。


空は、雲一つない快晴だ。


空気はひんやりとしていて、けれどその奥に、春の訪れを予感させる柔らかな暖かさが潜んでいる。


僕は、一歩を踏み出した。


この一歩が、物語の始まりだ。


僕がこれから歩む道は、ゲームの制作者たちが用意した「ハッピーエンド」への道ではないかもしれない。


システムに逆らい、選択肢を拒絶し、泥臭く彼女たちの心に寄り添う道。


それは、もしかしたら誰からも祝福されない、孤独な戦いになるのかもしれない。


けれど、僕の胸の中には、確固たる誇りがあった。


僕は、この世界を愛している。


かつて、深夜のテレビ画面の前で、小さな心臓をバクバクさせながら見守っていた、あの少年だった僕に、恥じない生き方をしたい。


「……行こう」


隣に並んだ澪に向かって、僕は短く告げた。


坂道の向こうから、一陣の風が吹き抜けた。


それは、潮の香りと、そして新しい物語の予感を運んでくる、祝福の風だった。


だが、その時の僕はまだ知らなかった。


僕が救おうとしている彼女たちが、数年後、僕に対してどれほど「切実」で、そして「重すぎる」好意を抱くことになるのかを。


そして、僕が頑なに守ろうとした「清らかな関係」が、彼女たちの情熱によって、いかに激しく揺さぶられることになるのかを。


今はまだ、琥珀色の思い出の中に浸っていたい僕の足元で、運命の歯車が静かに、けれど力強く、回り始めていた。




―――――あとがき―――――

今作をここまで読んでいただき、誠にありがとうございます。

少しでも続きが気になった方は、モチベーションに繋がりますので、

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――――――――――――――

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