第1話 俺は天下を取るような人間じゃない
豚は、どちらの家のものでもなさそうな顔で草を食っていた。
「だから、その豚はうちのだ!」
「何を言う。耳の欠け方を見ろ、俺の家の豚だ!」
市場の真ん中で、男二人が怒鳴り合っている。
片方は青筋を立てている。もう片方は手を腰に当てて、いつでも殴れる姿勢をしている。
正直、豚がどちらの家のものかなんて、俺にはどうでもよかった。
問題は、ここで殴り合いになると、俺の仕事が増えることだ。
血が出る。誰かが泣く。役所に呼ばれる。上役に怒られる。報告を書かされる。
最悪である。
俺の昼寝が消える。
周りの連中は、少しずつ輪を広げていた。
巻き込まれたくない時、人は自然に後ろへ下がる。
俺はその輪の外から、豚を見た。
男たちを見た。
近くで腕を組んでいる肉売りの大男を見た。
「樊噲」
呼ぶと、大男が顔を上げた。
「なんだ、劉邦」
「この豚、どっちのだと思う」
「知らん」
「じゃあ今夜まで預かれ。二人には明日までに証拠を持ってこさせる。証拠がなければ、半分ずつ肉にして分けろ」
「俺に面倒を押しつけるな」
「お前が一番、豚に逃げられん顔をしている」
「顔で仕事を決めるな」
「腕でも決めている」
樊噲は一瞬黙り、それから腹の底から笑った。
「そういう雑なところは嫌いじゃねえ」
樊噲が豚を抱えると、豚は情けない声で鳴いた。
男二人はまだ文句を言っていたが、殴り合いにはならなかった。
勝ったわけではない。
解決したわけでもない。
ただ、今日ここで血が出るのを先に延ばしただけだ。
俺の仕事は、だいたいそういうものだった。
俺は沛県という田舎町で、亭長をしている。
亭長。
偉そうな字面だが、実態は地方の雑用役人だ。
酔っ払い、畑の喧嘩、税の揉め事。上が面倒だと思った仕事は、だいたい俺に落ちてくる。
つまり、俺は偉くない。
便利なだけだ。
俺は強くない。
学があるわけでもない。
酒は好きだし、働くより寝ていたい。
責任は嫌いだ。責任という言葉は、たいてい飯と酒をまずくする。
ただ、顔見知りは多かった。
市場の女房連中、荷車を引く男たち、肉を売る大男、役所の奥で数字ばかり見ている同僚。
誰が怒ると先に手を出すか。
誰が黙っている時ほど危ないか。
誰が嘘をつくと目をそらすか。
誰が飯を食わせれば機嫌を直すか。
そういうことは、なんとなく覚えていた。
才能ではない。
面倒な奴を早めに見分けないと、俺の昼寝が消える。
それだけだ。
樊噲が豚を抱えて市場の端へ行くと、揉めていた男たちは俺に詰め寄ってきた。
「亭長殿、あんなのでいいんですか」
「明日、役所で正式に調べる」
「正式に?」
「そうだ。証拠を持ってこい」
「証拠って何を」
「お前の豚だと分かるものだ」
「そんなものあるか」
「なら、相手の豚でもないだろ」
男は口を開けたまま止まった。
正式に調べる、などと言ったが、そんな手間のかかることを本気でやるつもりはなかった。
一晩置けば、怒りは少し冷める。
冷めなかったら、その時また別の嘘を考える。
俺の仕事は、だいたいそういうものだった。
揉め事を解決するのではない。
今日の拳を、明日へ先送りする。
もう一人が怒鳴る。
「俺は耳の欠け方を覚えている!」
「じゃあ、今から樊噲に耳だけ描いてもらえ」
「肉屋に絵を描かせるな!」
周りで笑いが起きた。
怒りは、笑われると少しだけ形を失う。
完全には消えない。だが、拳に変わる前に崩れることがある。
俺はそれで十分だった。
市場の端で、女が腕を組んでいた。
呂雉。
俺の妻である。
見つかると、酒代より面倒なことになる相手だ。
「明日、正式に調べるって言ったわね」
「言った」
「やるの」
「やらない」
「でしょうね」
呂雉はため息をついた。
「なら、樊噲に豚を預けたことだけは覚えておきなさい。明日、二人がまた来た時に、何も覚えていない顔をすると、今度はあなたが揉め事になるわ」
「俺を豚みたいに言うな」
「豚は逃げないように預けられた。あなたは責任から逃げる。豚の方がましね」
言い返せなかった。
呂雉は俺の嘘を、だいたい一晩で見抜く。
だから俺は、家ではあまり偉そうなことを言わない。
外で言った嘘だけで、もう十分に面倒だからだ。
市場を抜ける時、女房の一人が小声で言った。
「劉邦さん、あの二人、前にも揉めてましたよ」
「知ってる」
「また明日も来ますよ」
「知ってる」
「面倒ですね」
「だから今日殴らせなかったんだ。二日連続で呼ばれたくない」
女房は笑った。
俺も少し笑った。
怒鳴る者は見える。
殴る者も見える。
豚も見える。
見えるものなら、誰かに押しつけられる。
役所へ戻ると、見えない面倒が待っていた。
上役が竹簡を持っている。
良い知らせだったことは、ほとんどない。
「劉邦」
上役は俺の顔を見るなり言った。
「囚人を咸陽まで護送しろ」
咸陽。
秦の帝都だ。
遠い。とにかく遠い。
しかも秦の法は重い。
遅れたら罰。逃がしたら罰。数が合わなくても、だいたい俺が終わる。
「俺が、ですか」
「そうだ」
「遠いですよ」
「分かっている」
「道も悪い」
「分かっている」
「囚人は逃げますよ」
「逃がさなければいい」
簡単に言う。
逃がさなければいい。
腹が減らなければいい、雨が降らなければいい、人間が空を飛べればいい、くらい簡単に言う。
「樊噲に頼みませんか」
「肉屋に囚人を護送させてどうする」
「豚は逃がしませんでした」
「劉邦」
「はい」
「命令だ」
駄目だった。
俺は竹簡を見た。
上役の顔を見た。
外の空を見た。
どれを見ても、良い未来は見えなかった。
「断ったら?」
「命令だ」
「ですよね」
竹簡を受け取る。
軽いはずなのに、やけに重かった。
市場の豚なら、樊噲に預ければよかった。
だが、囚人を帝都まで連れていく仕事は、誰に預ければいいのか。
この時点で、俺の人生はだいたい詰んでいた。
少なくとも俺には、そう見えた。
市場の豚より、ずっと逃げやすそうで、ずっと逃がしてはいけない荷物だった。
俺はそのことだけを見ていた。




