7 叫び
育ての親に売られたたえは、それから奥蝦夷地に流れ着くまでのことを語っていない。一人でウトマの浦に流れ着いたたえはアイヌに拾われ、九寸五分の鉄の刀身ひとつとひきかえに、金堀たちに売られた。九人の金堀たちはたえを監禁し、かわるがわる慰みものにした。久蔵は、そうした事情の幾分かは察していたが、何も尋ねようとはしなかった。久蔵の動機とは、何のかかわりもないことだったからだ。
神々が泥をこねまわして気まぐれに盛り上げたような、とりとめもなく波打つ大地の上に、雪解け水が溢れている。朝からたちこめた霧がいつまでも消えず、見通しはきかない。
だが、それは待ち伏せする側に利となるはずだった。追っ手は水音を立てずには動けない。それを嫌えばまんじゅうのような岡の上に登って身をさらさずにはすまない。その影は霧を通しても見分けられる。こちらは地形に身を隠したまま狙い撃てる。
「ここで勝負をつける。たえは先に行け」
まっすぐに走り続ければ、海まではそう遠くない。海まで出れば、キリシタンナイコタンの集落が見えるはずだった。そこに飛び込めば、追っ手も手出しはできない。
しかしたえは言った。
「いやだ。私も戦う」
久蔵は目を丸くした。たえの顔は真剣そのものだった。
「あの男達は、私が連れてきたのだ。あの人は、私のせいで死んだ」
「行者さまの近くに奴らを引き入れたのは俺だ。お前が背負うことではない」
「私のことで、久蔵は背負いすぎている」
「いいんだ。おまえには借りがある」
「そんなものはない。いったい何を言っているのだ」
「おまえは俺に生きる理由をくれた。それが借りだ」
意味が伝わるとは思っていなかったが、久蔵はそれ以上何も言わなかった。
ずっと昔、決して触れてはいけなかった女と恋に落ちたこと、それが露見した後、女が何処かに連れて行かれ、久蔵も村を追われたこと、女を捜し求めて十年を過ごしたこと。十年たったのちに初めて、女は嫁にやられた先ですぐに、自ら命を絶っていたと知らされたこと。それからずっと、取り返せるはずのないものを取り返そうとして、あてもなくさ迷い、こんな蝦夷地の果てにまで流れ着いてしまったこと。
すべて、口にだしてもしかたのないことだった。あの女の面影を、たえに重ねているわけではない。その女が好きだったということ以外、もう、顔さえ思い出せなくなっているのだ。そんなことではなかった。心が死んで、身体だけが生き残ってしまった。そんな有様から抜け出す道を、ようやっと見つけたのだ。久蔵にとってその道とは、たえそのものだったのだ。
水辺から頭を出したフキノトウのつぼみに、霧の中から蝶が飛んできてとまった。ふわりと、海のほうから風が吹いた。それに乗って、蝶がとびたつ。空に巻き上げられるように、霧が消えていく。気配を感じた。何か言いかけようとするたえの口をふさいだ。ばしゃりと、遠くで水音が響いた。
六郎たちが追いついてきたのだ。
弾丸がとどくぎりぎりの間合いで、最初の一人を倒した。しかし、銃を撃つということは、こちらの居場所が知られるということだ。
二人目を狙って岩陰から筒先を突き出したとき、目の前の土塊がはじけ散った。煙の立ち昇るあたりに銃口を向けると、今度は逆方向から銃撃を浴びた。
その間に、六郎ともう一人がこちらにむかって驀進してくる。間合いは三町か四町、わずかな距離だ。
久蔵はたえに銃を持たせた。
「撃たなくていい。頭を出さずに筒先だけを見せて、敵の弾を引き寄せろ。いいな、絶対に頭を出すな」
たえは何か言いかけたようだったが、ぐずぐずしている暇はなかった。久蔵は山刀を抜き、左の射手に向かって走った。
正面で銃火が閃く。当たるとは思っていなかった。銃弾は山なりに飛ぶ。刻々近づいてくる相手に狙いを定めるには、それなりの技量と度胸が必要だ。ひゅんという音が頭上を過ぎる。水溜りを蹴りたてて土の上に駆け上がり、跳ぶ。大口を開けて凍り付いている射手の前に着地し、山刀を振り下ろす。射手は両手に持った銃で頭をかばった。
鉄と鉄がぶつかる。はじき返されそうになる山刀を、ひた押しに押した。刃がじわじわと首筋に近づき、食い込み、射手ははじけるように悲鳴を上げた。
熱いほどの血しぶきを全身に受けながら、久蔵は銃を奪い取った。ぜえぜえと呼吸しながら弾と玉薬を探し、装弾する。二の腕を火のようなものがかすめ、直後に銃声がとどく。槊杖、口薬、火縄。岩陰から敵を伺う。槊杖を使うときは、身を伏せたままではいられない。その瞬間を狙い、撃った。
次。
残るは飛び道具を持たない二人。一人はためらう様子が見えるが、体躯の大きいほう、六郎には微塵の迷いも無い。いっさんにこちらに突進してくる。手には段平。刃渡りは久蔵の山刀の倍以上、まともに打ち合える得物ではない。
装填し、六郎の体よりも手前に狙いを定め、撃つ。弾丸は腹を撃ちぬく。しかし六郎は止まらない。周囲の水を赤く染めながら、ほとんど変わらぬ速度で立ち向かってくる。早合、槊杖、口薬……装填が終わると同時に火蓋を切る。六郎の姿が目の前に迫る。筒先を胸に突きたてるつもりで、引き金を引いた。
平地での銃声は、頼りなく薄まって消えていく。ぐらり、と六郎の身体が傾く。突進が止まる。あたりに血潮を撒き散らしながら、六郎は段平を振りまわす。思わず銃身で受けた。腕から肩まで痺れるほどの衝撃。銃は弾き飛ばされてしまった。後ろに転がりながら山刀を抜く。ふいごのような息をしながら、六郎は織火のように目を光らて迫ってくる。背筋が寒くなった。後ろに転がるのではなく、得物を抜きながら懐に飛び込む、それ以外に活路はなかったのだと気づいた。
六郎の段平が斜めに振り上げられる。袈裟懸けに切り下ろす構えだ。久蔵は立ち上がれないことに気づく。深い泥地の中に飛び込んでいたのだ。須臾の間に身をかわすことは不可能だ。
「八郎のぉ――仇ぃぃ!」
六郎が吠える。斬撃が来る。
ぱんっ。
何かが、六郎の頭を突き抜けていった。にわか雨のような血潮が水面を叩く。六郎は横様に倒れた。盛大に水しぶきがたつ。
六郎の背後にいた最後の敵は、おびえた声を上げて逃げ去っていった。
久蔵は草を掴んで立ち上がり、銃声のしたほうを見た。
青白い顔をしたたえが、銃を構えたまま立ち尽くしていた。
初めて銃を撃つ者が、暴発もさせず、久蔵にあてることもなく、動く六郎を狙って、正確に頭を撃ち抜いた。千にひとつ、万にひとつのことだった。久蔵は安心するよりも肝が冷えた。
銃を片手にぶら下げ、蹌踉とした足取りで、たえが近づいてくる。
「たえ、大丈夫か」
女の顔色が、普通ではなかった。何かに取り憑かれたもののように、両目を見開いていた。六郎の死に顔を見下ろせる位置まできたとき、たえの手から鉄砲が滑り落ちた。
ぼそぼそと、何事かをつぶやいていた。
「たえ、しっかりしろ」
久蔵はその肩をつかみ、ゆすった。
「……ざまあみろ、思い知ったか……思い知ったか」
六郎の死に顔に目を据えたまま、たえは呪文のようにそんなことをつぶやき続けている。そして、水を流し込まれ続けた皮袋が、耐えに耐えかねて張り裂けるようにして、あふれ出す涙とともに、彼女は叫んだ。
「思い知ったかああ! いい気味だ! いい気味だ! これが報いだ! 地獄に落ちろ、おまえら皆! 報いをうけろ! 報いを受けろ! ざまあみろお!」
そのあとはもう、言葉にならなかった。たえはその場に立ち尽くしたまま、手放しで叫び続け、泣き続けた。
まるで、今生まれた赤児のように。