6 白竜谷の隠者
野生の空間では、生き物は簡単に死んでいく。春に萌え出た草木の下には、去年の枯れ草が横たわっていて、その中には無数の虫たちや獣の死骸が隠されている。死ぬことに意味や理由はない。人間の死であっても、また同じことだ。
下りた先は谷底。川の流れが貫いているはずだが、大蛇が通り過ぎたような雪の窪みが連なって見えるだけだ。たえを抱えたまま川下に向かって走った。八郎に死なれて敵は混乱しているのだろう。追ってきている様子はなかった。雪は止まない。足跡はすぐに隠れるだろう。
下るにつれて、行く手の空が広くなっていく。積もった雪が薄くなって、川面に張った氷があらわになる。
「……久蔵、もういい」
「なんだ」
「自分で走れる、だから……」
おろしてくれ、そう言いたいのだと気づいた。雪の上に立たせてやる。
雪は降り止まない。川が流れ行く先の原野も、雪の幕に閉ざされて見えない。川岸から広がる野原は、四、五町ほどさきで切れ落ちている。切れ落ちる手前に小高く盛り上がった部分があって、その上に傘を伏せたようなものが見える。
壁さえも無い、茅葺の屋根をじかに地面に据えただけの、ごく小さい、簡素というにはあまりに粗末な庵。
それが、久蔵の目指していた場所だった。
「あそこだ。おまえに会わせたい人は、あの庵に住んでいる」そう言った。不審気な顔をして、たえは久蔵を見た。
「何者なのだ、こんな場所に、あんな家を建てて住んでいるのは」
「修験者なのだ。この山にいる化け物を見張っているんだそうだ」
久蔵がそう言うと、ますますたえの顔が曇った。
「ほら、あの方だ」久蔵が指差した先に、ひょっこりと、小さな人影が現れた。
その姿を見て、たえはおびえたような表情を見せた。行者さまは四角張った胴体にやたらと細い手足をした、甲虫の一種のような奇妙な姿をしている。鈴懸も結袈裟もぼろぼろで、数年前に得た病のために目は灰色がかった緑色になっている。
「なにも恐れることはない。すぐにわかる」
久蔵はそう言った。
ひょこ、ひょこ、とやはり何か虫を思わせる歩き方で、行者さまは近づいてきた。
「そろそろ来るだろうと思っていたよ。山が騒いでいたのでね」
行者さまは久蔵の前に立ち止まり、にっ、と笑った。
「行者さまに見ていただきたいものがあって、参りました」
そう言ってたえを促し、木像を渡させた。
行者さまは子安観音を受け取るとその鑿跡に指を這わせながら、
「おまえさまはキリシタンだね。でなければ、キリシタンにゆかりのある者だ」
そう言った。
「これはまりあ観音というものだ。ほら、ここに十字が刻んである。キリシタンのしるしだよ」
たえの顔が曇った。思い出したくないことを思い出している、そんな目をしていた。
「何を恥じることも、引け目を感じることも、恐れることもない。きりしたんはそう悪いものではない。たとえ悪いところがあったとしても、おまえさまが責められることではない」
「知りもしないくせに、いい加減なことを……」
「つらい旅をしてきたのだね、だがそれももうじき終わる。この男は決して、おまえさまを一人にはしないだろう」
その言葉がたえの心にどう響いたのか、久蔵にはわからない。たえは隣に立っている久蔵の顔を見上げて、その顔をまともに覗きこんだ。ひどく真剣な顔をしているが、何も言わない。窮して、久蔵は言った。
「あの文を、行者さまに見てもらってはどうだ」
真っ二つに割れたものをろうで接いだだけなので、刃物の先を少し入れると木像はあっさりと割れた。行者さまは折りたたまれた紙を開くと、しばらくの間目を走らせていた。
たえは久蔵の袖をつかんで、じっとうつむいていた。やがて行者さまが顔をあげて微笑んだ。行者さまは言った。
「つまりこれは、おまえさまのおやじどのから、おふくろさまへ送られた文なのだね。おやじどのは随分若いお人で、不犯の誓いをされていたようだ。ただ一度それを破ってしまったことを、随分苦にしているね。自分のしたことにおそれをなして、相手の女性の前から逃げ出したことも、とても悔やんでいる。相手の女性のことも、生まれたかもしれない子供のこともとても案じているよ」
たえの手が小刻みに震えていた。深くうつむいていたから、どんな顔をしていたのかは分からない。
「そうか、この人は耶蘇会の南蛮人なのだね、役人に見つかれば捕らえられてしまうから、会いにいけないと書いてある。『あなたが暮らしていけるだけの砂金を、一生かけても集める。今すべてを送ることはできないが、あなたが取りに来ることができるように、その場所をここに記す』そう書いてあるよ」
南蛮人のばてれんやいるまんが、砂金掘りたちやアイヌへの布教のために、蝦夷地の奥深くまで入り込んでいるという話は聞いたことがあった。この島のどこかに、生き延びたキリシタン門徒が隠れ住む村があるという噂もあった。
「キリシタンナイコタンだ。アイヌたちがそう呼んでいる場所だ」
行者さまは言った。
久蔵はその土地の名を知っていた。浦河の南の海沿いの土地。ここからそう遠くない。
「この川下に、いかだをひとつつないである。そのあたりまで行けば、川の氷はなかば溶けている。浮かんだ氷をかきわけながらゆけば、川を下ってゆくことができるだろう」
そう言われた。いかだを借りていってしまって、行者さまは困らないのですか、と久蔵はたずねた。
「私はもうそれに乗ることはないよ」
行者さまはそのとき、微笑んでそう言った。
大沢にいたたえに、その木像を届けた男、金掘りの三郎について、行者さまは知っていた。六郎八郎兄弟の、歳の離れた兄で、親代わりとなって二人を育てていたという。三郎は、たえの父もまた金掘りをしていたことを、当然知っていたのだろう。骨身を削って砂金を集めながら、それを酒にも米にも変えることなく、ひたすらどこかに溜め込んでいた異人のことを、二人の弟に告げていたに違いない。その男に頼まれて、奇妙な木像を届けに行ったことも、そしてあるいは、その木像の中身に関することも。
海に向かって南西に流れていた川は、庵の先で大きく東に曲がる。そのあたりはすでに山間でもなく、雪深くもない。雪と泥のあわいから沸き立つように新緑が萌え出でる湿地を川はくねりながら流れ、やがて戻ってきて庵の西側を流れ過ぎる。
そこここで鳥が鳴いていた。風が柔らかかった。
「久蔵、行者さまのお住まいが……」
たえが、斜め上を指差して何か言いかけた。久蔵はいかだを操るのに忙しく、顔を上げる余裕がなかった。
「ああ、そうだな」と生返事をし、そしてようやっと気づく。
風にまじる、煙の臭いに。
ぎょっとして顔を上げた。草庵が燃えていた。煙の柱が、舞い散る雪の中に突き立っていた。傍らに雄牛のような体格の人影。その腕が打ち振られたかと思うと、何かが飛んできていかだの上で潰れた。
たえが、喉が破けたような声をたてた。久蔵には、見るまえから何かわかっていた。
スイカほどの大きさの丸いもの。血にまみれたそれは、行者さまの生首だった。




