9 青空
そして、冬の中に帰った。
行者さまの庵の跡は、雪に覆いつくされて見分けがたいほどの有様だった。行者さまの亡骸を探し出し、雪を掘り、凍った土を掘り返して埋めた。川原の石を運んで墓標にした。
すべてを終えて、ぬかづいて手を合わせていたら、身体から力が抜け落ちていくような感覚に襲われた。
「不思議な人だったな」
隣で手を合わせていたたえが、そう言った。
「ああ」
「化け物を見張っているとかわけのわからないことを言って」
「ああ」
「でも、本当のことをすべて知っていた。知っていたのに、あんなに優しかった」
「そうだな」
「私のせいかな」
「何がだ」
「私が殺したようなものだ、違うか」
「俺は俺が死なせたと思っているが、おまえが自分でそう思うのはどうしようもない。二人で背負っていこう。殺した他のすべての者共と一緒に」
たえは、しばらく黙っていた。ちょっと潰れたような声で、やがてこう言った。
「久蔵、おまえは酷い奴だ」
「……そうかもしれん」
「久蔵のせいで、私はすっかり弱くなった。どんな目にあっても平気だったのに、何も感じずにいたのに、今は違う。悲しみや苦しみが、いちいち胸に突き刺さる」
「そうか」
「これからのことを思うと、怖いような、胸が高鳴るような、不思議な気持ちになる。この気持ちをなんというのだろう。おまえのそばにいると、胸の中が温かくなって、何があっても安心だという気持ちになる。この気持ちはなんというのだろう。この胸の中に、そんなものがあるとさえ知らなかったいくつもの思いが、次々に生まれてくるんだ。生きているというのは、ずいぶん不思議なことなのだな。おまえのせいだよ、久蔵。おまえと一緒にいる間に、私はすっかり変えられてしまった」
「俺が何かしたわけじゃない。俺はおまえが死なないように見ていただけだ。おまえは、自分で勝手に変わったんだ」
「同じことだよ、久蔵。私にとっては、同じことだ」
「どうする、これから」
「この人が言っていた。久蔵は私を一人にしないと。間違いではないのだろう」
優しい目が、久蔵の顔を覗き込んでいた。たえがこんなふうに微笑む女だったとは、出会ったころは思いも寄らなかった。ふと気づくと久蔵自身、この女のそばでは、あたりまえのように微笑んでいたのだった。
立ち上がり、言った。
「来るか、俺と」
膝をついたまま久蔵を見上げて、たえが頷こうとしたときだった。
その目のなかに、光るものが映った。
素早く息を吐き出すような音とともに、突然の痛みが背中を刺し貫いた。
何が起きたのか悟るより先に、身体が動いていた。凍りついているたえの襟首をひっつかみ、横抱きに抱え上げて白樺の木立のなかに走りこんだ。
影を縫いとめるように、幾本もの矢が雪面に突き立つ。林の中で久蔵は膝をついた。手足が小刻みに震える。吸い込んでも吸い込んでも息ができない。
「たえ、抜いてくれ」
切れ切れの息の下でそう告げた。
たえが頷き、久蔵の背中に回る。肉がえぐられ、血が勢いよく噴き出した。
「矢羽根は、赤いか」
青ざめた顔でたえが頷く。
カンリリカ。最後の最後に獲物を狩りにきたか。
「これを、持っていけ」
皮袋を渡した。
「でも、これは」
「林の中を駆け上がって、あの崖淵の一本松の根元まで行け。そこにこれを置いて、登れるだけ上に登れ。決して下りてくるな」
「待て、何をするつもりなのだ」
「時を無駄にするな。行け!」
たえが登っていく林の南側、一本松の下の斜面は木が生えておらず、一面に雪が積もっている。雪の層は厚いが、横断するように幾筋もの割れ目が走っている。久蔵は震える指で弾を込め、射撃の準備をする。この毒は、たえを狙ったものとは違う、殺すためのものだ。だからカンリリカも手下のアイヌたちも、久蔵はもう死んだものと見なして、たえの行方だけを追っていく。たえが林から出ないかぎり矢は容易にあたるまい。一本松の下に皮袋を置いていけば、彼らの注意はそちらに集中するだろう。久蔵は片膝をつき、一本松の根元に筒先を向けた。視界にたえが入ってくる。矢が何本か落ちるが、頭上で動いている的を狙って下から射てもそう当たるものではない。たえが皮袋を捨てた。狙いどおり、追っ手たちが騒然となって、勢いづいて雪原に集まってくる。久蔵は呼吸を止めた。足のふるえよ止まれ。手のふるえよ止まれ、そう念じる。視野が狭まってくる。頭の奥で紫色の光が明滅している。奥歯を固く噛み締めていることに気づき、目を瞑る。ゆっくりと息を吐きだし、肺を空にする。
止まった。
目を開き、わずかに照準を修正した。
――目を覚ませ、化け物。
念じて、引き金を引いた。
弾丸は皮袋を撃ちぬき、中の火薬を爆発させた。それのみでは誰一人殺すことも傷つけることさえできない。だがその爆音と振動は、雪原全体を巻き込む雪崩を引き起こす。
ぱっ、と巨大な雪煙が立ち上った。突風とともに、視野一杯に白いものが広がって、押し寄せてきた。白い竜が、吠えながら駆け下ってきた。
「久蔵、目を覚ませ。久蔵!」
目を開くと、たえの顔が見えた。また泣いていた。樹林は雪崩の力を受け流す働きをする。雪崩を生き延びたのは計算どおりだった。
ただ……
「敵は、何人残った」
「みんな雪の下だ。何人か生き残ったが、逃げていった」
「そうか。じゃあな」
「何言ってる、じゃあなって何だ。これから一緒に帰るんだろう」
「見てわかるはずだ。カンリリカの矢毒がまわっている。俺はもうすぐ死ぬ」
「駄目だ。死ぬな。私が人を呼んでくる」
誰かいませんか、そう叫んで、駆け出そうとする。その袖をつかんで、ひきとめた。
「無駄だ。叫んだって助けなんか来ない」
「天地をひっくり返して逆さに振ってでも、人を見つけて連れてくる」
最期ぐらい一緒にいてくれ。そう言おうとしたが、やめた。
「好きにするさ」
もう指の感覚がなくなっていて、自分がたえの袖を離したことにも気づかなかった。たえは、撃ち出された弾丸のように飛び出していった。もう、首を動かすことも出来なかったから、その後姿を見送ることもかなわなかった。全身を痙攣が襲う。まるで水の中にいるように、息が苦しい。身体が内側から壊れようとしているような音が、喉から溢れる。
雪崩の振動と風に揺さぶられて、雪を落とした頭上の木々の枝には、もう新緑が芽生えていた。
その向こうには、ただ静かに、明るい青空が広がっていた。
了




