旅立ちの日の記憶と、託された手
ルカはしばらく迷った末、静かにヴィンセントの向かいの革ソファーへと腰を下ろした。
車内には、規則的な車輪の音と、静かに冷めていくスープの余熱だけが漂っている。
「……先生」
「なんだ」
「……僕を引き取ってくれたときのこと、覚えてますか?」
不意の質問に、ヴィンセントはかすかに眉を動かした。いつもなら「くだらん質問をするな」と一蹴するところだったが、窓の外の幻影の名残が彼の心を少しだけ柔らかくしていたのかもしれない。ヴィンセントは背もたれに深く身体を預け、天井の真鍮天球儀へと視線を投げた。
「……覚えている。忘れるはずもなかろう。あの日も、今日のように酷く冷え込む荒野の朝だった」
ヴィンセントの低く落ち着いた声が、記憶の扉をゆっくりと開いていく。
「お前の故郷の街は、すでに『色彩』の八割を失い、世界の端からボロボロと崩れ落ちるように滅びに向かっていた。お前の両親は、崩落する街の中央広場で、ただ一人のお前を守るように身を寄せていた」
ルカの胸が、ギュッと締め付けられた。
ルカの記憶にある両親の姿は、すでに曖昧なシルエットと、温かな手ざわりくらいしか残っていない。世界が滅びを早めていた当時、幼かったルカには何が起きているのかすら理解できていなかったのだ。
「お前の父親は、私に言ったのだ」
ヴィンセントの瞳が、過去の光景を慈しむように細められる。
「『この子は、世界の美しさを知る前に暗闇に飲み込まれてしまう。どうかこの子を連れて行ってくれ。世界の終わりまで……いや、もしその先に新しい世界があるのなら、そこまでこの子に世界の形を見せてやってほしい』……とな」
「父さんが……そんなことを……」
「そうだ。そしてお前の母親は、お前の手にこの『手帳』と鉛筆を握らせ、私にお前を託したのだ。……お前の小さな手は、あの時、氷のように冷たかった」
ヴィンセントは自分の大きな手を見つめた。
「私はその手を取り、我がコートの裾を掴ませて列車に乗せた。……以来、お前はへっぴり腰のまま、私の後ろを付いてきているというわけだ」
ルカは膝の上で自分の両手を固く握りしめた。
幼い頃の記憶が、薄霧の向こうからかすかに蘇ってくる。
恐ろしく背が高く、漆黒のコートを着た威厳あふれる男。自分の手を取ってくれたその大きな手の温もりと、古い羊皮紙と紅茶の匂い。暗闇に怯える自分に、一度も『拒絶』の言葉を吐くことなく、ただ前を歩き続けてくれた背中。
「……先生は、怖くなかったんですか?」
ルカはぽつりと尋ねた。
「滅びていく世界で、僕みたいな子供を抱えて……過去の記憶を全部背負って走るのが」
ヴィンセントは一瞬だけ口を閉ざし、それからふっと鼻で笑った。
「怖いだと? 戯言を。私はアークメイジだぞ。過去の記憶がどれほど重かろうと、世界の滅びがどれほど深かろうと、私が折れることなどあってはならん」
そう強がるヴィンセントだったが、彼はすぐに視線を少しだけ落とし、優しい声で付け加えた。
「……だが、お前が描く不格好なスケッチや、お前が淹れる拙いスープが、この過酷な旅の車内にわずかな『温もり』をもたらしていることまで否定はせん。……お前がいたからこそ、我が列車は今日まで走り続けられたのかもしれん」
「先生……」
滅多に自分を褒めない師からの、不器用で、けれど最大限の温かさを込めた言葉。
ルカの瞳に、不意に小さな涙が浮かんだ。ルカは慌てて長衣の袖でそれを拭い、恥ずかしさを誤魔化すように大きめの溜め息をついた。
「……もう、そういう大事な話は、先生が淹れてくれた紅茶を飲みながら聞きたかったです」
「ぬかせ。お前に飲ませる茶は、今夜までお預けだ」
ヴィンセントはそう言うと、照れ隠しのようにいつもの厳格な表情に戻り、デスクの上の古文書を開いた。
アークメイジは基本的に世界に一人、その時代で最も知恵のあるの魔法使いです。




