第三話 事実ではありませんもの
翌日。
差し込む朝日に包まれた王宮の廊下を、エレノアはどこか困ったような顔で歩いていた。
「おはようございます、エレノア様!」
「おはようございます」
「昨夜は大変でしたね……」
「ええ、本当に……」
侍女は周囲に誰もいないことを確認すると、声をひそめた。
「実は、また妙な噂が流れておりまして」
「また?」
「今度は殿下です」
エレノアは足を止めた。侍女は真剣な顔で頷く。
「殿下が他国の王女様と密会しているとか……昨夜も夜遅くまで二人きりだったそうです。その……浮気ではないか、と」
「それは違いますね」
エレノアは被せるように即答した。
「えっ」
「昨夜は一緒に夕食をいただきましたもの」
「で、ですが、そのあと……」
「書庫へ参りました」
「そのあとです!」
「そのあともご一緒でしたわ。殿下がおすすめの歴史書を貸してくださいまして、わたくしが読み終わるまで待っていてくださったのです」
「……待っていたんですか」
「はい。二時間ほどでしたかしら」
「二時間……」
侍女は遠い目をした。
「それ……密会ではなく、ただのエレノア様との読書会では……」
「わたくしもそう思います」
「エレノア様!聞いてくださいませ!」
そこへ、昨日の侯爵令嬢が待ち構えていたように飛び出してきた。
「何でしょう」
「殿下は昨夜、王女殿下と手を繋いで歩いておりました!」
「手を?」
エレノアは首をかしげ、少し考えてから答えた。
「それはないですね」
「どうして言い切れますの!?」
「昨日、殿下は左手を火傷なさいまして。軟膏を塗って包帯を巻いたのはわたくしです。手を繋いだら痛いですもの」
「…………」
侯爵令嬢の口が金魚のようにぱくぱくと動く。
そこへ、噂の王太子本人が歩いてやってきた。
「エレノア」
「おはようございます、殿下」
「包帯を替えてくれるか」
「もちろんです」
侯爵令嬢が視線を落とすと、確かに王太子の左手には痛々しく包帯が巻かれていた。
「何かあったか?」
「殿下が浮気をされたという噂を聞きました」
「初耳だ」
「わたくしもです」
「終わりですの!?」
当然のようなやり取りに、侯爵令嬢は我慢できずに叫ぶと、二人が同時に振り向く。
「「はい?」」
「もっとこう……疑うとか!驚くとかあるでしょう!?」
「事実ではありませんもの」
エレノアがきょとんとした顔で首をかしげる。
「事実ではないお話に、驚く理由がございますか?」
「で、ですが!」
「昨日はほぼ一日一緒でしたし」
「夜も一緒だった」
王太子が淡々と補足する。侯爵令嬢は頭を抱えた。
「で、では、こちらですわ!殿下は近いうちにあなたとの婚約を破棄し、断罪する準備を進めています!」
最後の切り札とばかりに叫ぶ侯爵令嬢。
エレノアは数回パチパチやまばたきをして、問いただした。
「何をでしょう」
「え?」
「何を断罪するのです?」
「そ、それは……」
「罪がなければ断罪のしようがありませんわよね?」
「…………」
「何をしたことになっておりますの?」
「…………えっと」
「思いついてからいらしてくださいませ」
侯爵令嬢の顔が恥ずかしさで真っ赤に染まる。王太子も不思議そうに首をかしげた。
「私が婚約破棄?」
「予定表をご覧になります?」
「いや、覚えている。そんな予定はない」
「ですよね」
顔を見合わせて微笑む二人。
侯爵令嬢はガクガクと膝を震わせ、絞り出すような声で呟いた。
「どうして……どうしてそんなに、お互いを信じ切れるんですの……」
王太子は即答した。
「信用とは、日々の積み重ねだからだ」
「わたくしも同じです。殿下は嘘がお下手ですもの」
エレノアも楽しそうに笑う。
「そうか?」
「昨日も『包帯は自分で巻ける』とおっしゃって、ぐちゃぐちゃでしたでしょう」
「……否定はできない」
「浮気をなさるくらいでしたら、先に『実は料理を覚えたい』と相談される方です」
「それは相談するな」
「でしょう?」
自然と笑い合う二人。
侯爵令嬢はその空気感を目の当たりにして、ようやく悟った。
帳簿を集めても。
証言を並べても。
映像を用意しても。
毒薬を置いても。
どんな噂を流しても。
この二人は、それらと「目の前の相手」を天秤にかけることすらしない。
最初から答えが決まっているのだ。
「……馬鹿みたい」
「ええ。きっと、傍から見たらそう見えるのでしょうね」
侯爵令嬢は力なく笑い、肩を落とした。
エレノアは穏やかに微笑み、王太子の腕にそっと自分の手を添えた。
「ですが、この方を信じて後悔したことは、一度もありませんの」
「私もだ」
王太子も静かに頷き、添えられた手を優しく握り返した。
その日を境に、王宮から「二人を陥れよう」とする噂や企みは、ぴたりと消え去った。
誰もが理解したからだ。
証拠が足りないのではない。
どれほど巧みな証拠を積み上げようとも、この二人の間に「疑い」が入り込む隙間など、最初からどこにも存在しないのだと。
最後までお付き合いありがとうございました。
異世界恋愛でありがちな、万能帳簿。あれ…なんで印籠みたいな扱いなんだろうな?と思って書いてみました。
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