第一話 なぜ正確だと断言できる
「王太子殿下!ついに証拠を押さえました!」
王宮の大広間に、乾いた音が響き渡った。
侯爵令嬢が、勝利を確信した笑みを浮かべて分厚い帳簿を両手で掲げる。集まっていた貴族たちが一斉に息を呑み、会場にさざ波のようなざわめきが広がった。
「まあ……」
「とうとうか」
「これで婚約破棄だな」
だが、渦中の人物である王太子は、手元のカップから立ち上る湯気を眺め、優雅に紅茶を一口含んだだけだった。静かにカップをソーサーに戻すと、淡々とした声を落とす。
「何の証拠だ?」
「婚約者であるエレノア様が、王宮の備品を横領していた証拠です!」
再び広がるどよめき。王太子は差し出された帳簿へ、一瞬だけ視線を滑らせた。
「誰が書いた?」
「会計官です!」
「信用しない」
しん、と大広間が水を打ったように静まり返った。
「……はい?」
「人が書いたのだろう。なら、改竄できる」
「そ、それはそうですが……!」
「次」
あまりのあっ気なさに、侯爵令嬢は差し出した手を出したまま固まった。周囲の貴族たちも開いた口が塞がらない。
当事者であるはずの婚約者、エレノアだけが、困惑したように小さく首を傾げた。
「殿下?」
「何だ」
「一応、ご覧にはならないのですか?」
「君が書いたのではないのだろう。なら読む意味がない」
あまりに当然と言いたげな顔に、エレノアは困ったように苦笑した。
「ありがとうございます……で、よろしいのでしょうか?」
「礼を言われる程のことでもない」
王太子は心底不思議そうに眉をひそめた。
「十二年間、君という人間を見てきた。昨日今日どこからか沸いて出た紙切れ一枚を、君より優先する理由が分からない」
「で、ですが!帳簿は正確です!」
「なぜ正確だと断言できる?」
「だから……え?」
その一言に、侯爵令嬢の頬が激しく引きつった。
「改ざんされていない証拠はあるのか?」
「そ、それは……」
「以上か?」
「ま、まだあります!」
焦りを隠せなくなった侯爵令嬢は、後ろに控えていた侍女を前へ力任せに押し出した。
「こちらの侍女が見ました!」
背中を押された侍女は、勢いよく頭を下げる。
「確かに見ました!エレノア様が倉庫から宝石箱を持ち出すところを!」
「一人でか?」
「は、はい!」
「時刻と距離は?」
「夕方……二十メートルほど離れていました」
「君は近視だな。昨日も庭園で柱にぶつかっていただろう」
「えっ!?」
「私は見ていた」
侍女の顔から一瞬で血の気が引いていく。王太子はゆっくりと肘を突き、組んだ手の上に顎を乗せた。
「夕方、二十メートル先、そして近視。……誤認の可能性」
「で、ですが!」
「君は『見た』と証言しただけだ。人間は記憶を都合よく改変する。それが『間違いなくエレノアだった』という証明にはならない」
言い開きの隙すら与えない、冷徹なまでの論理の刃。
広場のあちこちから、呆気にとられたような溜め息が漏れ聞こえた。
「殿下、今日は妙に手厳しいな……」
「いや、いつも通りでは?感情ではなく事実と論理しか見ていない」
「というか、完全に一方的に論破されているぞ……」
そんな雰囲気を打ち破るように、エレノアがおずおずと口を開いた。
「殿下。わたくし、倉庫には参りました」
「ほら見なさい!」
その告白に、今度こそ大広間がどよめいた。侯爵令嬢の顔がぱっと明るくなる。
しかし、王太子の反応はあまりにも早かった。
「庭師に頼まれた肥料を届けに、だろう」
即答だった。思考のラグすら存在しない。
「三日前、庭師から私に許可申請があった」
「覚えていらしたのですか?」
「私が許可した」
「でしたら最初から仰ってくだされば……」
「聞かれなかった」
「……それもそうですわね」
二人の噛み合っているようで噛み合っていない会話に、侯爵令嬢は思わず叫んだ。
「そんな細かいことまで覚えているんですの!?」
「婚約者のことだからな」
当たり前の事実として返され、侯爵令嬢は屈辱に歯を食いしばる。
「で、ではこれは!侍女十二名の署名入り証言書です!」
今度は懐から数枚の紙を取り出し、勢いよく広げた。
王太子は無感情にそれを受け取る。侯爵令嬢は「勝った」と言わんばかりの笑みを浮かべた。
王太子は一枚めくる。二枚めくる。三枚めくる。四枚めくる。
めくるたびに、カサリという不穏な音だけが響く。
「どうです!」
「同じ筆跡だな。名前だけ書き分けてある」
「…………え?そ、そんなはずは……」
「『リ』を書くとき、全員同じ癖がある。『ナ』も、『サ』もそうだ。一人で書いたのだろう」
王太子は興味を失ったように証言書を突き返した。
「やり直し」
侯爵令嬢の顔からすーっと色が引いていく。あまりに容赦のない洞察力に、エレノアが思わず尋ねた。
「殿下、どうしてそこまでお分かりになりますの?」
「君の手紙を十二年見ているからだ。筆跡を見る癖がついた」
「わたくしのせいですの!?」
「毎週手紙をくれるからな」
「そんな理由で……」
エレノアは頭が痛そうに額を押さえた。
「殿下、それは普通の方が身につける技術ではありませんわ」
「そうなのか?」
「そうです」
周囲の貴族たちも、心から共感したように深く深く頷いている。
その時だった。
「まだ終わっておりません!さぁっ!魔導具をお持ちしなさい!」
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